アビダンマ(略)の読書感想文33
今日もこの2冊にお世話になります。
・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
アビダンマッタサンガハ刊行会
・アビダンマ基礎講座用テキスト
ウ・コーサッラ西澤
結局業処の説明も、後に出てくる遍作、近行、安止を先にわかっておいた方が良いので、西澤先生の本の70頁。
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遍作修習40
全ての瞑想の基礎となる修習、実際に土遍を目で見て集中している所縁を遍作相parikamma-nimitta、目を閉じていても意識上にイメージが現れる所縁を取相uggaha-nimitta
近行修習10
取相を何度も繰り返し集中していくとさらに澄み切った似相paṭibhāga-nimittaが現れた段階で安止の近くという意味で近行修習という。
安止修習30
さらに似相に集中し続けると禅定の段階である安止修習となる。
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業処には禅定に達することができるものが30と、禅定には達することのできない10のものがあるよ、ということだ。
なぜそういうことになるのかは後で説明が出てくる。
そして禅定に達することのできる30のものの中でも、どの段階の禅定まで行けるのか、ということまで決まってくる。それについても説明が出てくる。
というわけで、「なんとしてでも禅定に達したい」という人は、どのcaritaにも対応する、色(いろ)ではないkasiṇa遍をやれば良い。
ちなみにこのkasiṇaは、いわゆる神通の基礎となる。いつもの本には〈十遍の力〉とあるから、色のkasiṇaにも特有の力があるのかも知れない。
276頁。
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〈十遍の力〉十遍の一々には、それぞれ特有の力があって、瑜伽者がこれらの遍によって地などを化作すれば種々の神変を行うことができる。例えば地遍なら、空中や水面に地を化作して地面の上と同じように歩いたり、坐ったりすることができる。
また水遍なら、雨を降らせたり、地中に潜ったり、風遍なら風のように行ったり来たりなど、それぞれの遍に応じた力を発揮することができるのである。
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以前書いたように、お釈迦様は別に在家に対して「神通を人に見せるな」とは一言も言っていない。現にお釈迦様の時代には神通ができた在家の話が出てくる。
はっきり言って、デモンストレーションすれば儲かる。だから、どのcaritaにも対応する、色でないkasiṇaはお勧めだ。
得意不得意はあるかも知れないが、どれかで一度第五禅定に入ってしまえば、あとは応用だ。どれにも禅定に入ることはできるだろう。得意不得意が出てくるのは、神通のコントロールに於いてだ。
ここにはこれしか書かれていないが、原理的には様々なことに応用できる。が、まあしかしこれは色(しき)に対してのアプローチなので、それなりの智慧や力は得られるが、当然出世間とはなんの関係もない。
また、ここからもわかるように、地遍をやろうと思って茶色の色(いろ)のものをkasiṇaすればいいのか、というとそれは違う。色(しき)の性質が把握できないと地遍の意味はないからだ。
そして、地水火風の遍ができると、四界差別に非常に役に立つので、なにも禅定に達しなくても、出世間に対して意味がある。
しかしこのkasiṇa、普通の生活をしながらこればかりをしているとちょっと問題が起こる。例えば地遍なら地のことばかり頭にあるのだから、何を見ても地のことばかりが見える。だからそういう場合はちょっと俗世間から離れてやりましょうということになるのだが、実はこれすらも指導者によるらしい。
私もそうだとばかり思っていたからスダンマ長老に訊いたことがある。「サマタをやる時にはもうクティにこもってそればかりやるんですよね?」と。そうしたら長老は「いいえ」とお答えになる。スダンマ長老の方針としては、食事も皆ですると言う。一人で食事するのは悪いこと、とまで断言なさる。
だから富士スガタ冥想センターの方針としては、サマタをやる修行者であっても普通に作務はするし、法要、読経、法話にも参加する。これは冥想センター、指導者によって違うようなので、先に確認しておこう。
私が気になるのは、色(いろ)の遍の特有の力とは何だろうか、ということなのだが。
そしてこの神通は第五禅定(経典の第四禅定)に(安定して)達すると使えるわけだが、人によっては第四禅定(経典の第三禅定)でも発動する人がいるらしい。テーラワーダ的にはこれは前世そういう修行したことがある人とされる。しかしどのくらいコントロールできるのかはまったく知らない。というか、そこまで行った人なのだからさっさと色界最終禅定まで行こうよ、と思うのだが、生まれによってそこまではいけない人とかいるのだろうか。そんな話は聞いたことが無いのだが、さすがにそれはなさそうな気がしないでもない。とりあえず原理的にはそうだよ、ということだ。
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地遍とは、業処を修習するために作る、直径30cmの円形の地であって、(略)残りの水遍なども同様に知るべきである。
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範囲を限定して、そこに対象を置くなりしてやりなさい、ということだ。kasiṇaについては清浄道論に説明があるので、伝統的なやり方を受け継いで冥想したい方は、是非ともそちらを参考にしていただきたい。
私が知る限り、kasiṇaのやり方について説明しているのは、清浄道論しか知らない。テーラワーダにおける冥想のやり方がこれだけ網羅されて書かれているものは恐らく他に存在しないので冥想に興味のある方は清浄道論を一度でも読んでみると大変面白いと思うのだが、しかしこれはやってみればわかると思うが、それぞれの説明が意外に足りない。遍の修習と同じで「その範囲に限定するからこそサマタだ」という深いメッセージが込められているのかも知れないが、これは経典ではないので恐らくそこまでの意味はないと私は思っている。
そういえばここが三蔵と注釈書の違いで、三蔵、特に経については信をもって深読みしても「うわ!」と思う意味が見えてくることがある。こういう深さがやはりどうしても違うので、学者が「改変されている」とか言ってもテーラワーダがまったく気にしない理由はここにあるが、これはその人が体験しないとなんともわからない世界なので、「改変されている」と言うのも仕方がないかなあとも思う。こっちだって「正しい世界がそこにあるに違いない」と思って読むから見えてくるのであって、「必ず間違っているところがあるに違いない」と思って読んだらそりゃ、相当誠実な人でない限り間違っている証拠ばかり集めてしまう。経典とはまったく関係ないが、正見が重要な理由もそこだ。
さてサマタというのは範囲を限定するからこそサマタになり得るのであって、あまり自由にやりすぎてしまうと、最悪の場合禅定まで崩れてしまい、戻れなくなってしまう。
だからこういう考え方も指導者によって違うので、「もう伝統的な方法しか許しません」という方もいれば、「え?それ清浄道論にはまったく書いてないどころか、どう関係するのか全く分からないんですけど?」という指導方法をする方もいる。
実は世間に流布するヴィパッサナー冥想は後者の方だ。
しかし原理がわかってみると、実に大念処経をもとにして、清浄道論、アビダンマに照らし合わせても大変理に適っている。ということは、そういったものは、これらをきちんと勉強された方が開発されたもの、ということだ。
現代人、特に出家ではない、つまり在家生活をしながらでもできる方法を、言わばアレンジして生み出したものだ。
だから、その方法を専門的に勉強した人でないと、その方法で冥想指導なんかとても危なくてできない。どこからどこまでが推奨される範囲か、どこからどこまでが危険な範囲か、など、なにもわからないからだ。
なので冥想方法などの質問をする場合、そのお坊様がどの冥想方法で指導なさっているのかを先にわかっておかないと、「そちらの指導者に訊いてください」で終わってしまう。これは別にめんどくさくて答えないのではなくて、とてもではないが危なくて答えられないからだ。
お坊様には冥想が得意な人もいる、冥想指導が得意なお坊様もいる、学問が得意なお坊様もいる。逆に言えば、私が具体的に知っているわけではないが、冥想が苦手なお坊様もいるかも知れない、学問が苦手なお坊様もいるかも知れない、年齢を経てから出家された方の中には、パーリ語が苦手なお坊様もいると聞く。子供の頃から出家されているお坊様は一通り勉強しているが、それでも得意不得意はある。どらかというと、日本よりも相当得意分野を先鋭化していくイメージが私にはある。だから苦手なものはとことん苦手、ともなる場合がある。
私はこれが羨ましかったりする。苦手分野をまったくやらなくて良い、とは言わないが、やはり得意分野を先鋭化していった方が、皆がお互い持ちつ持たれつで暮らしていけるような気がするのだ。
だからといって、中にはどれもそこそこできるけど、という人もいる。まあ結局言いたいことは、「それぞれの個性を生かして生きてこうよ」ということなのだが、テーラワーダ的に言うと「生まれに逆らわずに生きようよ」ということになる。得意分野苦手分野は、生まれによって「ある程度」決まってくる。
私も自分の得意分野が未だにはっきりわかっているわけではないが、仏道を実践していけば何か見つかるものがあるのではないか、と「信じて」いる。
忘れていた…。
kasiṇaは色界最終禅定、第五禅定まで行くことができ、虚空、空の遍以外のものをkasiṇaすることによって、そこから無色界禅定に至ることができる。
無色界禅定に至る入り口はこれだけだが、無色界禅定も慣れれば別に色界の遍をする必要は当然なくなるのは色界の禅定と同じだ。一気に行けるかどうかはわからない。心の中で色界の遍を思い浮かべてから無色をnimittaしないといけないのかも知れないが、恐らくそんなことはないだろう。
そもそも無色界禅定に至っている時点で、そんなことはまったく気にならなくなっているだろうが、テーラワーダ的には、無色「のみ」やることは、恐らく推奨されていない。無色をやるにしても色界の遍を定期的にはできるようにしておくのが普通だと思う。サマタにおいても、とにかくテーラワーダはバランスを重視する。
ちなみに無色も、どのcaritaにも対応する業処だ。
さいごに、以前にも紹介したこちら
に、ニャーナモリ長老の英訳による清浄道論が公開されている。テーラワーダ特有の(英)訳語にだけ慣れてしまえば、日本語のものより苦労せず読むことができるだろう。
ここに、kasiṇaについて、113頁
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convenient to live with the teacher in the same monastery
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師匠と一緒に生活し易い寺で、と書かれている。遍は一人ではやらない方が良いようだ…