さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文34

 今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 神通をやったので、先に避けては通れない、五自在について。

 

 286頁。

 

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初禅を得たならば、それが自由自在になるまで修習を重ねるのである。(略)五自在を獲得しなければならない。もし、この五自在を獲得しない中に上の禅に取り組めば、已(すで)に得た禅さえも失う怖れがある。(略)故に上の禅に進むには、この五自在が基礎となるのである。

 

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 その五自在とは何か。

 

 西澤先生の本の72頁。

 

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自在5 vasībhāva 初禅を得たものはさらに高い禅定を得るために五自在を得ないといけない

 

引転自在 āvajjana- 出定した後直ぐに引転を自在に起し観察路を生じさせる
入定自在 samāpajjana- 入定したい意欲が生じると直ぐに禅定に入れる
在定自在 adhiṭṭhāna- 自分の望むとおりの時間禅定にとどまることが出来る
出定自在 vuṭṭhāna- 自分の定めた時間どおりに出定することが出来る
観察自在 paccavekkhaṇa- 引転が自在になれば観察自在も得られる

 

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 なぜかどの本でもさらっと行ってしまうので皆あまり気にならないのかも知れないが、はっきり言って、禅定に入るよりこちらのほうが格段に難しい。

 

 業処によるので初禅に入れるものは決まっているが、その業処をある程度やっていると、ついうっかりww禅定に入ってしまうことは実はある。

 

 禅定というのは車に例えるとアクセルみたいなもので、あれは子供にだって全開で踏むことができる。稀に子供が暴走事故を起こした、というニュースがあるだろう。

 

 車を運転するには、他にもブレーキ操作が要る。慣れない人がレースゲームでやりがちだが、アクセル「ど~ん」ブレーキ「ど~ん」では、良いタイムは出ない。

 

 自動車学校で習うと、操作はまあだいたい慣れてくる。道に出て怖いのは、実は安全確認の方だと気付く。いつ横断歩道に渡ろうとする人が現れるかわかったものではない。後ろからは「遅い!」とあおられるような気がする。まあ例えるなら、そちらがヴィパッサナーだ。

 

 大念処経には、この業処の説明と同じものが多く書かれているが、あちらには禅定に関する記述が無い。

 

 ヴィパッサナー冥想といえば、大念処経のことだ。あれに書かれているものがすべてヴィパッサナー冥想だと思って良い。指導者によってはこんなこと言ったら怒られるかもしれないが、「広義」ということで許してくれたまい。

 

 さて大念処経の冥想を実践するにあたり、継続的に修行する上でその中の業処(と言って良いのかは自信がないが。大念処経にkammaṭṭhānaという言葉は出てこない)のどれかで禅定に入ってしまうのは別に構わないと思う。しかし、当たり前の話だが、禅定に入ってしまうと、ヴィパッサナー冥想はできない。

 

 まあこんなブログを読んでいる人にもう説明は不要だろうが一応誤解のないように念のため書き加えておくと、禅定に入ってしまった人はもうヴィパッサナー冥想することはできない、という意味ではまったくない。禅定に入った状態でヴィパッサナー冥想をすることは不可能だよ、ということだ。それは後で出てくる説明と路を照らし合わせるとよくわかる。


 他の宗教の修行者が禅定(のようなもの)に入ることが出来るが、出る時に非常に苦労する、という話は聞いたことがないだろうか。あれが、五自在をやっていない典型例だ。

 

 第何禅定からか忘れたが、直近で雷が落ちても気が付かない(という話が経典に出てくる)。いつでも入れるように、いつでも出れるようにしておかないと、まず周りが困る。この話の場合なにかの教祖とかそれに近い立場の人なので周りがなんとかしてくれるが、我々のような立場のない人間では、周りはなんとかしてくれない。


 さて、仏教協会の経典にある「戒め」の前の部分に、非想非非想処定という名前が出てくる。それに入っても、それよりも大事なのはこちらだよ、ということをお釈迦様がおっしゃっている。禅定における最高位、最終無色界禅定に入るよりも、「他人は〇〇する(のが当たり前だ)が、我々は〇〇しないようにと戒めましょう」ということだ。ちなみにこの「戒め」、協会の日常読誦経典には入っているが、普通のお坊様は暗記していないお経だ。もちろん大変素晴らしいお経だが、伝統的には、日常的に読誦するお経ではない。

 

 非想非非想処定は、異教徒(バラモン教だろう。お釈迦様が悟られる前についた先生)が既に入っていた。他に神通に入っている異教徒の話もよく出てくる。ということは、彼らは五自在が普通にできていた、ということだ。

 

 考古学で結構困ることに、「人はあまりにも普通のことは書き残さない」というものがある。我々だって「息をしています、息を吐いています」なんて普通は日記に書かないだろう。たいがい書き残すものは、ある程度の非日常だ。日常というのは意外に外から比較してみないとわからないもので、あまりにも当たり前なので書きようもなかったりする。比較しないと書き方にも困る。現代と違い昔は土地によっては外国との接触どころか存在すら知らないのだから、その地域での当たり前のことを何か書き残す必要は全くない。中には変わった人がいて、後世に残すぞ!と書き残す人もいるのだが、後世の人が何を当たり前だと思って何を当たり前だと思わないかなど、わかったものではない。

 

 仏教どころか異教徒の間でも別に口伝、書物で残す必要が無かった、だから現代から見ると「無い」かのように見えてしまう。まあこれは証明のしようがほぼ無いので恐らくいつまで経っても仮説の域は出ないだろうが、新しい発見があるとしたら、そういう部分から突っ込んでいくのが吉だ。

 

 こういう所が、清浄道論が重宝されている理由なのかもしれない。正直、読み物として面白いものではない。結構なんの流れもなく、ただ箇条書きでだらだらそれぞれの項目を書いている、みたいな印象だ。しかし、インドからスリランカに来たブッダゴーサ長老だからこそ、スリランカでは当たり前だったものがくっきり見えて、「これは書いておくべきなのだろう」と列挙したのかも知れない。

 

 

 さて五自在が難しいという話だ。

 

 初禅に達した人は、はっきり言ってうかれぽんちになっている。なにしろ今まで体験したことがない喜悦を感じるのだから、気持ちは有頂天だ。禅定に長くとどまることは比較的簡単かもしれないが、ではこれを「1秒で入って、1秒で出て」とできるだろうか。相当な習熟を要することがこれでわかっていただけるだろう。なにしろ大変気持ちが良い。そこから気持ちを切り替えて1秒で出る、というのは初禅に達した時にはかなり難しいことだ。

 

 お釈迦様(独覚についてはわからない)にしかできないものに、双神変というのがある。性質がまったく逆の二つ、例えば水と火を同時に出せる、というやつだ。実際はものすごい速さで第五禅定に入り神通を撃ち(?)禅定から出て逆の性質の業処の第五禅定に入りまた神通を撃つ、ということができるので、人には同時に発しているように見える、というものだ。これは現代の動画に慣れた我々の方がこの説明でわかりやすいだろう。

 

 これはお釈迦様にしかできないのだからわれわれがそれを目指してもしょうがないのだが、しかしその手前までは目指しても全然構わない。それが「1秒で入って1秒とどまり1秒出て」とできたとしても、間が2秒開く。もちろんすごいことには変わりないが、想像してもなんだか、ねぇ…

 

 そして五自在とは違うが、神通の段では清浄道論には「すべてのkasiṇaに入り、順に入り、逆に入り」と、もう読むだけで頭が痛くなるようなことが書いてある。こういう方が好きな向きもあろうが、私はもうまったくダメだ。

 

 そしてこれが、伝統的なテーラワーダのやり方だ。身起念、三十二身分も、いくつかに区切って順に、逆に、また全部を順に、逆に、なんてやる。私などは「やってやれるか!」と卓袱台をひっくり返したくなる。

 

 まあそういうわけで、五自在についてもそれに準じるやり方なわけだ。だから、我々在家には、まったくやってられない。これに比べたらただ禅定に入るのは簡単だが、そのコントロールには非常に時間を食う。

 

 車の例えで出したが、車の操作だけなら、ある程度慣れれば普通にできないことはない。しかし難しいのは、世間の道でどうやって安全運転をするか、ということだ。

 

 車の直接の操作の他に、安全のためのウィンカーなどがある。周りのことを考えて動きも考えなくてはならない。

 

 操作だけについても、ただ自分が間違えないように、目的地に着くことだけを考えるのならそんなに難しくない、と言えるかもしれないが、究めようとするとまたむちゃくちゃ難しい。ただ車を動かすだけなら構造まで知らなくて良いが、究めようとするなら基本的な構造だけはきちんと把握しておかなければならない。

 

 そしてこれが一番難しいのだが、プロのレーサーでも「公道は難しい」と口をそろえて言う。レースではルールもマナーもわかった人たちが一斉に走るのだから、もちろん限界を攻めているから事故は起こるものの、公道というのはほんとうにいつ何時何が起こるのかまったくわからないと言う。なにしろスキルからしてどういった人たちが運転しているのかまったくわかったものではない。何かが起こった時、プロのレーサーたちなら「こう動く」と読めるかも知れないが、公道ではスキルが色々な人がいるから、何かあったとき周りのその人たちがどう動くのかがまったく読めない。そうなると、自分の行動をどうしたらいいのか、わからなくなるのだという。だから本当に上手い人は、そこまでのマージンを取って公道では運転しようとするが、そのマージンすらままならない状況が多いのだという。

 

 まあこれは、ここでは五自在とかヴィパッサナーとかではなく、慈悲の実践のような気がするが、「その場その場に合わせた智慧」には変わりない。

 


 大念処経がヴィパッサナーだと書いたが、以前も書いた通り、スダンマ長老は「身受心法のうち、身体の観察以外を見ることによって悟る、とは誓願しないでください」とおっしゃる。ここまででわかっていただけたと思うが、受心法については、かなり専門的に教学を勉強しないと、深い所では判断に困る。

 

 そして、「涅槃は身体の中にある」。自分の中にあるのであって、外に何か凄いものがあるのではない。だから身体を観察すれば涅槃に到達できる(または「発見」だが、こう書いてしまうと誤解されてしまう、とまた怒られそうだ(笑))。

 

 

 そして禅定に至らなくても、冥想については問題が起こることがある。というか、冥想が問題なのではなくて、冥想することによって心の状態が変化することによって遭遇することのある問題、と言った方が正確だ。

 

 私はいつも自分では責任をもって書いているつもりだが、そしてそれは今日も変わらないつもりではあるが、今日のこれ以降の記事はただの与太話だと思っていただけたら幸いだ。というか、与太話だと思っていただきたい。よろしくお願いします。

 

 

 サーリプッタ尊者は智慧第一の大阿羅漢だが、見ようとしても餓鬼は見えなかった。だからこれは恐らく生まれによって、見える人、見えない人は決まっている。

 

 慈経にもある「見えない生命」というのは、いわゆる餓鬼や幽霊、悪霊、妖怪など、だ。

 

 こういうことに関してはスピリチュアル関連のサイトを調べた方が詳しいが、テーラワーダでもこういう生命に関してはまったく否定していない。

 

 で、世の中ではこういうものが「見える」ということが重視されるが、以前にも書いた通り恐らく人によるのだろう、五官のどこに現れるのかわかったものではない。実は私は長い間嗅覚でこれに悩まされていて、気が狂いそうになった。

 

 これの困るところは、見えるや聞こえるだと、幻覚、幻聴と区別がつかない、ということだ。私も見える、聞こえる等がすべてこういう生命の仕業だ、と言うつもりはない。

 

 日本では取り憑かれたとか憑依されたとかいうが、テーラワーダ文化圏では身体の中に入った、とか表現される。

 

 キリスト教にもエクソシストがいるだろう。私はまったく出鱈目ではないと思っている。そういう面からも、他の伝統宗教にも力はあると思っている。

 

 そしてそれに対抗する力というのは、信、信仰心、確信、その宗教に対する自信だ。だから護経を唱えると見えない生命から守られる、と言う。日本でもそうだろう、梵語のお経を唱える、真言を唱える、漢文のお経を唱える、等。

 

 経典に出てくるお墓というのは、日本でイメージするお墓とは全く違う。ただの死体捨て場だ。だから屍体の観察にはうってつけだった。臭いも酷い。

 

 日本のお墓は、文化的に執着が生まれやすいので、そういう意味からも危険と言えば危険なのだが、日本ではお墓参りが良いことだとされている。だったらそれを逆手に、お墓参りの時は護経を唱えれば良い。日本の大乗仏教のやり方とまったく同じだ。

 

 皆さんも慈経なら暗記しているだろう。周りが気にならないなら、または周りに人がいないなら、是非ともお墓参りでは慈経を唱えていただきたい。そして、それが終わったら回向しなさい(命令)。

 

 回向というのは、これは私個人の考えだが、「私がしたこの善行為を、皆さんもしたことにして下さい。また、喜んでください」だと思っている。現代で言うと「シェア」か。

 

 だから、お墓で慈経を唱えたら、「もしここにそういう生命がいたら、その皆さんもこの護経を唱えたことにしてください。また、喜んでください」と。または、最近した善行為でも良いのだが、その場合はお墓で回向するためにその善行為をする、と思ってやった方が効果的だろう。そういうものを、お墓で回向しなさい(命令)。そうすると、その場の空気がまったく変わるのが実感できると思う。何も感じない人は、そういうものには縁のない人だろう。それはそれでまったく構わない。というか、うらやましい…