さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

宝経の読書感想文4

 私はいつもブログでえらそうなことを言っているが、今日気付いた。

 

 自分の中に強烈な慢があることを。

 

 思い当たる限り生まれてこの方ずっとあった、「私は偉い、私は特別だ、私は他の人とは違う」という慢、高慢で、それに苦しめられていたのだ、と。

 

 こういう時、私は大変嬉しくなる。「うわ、こいつ、こんなこと思ってるくせに、「自分は頭が良い」とか思ってやがる。バカじゃねーのw」と。

 

 本当のことを言うと、そういうことに気づく寸前、逡巡がある。やはりすぐには受け入れられない。しかし気付いた後に、思うのだ。「自分はなんとバカだったのか」と。

 

 

 まあ大丈夫だろうが、一応念のために書いておくと、私は決して今日阿羅漢に悟ったわけではない(笑)。こういう所、アビダンマをやっていると逆に面倒になる気がしないでもないwが、まあ恐らく(というか確実に)まだまだ慢があるだろう。現時点では気付いていないが。

 

 またこちらも念のため書いておくことだが、では高慢には、「私は偉くない、私は特別ではない、私は他人と違わない」と思えばいいか、というと、今度はこれでは卑下慢とか等慢になってしまう。結局は、慢に対しても慈悲の冥想など、仏道の実践が必要なのだ、という結論になってしまう。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

4.
khayaṃ virāgaṃ amataṃ paṇītaṃ
カヤン ウィラーガン アマタン パニータン
釈迦牟尼世尊が達した禅定は煩悩を無くす、
yadajjhagā sakyamunī samāhito,
ダッジャガー サッキャムニー サマーヒトー
欲から離れる、涅槃に達する素晴らしいものです。
na tena dhammena samatthi kiñci
ナ テーナ ダンメーナ サマッティ キンチ
どこにもその教えと同じ宝はありません。
idampi dhamme ratanaṃ paṇītaṃ
イダンピ ダンメー ラタナン パニータン
この理由でその教えは宝です。
etena saccena suvatthi hotu.
エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
この真実によって幸福でありますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 これも直接お釈迦様がアーナンダ尊者に伝えた偈だ。宝経のなかで仏法僧が宝です、という偈を伝えていることになる。

 

 法とはなにが宝なのか、それは煩悩を無くし欲から離れ、不死の境地に至る教え。それは宝です、と。

 

 涅槃の言い方は何十種類もある、とは以前に書いた。そこで不死という表現もよく出てくるが、私はこれが良くわからない。

 

 もう何年も前になるが、名古屋でスマナサーラ長老から、宿題が出されていた(もちろんいつものごとく、個人的に、というわけではない)。「では、不死とは?」と。

 

 以前確か施設か勝義諦の所で書いたと思うが、涅槃は常住。だから不死なのか、輪廻の死を乗り越えたから不死なのか、シンハラ語ではこう言って祝福する通り、不老不死の境地だから不死なのか。なんかいまだにしっくり来ていない。もっと深い意味があるような気がしてならないのだが、もしかしたらそれは死隨念をまともにやっていないからかも知れない。

 

 「sakyamuī サッキャムニー」。もしかしたら場所によっては、「sakkyamunī」という綴りになっているかも知れない。「サッキャ」と読むからだ。

 

 私はシンハラ文字が読めるわけではないのでわからないのだが、そこからローマ字化すると、sakyamuīこうなるらしい。いつものtipitaka.orgでもそうなっているので、一応こちらが正式なパーリ語のローマ字綴り、ということになるだろう。

 

 ま、とにかく他の教えで煩悩を無くす、欲から離れる、不死、涅槃に至る教えはないでしょ?だからこの教えは比較のしようがないほどの宝です、この真実によって幸福でありますように。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

5.
yaṃ buddhaseṭṭho parivaṇṇayī suciṃ
ヤン ブッダセットー パリワンナイー スチン
聖なる佛陀は
samādhimānantarikaññamāhu,
サマーディマーナンタリカンニャマーフ
聖なる無間禅定を教えました。
samādhinā te na samo na vijjati
サマーディナー テー ナ サモー ナ ウィッジャティ
その禅定と同じ禅定はありません。
idampi dhamme ratanaṃ paṇītaṃ
イダンピ ダンメー ラタナン パニータン
この理由でその教えは宝です。
etena saccena suvatthi hotu.
エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
この真実によって幸福でありますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 ここからが、アーナンダ尊者が加えた注釈だ。

 

 ここからだ、偈の順番がわからなくなってしまうのは…。なにか法則性があるのかも知れないが、なんだかそれで覚えるのも負けた気がする。暗記というのは、そういうものではない気がするんだ(と強がってみる)。

 

 ここでは禅定をきっちりとsamādhiと言って、フォーカスして説いている。

 

 ここでは無間禅定と限定しているが、無間と言えば、アビダンマで言えば路の中で道と果の間が無く、即座に結果が現れることで、時間を長く見ると、この世で道を得ればあの世で果を得るのではなくこの世で果が間違いなく得られる、ということを指す。つまり、道を得た人は必ず、絶対にこの世で果を得る、ということだ。その前に死ぬことはあり得ない。

 

 というわけで、預流道というのは道を得ている人のことなのだが、アビダンマ的に言ってしまうと、路心一つ、一刹那の瞬間だけ、ということになってしまう(笑)。次の瞬間、一刹那後には果を得て、預流果になってしまっているのだから。

 

 しかし、そのことについてわざわざ、この直後に出てくる四双八輩と、とりたてて言わないだろう、いくら細かいテーラワーダといえども。いや、言うかも知れないが。

 

 なので、預流道に入った人というのは、この世で預流果に入ることが確定した人のこと。修行されたお坊様なら見てわかるのかも知れない。

 

 また、もしかしたら、聖なる教えを聴いて預流果を目指している人なのだから預流向、と言われたことのある人もいるかもしれない。

 

 これはどれも、「方便」とまでは言えない。最後についてはよくわからないが、恐らく正式な定義だ。そして、こういういくつかある定義を、お坊様は行き来してお話しなさる。だから、知らない人が聞くと「それは違う!」と言いたくなる気持ちはよくわかる。私も最初は混乱したものだ。

 

 しかしこれこそが、「その場その場に合わせた智慧」だ。どこにいてもまったく同じ公式で通じる知識、つまり固定された「施設」ではない、ということだ。世俗諦を乗り越えるというのはそういうことであるが、しかしテーラワーダはそういうことすら世俗諦で教え切ってしまう。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

6.
ye puggalā aṭṭha sataṃ pasatthā
イェー プッガラー アッタ サタン パサッター
有徳者が褒める聖なる八人、組でいうと四組、
cattāri etāni yugāni honti,
チャッターリ エーターニ ユガーニ ホンティ
お釈迦様の弟子たちは、
te dakkhiṇeyyā sugatassa sāvakā
テー ダッキネイヤー スガタッサ サーワカー
功徳を積む為にお供えをするべき人たちです。
etesu dinnāni mahapphalāni,
エーテース ディンナーニ マハッパラーニ
その人たちにお布施をすると、無量の徳が得られます。
idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ
イダンピ サンゲー ラタナン パニータン
この理由で僧伽(サンガ)は宝です。
etena saccena suvatthi hotu.
エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
この真実によって幸福でありますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「idampi saṅghe」。別に、「idaṃpi saṃghe」としても問題ないそうだ。

 

 発音も、ここでもすべて「ン」「ṃ」で済ませている。ただ、正式には後の綴りに対応させて「idampi saṅghe」とやった方が、かっこいいはかっこいいらしい。シンハラ文字ではそうするので、ローマ字でもそれに対応させてそうなのだ、と教わった。スリランカ発音ではどうせすべて「ン」「ṃ」でOK。

 

 よくは知らないのだが、確か日本語の「ん」は五種類だか発音がある。普通は一種類だけだと思っているだろう。

 

 「漫画」の「ん」、何時?の「ん」、タンベルの「ん」とかくらいしか今すぐには思いつかないが、日本語ではそれに文字を対応させたりしない。

 

 地方にもよるかも知れないが、鼻濁音だったりそうでなかったりも、別に文字を変えたりしないだろう。

 

 ま、そういうわけで、パーリ語をローマ字で書く時には、どれも全てṃとやってしまっても別に構わない。全て変えた方が「お、こいつ、わかってるな」と見せられてかっこいいわけだ(笑)が、さすがにこういう経典を披歴するようなところでは、しっかりと正式なものを踏襲した方が良いだろう。

 

 さて、この四双八輩の聖者というのは、どういう人たちなのだろうか。

 

 世間一般に、聖者というと世捨て人のようなイメージかも知れない。そういう人もいるかも知れない。しかし、テーラワーダでは、そうでない人もいるかも知れない。

 

 いつも思うのだが、スマナサーラ長老の口ぶりでいくと、あまりに欲に対して厳しすぎるのではないか、と思う。そういう時期も必要かもしれない。でも、もういいのではないか、と個人的には思う。お釈迦様も、在家に対しては、普通の欲に対してはなにも言っていない。異常な欲は、ダメだ。

 

 sabbe saṅkhārā dukkhāもそうだ。「すべては苦だ。すべてどうせ苦しい」ととってもいい時もある。そう言わざるを得ない時だってある。しかし、楽しみが無いわけではない。スマナサーラ長老も言うではないか、「楽しみが無いと頭が働かない」と。

 

 アビダンマの心は89あるが、喜倶相応心は相当数ある。その中で良くない、即ち不善の心は貪根心の4つだけだ。

 

 どうしても、仏教はじめ宗教をやっていると、禁欲こそ正しい、という方向になってしまう。ヨーロッパの楽壇も、現代音楽は「快楽を得ることは不善で、快楽でない方に行こう」となってしまって、結果「しらけ」に向かってしまった。

 

 はっきり言う。不貪は、禁欲とは違う。世間で言う禁欲は、人に見せるための禁欲だろう。テーラワーダの不貪は、自分の心の中の不貪。だから、他の宗教と違って、世間から欲を刺激するものを排除しようとは、あまりしない。「あまり」ではあるが。出家に対して在家が配慮することは良いことだし。

 

 テーラワーダで言う「楽しみ」とは、善心以降の喜倶心、禅定とかはまあ置いといて、喜倶の智相応と智不相応の無行と有行。結局は、善行為をする喜びのことだ。

 

 貪根心、即ち欲でする喜倶は限界があるが、善心の喜倶は限界がない。だからスマナサーラ長老も欲についてあれだけ言うのだろうが、私などは、ちょっとスパルタすぎるのではないか、と思っちゃうなあ…

 

 まあしかしそれにも理由がある。善心の喜倶は相当「前世行った徳をもってい」ないと、自然には沸き起こってこない。まずは無理やりにでも、そちらの方向に持って行かないことには、なかなか習慣的には発生してくれない。だから「欲で生じる喜倶心ばかり見てないで、善心の喜倶に目覚めなさいよ」とういことで、長老はそうおっしゃっている。

 

 しかしそれは、私は冥想だけではとても無理だと思っている。法話を聴いて、作務をし、日常生活で実践してみて、勿論冥想もし、自分がした善行為を観察し、と結局は日常生活の中でどう仏道を実践していくか、ということが重要だ。

 

 何度も言うが、私はなぜあそこまでお坊様たちが冥想を中心に布教活動なさるのか、意味が分からない。まあ私が冥想をまともに実践していないのだからこんなことを言うのは当たり前なのだが、じゃあお前もまともに冥想実践してみろ、ってことなのでしょうな、きっと。

 

 う~ん、嫌だ…

 

 

 どうしても冥想だけ、となるなら、慈悲の冥想はおすすめだ。やっているうちにちょっと方向が違ってしまうこともあるので、もし下に出したリンクを参考にしていただけたら嬉しい。

 

 「私が幸せでありますように」も非常に大事だ。それだけ、では問題があるが(笑)。

 

 そういえば、スマナサーラ長老が名古屋で言っていた。「私が」ばかりやっていたら、「嫉妬されたらどうするんですか!」と、結構強い口調で言われていた。「私が」も大事、「生きとし生けるもの」も大事。

 

 そしてこれも、上に書いた通り、慈悲の冥想をすることによって楽しみが生まれてくるまでには、結構時間がかかるかも知れない。今日は喜びが生まれても、明日にはまたそれが無くなるかも知れない。

 

 しかし、日常生活のふとした瞬間に、喜びが自然と生まれてくることがある。そうすると、「慈悲の冥想をやっていてよかったなあ」と、初めて思えた。

 

 いつも引用しているアビダンマッタサンガハの本の、確か引用した箇所だったと思う、ここは議論のある所らしいが、喜び、楽しみを求めたいなら、慈と喜、静けさを求めたいなら悲と捨がお勧めだ。気分によって、変えても良いかも知れない。

 

 そして、慈は、確か喜びと捨、両方を含んだはずだ。文言も、清浄道論にもあるように、たくさんある。どれでも良い。その日の気分に合う、または「これだ!」と勘で思う、そうでなければ鉛筆を倒してでも良い、好きなものでも、全部でも。

 

「幸せでありますように」

「幸福でありますように」

「心が幸福でありますように」

「妬みがなくなりますように」

「嫉妬がなくなりますように」

「恨みがなくなりますように」

「安楽に過ごせますように」

「怒りがなくなりますように」

「sabbe sattā bhavantu sukhitattā.」

他にも、何語だって良い。気に入る言語に訳したって良い。

 

 対象は、私と、あとは他の生命が入っていればそれで良い。やり方も、方角とか、同心円とか、写真のように一人一人でも、集合写真のようでも、動物が好きならまずは動物だけからでも、虫が好きなら、魚(略)でも、神々でも、地獄の生命でも、全てでも、どれか一つだけでも、何でも良い。亡くなっていなければ、親はやった方が良い。事情があって無理な場合は無理しない。とにかく、私と、それ以外の生命。できるようなら、どんどん広げていくのが良い。できないようなら、無理しない。

 

 随喜します。

 

 

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