さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文35

 今日はこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 さあ屍体だ!

 

 277頁。

 

 引用しない(笑)。

 

 大念処経では9だが、業処では10。特にその数に意味があるとは私には思えない。

 

 私は昔、「屍体見るなら、「屍体を見る瞑想」と書いときゃそれでいいんじゃね?」と思っていた。

 

 この不浄の業処は初禅までいけるが、ただ屍体を観想するだけでは、禅定には達することが出来ないのかも知れないし、こうして細かく分けて先に規定しておくと、冥想としても「ここからここはこの不浄業処だな」と迷うことなくイメージを明確にできるのだろう。

 

 ウェープッラ長老の南方仏教基本聖典には「九種の墓場の部」となっていてその前の三十二身分が「不浄観察の部」となっているが、ここでいう不浄観察の部はパーリ語ではpaṭikkūlamanasikārapabbaṃとなっており、九種の墓場の部はnavasīvathikapabbaṃである。別に文句を言うほどのことではないが、日本語のみで「不浄」の業処をどこにもあてはめて大丈夫か、というとそうではない、という細かい指摘をしておきたかった。

 

 ほんとうならこういう細かいところも訳語を統一出来たらそりゃいいことなのだろうが、これもやりすぎると意味不明な訳文になってしまう。まじめな人の訳は、パーリ語の単語にほぼできるかぎり一つの訳語を適用させていて好感が持てるのだが、残念ながら修行する上で参考になるか、というと私は疑問を抱かざるを得ない。

 

 聞いた話なので保証はできないのだが、確かドイツの学者が中心になって、漢文にしか残されていない(大乗)経典をサンスクリットに訳しなおすプロジェクトがあるだかあっただか、らしい。

 

 私は漢文が苦手なのでこれまたわからないのだが、サンスクリットから漢文にはそりゃあまじめに訳がされているらしい。今日神聖視されているものの中にはサンスクリットから勝手に付け加えられたものもあるとのことだが、それにしてもその情熱には頭が下がる。


 ということで、訳語の統一ということひとつとっても、なかなか大変なことなのだよ、ということを思い出したので書いてみた。確か春秋社版には「あえて訳語の統一はしていない」とか書いてあった気がするが、あれはこういう理由からだ。複数人でやったものの訳語を統一しようとしたら、もうどれだけ大変なことか。その点だけとれば一人でやった方が効率は良いが、訳すスピードから見たら、これまた効率が悪すぎる。

 

 これは英語でも状況は変わらないようで、英語についてはテーラワーダのお坊様が直接訳したものが多いが、それでも訳語は統一されていない。これまた私にはまったくわからないが、英語がわかるだけの人が読んだら、混乱することもあるかと思う。禅定がecstasyとか。

 

 日本語では「禅定」なんていう、いかにも仏教っぽい単語がありがたいことに最初からあったから、もしかしたら最初から大乗仏教で馴染んでいる人には違和感があるのかも知れないが、私のようにそちらの方の意味を理解していない者にとっては、「なんだか特別な境地のようだ」と始めから思える。

 

 しかしこれがecstasyだと、「ああ、他の宗教と同じような境地なんだな」というイメージになったりするのではないだろうか。わからんけど。

 

 ここらへんは何とも言えない。通常の文章ならば、日本語の、大乗仏教用語を使った訳よりも、そういったベースがない英語の方がはっきり言ってわかりやすい。テーラワーダ英語圏で紹介され始めたのは近代に入ってからだから、言葉自体もわざわざ古いものを使う必要が無い。

 

 しかし日本語では、古から伝わる大乗仏教色が出てくる。これには大変良いことも多いのだが、同時にデメリットも存在する。訳がどうしても古臭い。

 

 そういうのが最初から不満なので色々なお坊様にそのことについて訊いたのだが、どなたもどうも答えは濁される。

 

 なるほど、その意味が最近よくわかった。あまりに現代語に近づけすぎると、今度はそれが聖典化されてしまい、ちょっと意味が違うと「それは違う!」とか言われかねない。

 

 以前にも書いたが、信のある人が読むと、経典というのは結構どこまで深読みしても意味が出てきたりするが、注釈書ではあまりそういうことは、少なくとも深度は下がる(浅くなる)。

 

 で、そういう深さは、やはりどうしても訳してしまうと出てこない。意味が限定されてしまうからだ。だから訳については、いくつも種類があって良いと私も思っている。万が一間違っていたとしても、他の方から「それはこういう意味ではないか」と突っ込むことが出来るからだ。

 

 また、原文そのままのものもあっていいし、テーラワーダについて信がある人が書くのなら、多少の意訳や付け加えなどは問題ないとも思っている。


 しかし大事なのは、変化させずパーリ語の原典を伝えていく、ということだ。これまででわかっていただけると思うが、では一つパーリ語から日本語に訳したものを更に訳したらどうなるか。どんなにまじめな人がやったとしても、もうパーリ語の原典からは意味が動いている、ということを否定できる人はいないだろう。

 

 そういう意味からも、経典を暗記、読誦するということは、テーラワーダ、仏教を永く続かせるということに役に立つ。ここで「書籍化されてるから、もうそれでいいんじゃね?」となったら、今度はその書籍が本当に変化されていないものなのかどうかがわからなくなる。

 

 まあそういうわけで、こんな調べればすぐになんでも出てくる時代であっても、三蔵法師が尊敬される理由はここにある。まずはその情熱だけでも尊敬に値する。

 


 さて屍体の話に戻るが、ここでも何度も書いている通り、「これこそがテーラワーダだ!」とか思われたら困る。テーラワーダに於いては欲、貪に対抗する重要な業処、冥想であるのだが、何も知らない人から見ると、「うわ、気持ち悪い宗教」とか、最悪「変態じゃないの?」となってしまう。

 

 今の富士スガタ冥想センターにもあるが、以前のスガタ精舎には9の屍体の画がかかっていた。インドのヒンドゥー経の人はあまり違和感がなかったようだが、フィリピンのキリスト教の人は、「なにこれ?」と思ったようだ。日本人に比べ宗教に対するリスペクトがあるので、寺も神聖な所だという意識はあるのだが、そこになぜそんな画がかかっているのか理解できなかったようだ。

 

 プラスチックでできた骸骨も天井から垂れ下がっているが、よく子供がそれにタッチして遊んでいる(笑)。

 


 そういえば前にも書いたが、経典でいう墓場というのは、日本でイメージする墓とは違い、ただの死体捨て場だ。まず臭いが酷い。

 

 そして糞掃衣とは、その屍体が身に付けていた服を継ぎ合わせて作るもので、しかしそれでは色んな色になってしまうので(当時そこいらに捨てられる人々の衣に色んな色があったかは不明だが、それにしても色が完全に統一されていなかったことだけは確かだろう。ちなみにその当時「白い布」なんていったらとんでもなく高価なものだったわけで、だから白い布は尊いとされる。経典にも出てくる「白い布」なんて例えが現代からすると「一番安い布?」なんて思ったりするが、そこらへんは難しいですなあ)、そこらへんにある木の根など(実は細かい規定があるが、そんなん知らん。皮膚病を予防するとか虫をできるだけ寄せないとか、逆に変なものを使うとかぶれてしまうとか、そういう意味もあったのだろう。植物まで詳しかねーよ(なぜかキレる))を煮詰めて色を染めたらまあ茶色とかそういう色になります、ということだ。「それ以上汚れない色、ってんなら黒じゃね?」と思うかも知れないが、こういった背景により、黒を作るなんてとんでもなく難しかったこともこれでわかっていただけるだろう。

 

 頭陀行にある「糞掃衣しか着ない」というのは、こういうことだ。もう誰のものでもないボロの布を使って、衣食住薬の衣を用います、と。

 

 

 そういえばそれで思い出したが、牛の尿なんて、なんて低いものが薬とされているのだろう、と思ったのだが、アーユルヴェーダでは、実は使いようによって大変良い薬になるのだ、とスダンマ長老から聞いた。牛の尿で十分だ、というのは、「牛の尿だけあれば十分ですよ」という、お釈迦様の優しさだったのだ。

 

 お釈迦様は、bhesajja guruという。日本でも「薬師如来」はよく親しまれている。あれだ。薬のプロ中のプロでもある。とゆうか、薬の神(?)といえば、お釈迦様だ。

 

 律蔵の中に、bhesajjakkhandhakaがある。

 

https://tipitaka.org/romn/cscd/vin02m2.mul5.xml

 

 薬に興味のある方、またはそれ関係に従事されている方はこれを暗記することをお勧めする。5法門なので、完全には難しくとも、なんとなくの暗記ならできないことはないと思う。以前にも書いたが、アーユルヴェーダの本式では、サンスクリットの文を暗記する。


 引用しない、とか書いたが、西澤先生の本の70頁から引用して、終わりにしたいと思う。今はあるかわからないが、チベット仏教に興味のある向きには、鳥葬というのがあった。私も初めて見たときは「ゲ!」と思ったが、不浄隨念には大変ありがたい映像だ。これはここにある食残屍に当たるか。

 

 そういえば以前にはyoutubeにも、不浄隨念として死体解剖の動画があったのだが、恐らく今はグロ画像として削除されてしまったと思う。ああいう時のスリランカ人は怖い(笑)。多少不浄隨念に慣れた私でも、「いや、それは、ちょっと…」というくらい、屍体をわざわざ乱雑に扱う。まだまだ私も、死体はホトケさま、という認識があるのだろう。

 

 

 私は出家だけだと思っていたのだが、テーラワーダの国々の冥想センターに行った人に話を聞くと、在家でも死体解剖に立ち会わせてもらうことができるらしい。

 

 スリランカでも、山の方の冥想センターだと、わざわざ献体があって、「不浄隨念に使ってください」と、人里から離れたところで放置して、不浄隨念専用に場所を取って(だから立て看板をつけるらしい。臭いが酷いし、心構えができてないと、ちょっと、ねぇ)変化が観察できることもあるらしい。残念ながら日本だと死体遺棄になってしまう。

 

 

 いやいや、すまない、引用だった。

 

 この引用を想像するだけでも、歴とした不浄の冥想になる。貪性の人には勿論、「ちょっと欲が強いなあ」と思う時にやると、大変功徳になります。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

不浄10 asubha(初禅まで)

 

膨張屍 uddhumātaka 死後、数日を経て膨張した厭わしい屍体。
雑青屍 vinīlaka 白・赤などの色が雑ざった青黒く変色した厭わしい屍体。
漏膿屍 vipubbaka 身体の各所の破れた所から膿が漏れ出している厭わしい屍体。
切断屍 vicchiddaka 二つに切断された厭わしい屍体。
食残屍 vikkhāyitaka 犬や禿鷹などがあちこち種々の形で食い散らした厭わしい屍体。
散乱屍 vikkhittaka 手・足・頭などがあちこち散乱した厭わしい屍体。
斬刻散乱屍 hatavikkhittaka 五体が別々に切り刻まれてあちこち投げ捨てられた厭わしい屍体。
血塗屍 lohitaka 流れ出た血で塗られた厭わしい屍体。
蛆充満屍 puḷuvaka 蛆虫が全体に充満している厭わしい屍体。
骸骨屍 aṭṭhika 厭わしい骨となった屍体。