さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

宝経の読書感想文2(1に注あり)

 なんか興味の無い人に遠慮して書くのもそろそろ疲れてきたので、遠慮なく書いていこうかと思う。

 

 霊に興味の無い方は、是非速攻でそっ閉じ願いたい。

 

 ここから読み始める方は、こちらの注意事項を一度読んでいただけるとありがたい。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp


 何度も言うが、これは私個人の意見だ。テーラワーダの教えとは言い難いし、スダンマ長老からこんなことを習った、ということでは決してない。


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

2.

tasmā hi bhūtā nisāmetha sabbe
タスマー ヒ ブーター ニサーメータ サッベー
すべての悪霊たちよ、私の教えを聴きなさい。
mattaṃ karotha mānusiyā pajāya,
メッタン カロータ マーヌスィヤー パジャーヤ
すべての人間に対して慈しみの心を持ちなさい。
divā ca ratto ca haranti ye baliṃ
ディワー チャ ラットー チャ ハランティ イェー バリン
人間は昼、夜、あなたたちに回向しています。
tasmā hi ne rakkhatha appamattā.
タスマー ヒ ネー ラッカタ アッパマッター
だからいつでもその方々を護りなさい。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 ここは意訳と言っても良い。

 

 「あなたたちに回向しています」。原意は供え物を持ってきている、だ。


 スリランカには、仏像の無い寺はあるが、菩提樹の無い寺は無いという。しかしその菩提樹という種類の木はそこらじゅうにあるもので、しかし寺にあるものは特別な菩提樹なわけで、そこらじゅうにある菩提樹を礼拝するのではないのだ、という。

 

 偶像崇拝とかいろいろ言われるが、以前にも書いた通り仏像はだいぶ後でできたものだ。その前は、スリランカであれば菩提樹であるとか仏足であるとかに礼拝していた。

 

 スダンマ長老に聞いたのだが、日本にはその仏足が古くから残されている寺があるそうだ。やはり仏の教えは日本にも来ていたのだなあ、と感動してしまった。

 

 さてその菩提樹信仰(?)、仏教がスリランカに伝わる前には樹木信仰があったので、ではお釈迦様の菩提樹を分けて持ってきてそれを拝みましょう、ということになったそうだ。スリランカ特有だと聞いた。

 

 そして、このお釈迦様を象徴するものを礼拝するのは、決してその象徴するもの、例えば仏像だとか仏画だとか菩提樹とか、そのものを拝んでいるのではなくて、それを見てお釈迦様の徳を想起してほしい、ということで存在するものだ。

 

 まあ別に信仰の対象としても特に問題ないと言えば問題ないのだが、コアなテーラワーダ仏教徒はきちんと知っておいた方が良いことだ。異教の人に説明する時に知っていると正直便利だ。必ず言われるから、「偶像崇拝ではないのか?」と。また、本尊の由来なども。

fujisugatavihara.blogspot.com

 その話はこちらに書いたことがある。


 さて、というわけで、訳としてはこの場合「神々」の方がしっくりくるが、その昔人間はいろんなものを崇拝していた。日本だってそうだろう。動物だって想像上の生き物だって、岩だって樹木だってなんでも崇拝する。その関係でこういう文言になるのだが、現代ではあまりそういうことはメジャーではない。そういうわけで、ここはテーラワーダ的に「回向」としたわけだ。

 

 bhūtāを「悪霊」と訳してしまった関係上、悪霊にお供え物をする人たち、というのは現代ではちょっと都合が悪い(笑)。

 

 前にも書いた通り、回向だけは命令だ。必ずして下さい。霊の存在なんか信じない人でも、必ずして下さい。テーラワーダの回向は、自分がした善行為をシェアすること。


 私は、日本の墓の文化は、霊的にあまり良くないと思っている。文化を否定するつもりではないのだが、ほんとうに極めて個人的な意見であることはご了承いただきたい。

 

 なにしろ執着が生まれやすいし、やはり飲食物が置いてあると、そういう生命が集まりやすい。

 

 petavatthuに色々出てくる。大便しか食べられない生命、尿しか食べられない生命、唾しか食べられない生命、膿しか食べられない生命、残り物しか食べられない生命、等々。

 

 そして日本では、地方によっては、食べ物を餓鬼にあげるとか言いながら、後で回収して結局人間が食べる、というものもある。文化を否定する気はないが、正直あれはどうかなあ、と思う。

 

 大乗仏教でも、皆で食べる前にそういう生命のために食べ物を分けてあげる宗派もあるそうだ。あげないよりは勿論良いのだが、私は、できれば残り物をあげた方が良いのではないかなあ、などとも思う。

 

 テーラワーダの食事のお布施では、一番最初にお釈迦様、次に出家、八斎戒の人、そして最後に五戒の在家、だ。大乗仏教のお坊様と一緒に、またはそれより前に餓鬼に、というのは、個人的には賛成できない。場合によっては、そういう生命が大乗仏教のお坊様より立場が上だ、と勘違いしてしまう。

 

 まあしかし細かいといえば細かいし、気にならない人は全く気にならないことなので、「さくらぎがまた変なこと言ってるわ」程度に思っていただけたら幸いだ。

 

 なので、お墓参りでは日本の文化に則り、ローソクや線香をあげ、飲食物や、テーラワーダ的にお酒は避けてほしいし、三宝の徳を唱え、そして恐らく皆さんも暗記しているだろう慈経をあげ、気にならないなら他の護経も良いだろう、そして最後は回向しなさい(命令)、ということを個人的にはお勧めしたい。上級者になれば、縁も所縁もないお墓でもやっても良いのかも知れないが、どうなのだろう、責任は持てない(逃)。


 そういうわけで、「悪霊」と訳してしまって大変申し訳ない気持ちでいっぱいなのだが、日本のお墓参りについては、「お供え物」でも適用できる。その場合は「精霊」どまりにしておいていただきたい。テーラワーダ的に言うと、お墓にいる(見えない)生命というのは、十中八九餓鬼だ。


 また、私が個人的に行っていることに、食事で余りが出たら、場所を決めたところに置いて「食べれる生命がいたら食べてね」とやっている。お釈迦様にお供えしたものも、自分たちが食事を終えた後にお下げしたものを器を変えて、そうしている。

 

 実は、大便、小便、唾なども「食べれる生命がいたら食べてね」といつも思っている。もう遠慮しないと決めたのだから言ってしまうが、反応がある時もある。わんさか来る時もある。涙を流して喜んでいる時もある。ほとんど生命がいない時もある。

 

 餓鬼というのは、虫のような小さいものから、山のように大きなものまで、力も神々並みの威力を持つものまでいるという。あまりに背が高すぎて、唾を見つけるのだがそれを食べようとかがんだ時にはもうすでに唾が乾ききってしまっている、なんて話を聞いたことはないだろうか。

 

 そこで一言言っておきたいのだが、私は現時点で霊視できるわけではない。だから昨日も、私に相談して下さいとはとても言えない、と書いた。

 

 なんとなくわかるだけであって、見たいと思ったら必ず見えるわけでもないし、「私はこう思う、その上でこう実践しているよ」ということが言えるだけで、これこそ後で「間違いでした」となる可能性は高い。そこはぜひご了承いただきたい。

 

 しかしこれだけは確実に言えるのだが、冥想が進んでくると、こういう生命がいやがおうにも見えてしまうようになってしまう人がいる。

 

 自称陰陽師のブログにも、こういう生命が見えるようになるにはどうしたら良いか、との質問に、答えは結局テーラワーダ的に言うと水のkasiṇaだった。

 

 先日書いた、「自分の見たくないところが見えてしまう」という話は、これに比べたら生ぬるい話だ。ある日突然、他人の見たくもない所が見えてしまうことだってある。その時、あなたはupekkhāを保っていられるだろうか。

 

 だから、前に「こんなことを書いたらお坊様に怒られるかもしれないが、実は私は、冥想を中心にテーラワーダを布教することには大反対だ。いくらなんでも危険すぎる」なんて書いたのだ。

 

 その意味と、霊的な意味で、寺というのは非常に重要な場所だ。私としては寺に定期的に通える環境にあって、初めて本格的に冥想は実践してほしいのだが。こういうことが起こることは冥想指導者は知っているから、それに合わせて進度などを調整できる。大きな声では言えないが、お経の祝福などで定期的にお祓いもできる。

 

 そういえばこれも書こうかどうか迷ったが、悪魔祓いも、すぐに完全に祓ってしまうと、その人はそもそも憑りつかれやすい人なのだから、言わば霊の無菌状態が出来上がってしまう。結局は病気などと同じで、免疫力を高めるしか無い。そのためには、仏道の実践あるのみだ。

 

 普通、こういう霊的な話なんて、そういう寺とか冥想センターでするものだ。おおっぴらに、こんなブログでやるもんじゃない(笑)。

 

 寺や冥想センターがあれば、そうでなければ力のあるお坊様が定期的に冥想指導するのであれば問題はないのだが、現状はこういうことが冥想で起こる危険性を知らない人が見様見真似でネットで冥想に関して勝手なことを言い出す。相手が受け取らなければ何の問題にもならないが、まかり間違って信じてしまったらどうなるか、言っている本人はわかっていないだろう。

 

 はっきり言う。冥想は危険だ。普段体験しないことを体験してしまうし、その体験によって容易に変な方向へと行ってしまう。集中的にやりたい人は、必ずそれなりの環境で。素人考えで激烈に冥想実践することは、控えていただきたい。

 

 また、日本でも冥想センターを作ろうという動きが今までもあったしこれからもあることは確実だとは思うが、どうしても言っておきたいことは、作ることが目的になってしまうと、その後の運営で必ず問題が起きる。大変なのは冥想センターを作ることではなく、その後、冥想センターを運営していくことだ。

 


 最後に、ここまで読むことに耐えた(笑)方に、それ関係の書籍を紹介して終わろうと思う。

 

 「あなたの呪縛を解く 霊的儀礼江原啓之著。

 

 アビダンマッタサンガハを一通りやっていれば、用語の置き換えや、一部テーラワーダの教義とは違うところの読み替えは問題ないだろう。

 

 だいぶ前にブームになった頃には、私はこの人が好きではなかった。それこそうさんくさく感じたものだ。

 

 しかし最近またテレビで活躍しだした頃に見たら、びっくりした。まるで別人のように感じた。やはり実践している人は言うことが違う。

 

 現状、日本語でテーラワーダでの霊的な意味等について書かれている書籍は恐らく無い。世界を探しても、そこに焦点を当てて書かれたものがあるのかは私は知らない。

 

 ここにはお札がよく出てくるが、結局はその人が得意なことをやったものはそれなりの力がこもる。だからどういう気持ち、意でやるかが大事なのだ。そうでなかったら、聖糸、聖水の力など、あるわけがないだろう。だから他の宗教でやる、例えば護摩行等も、力がある。だからこそ危ないと言えば危ないのだが、「人を呪わば穴二つ」。悪因悪果、善因善果というのは、日本でも感覚的にわかっていたことなのだ。

 

 慈悲の冥想の効果というのも、こういうことだ(正確に言うと「そういう面がある」)。やることなすことに慈悲の念がこもってこれば、結果はそれなりに良いものになる。それがその人の得意なものに上乗せされれば、相乗効果で素晴らしいものを発揮することが出来る。

 

 「そんなバカな」と思われるかもしれないが、もう一度こういうつもりでスマナサーラ長老の話を聞いてみると、実はそういうことも多々言っていることがお分かりいただけると思う。

 

 というわけで、特別な力を与えるためには、それ専用に修行を積むのが一番だ。だからお札だったり、聖水を作る時には宝経108回だったり、特別なことをするのだ。しかし、抵抗もそれなりだ。冥想にも同様のことが言える。

 


 「霊障医学」奥山輝美著。

 

 私は医学のことはさっぱりわからない。だから判断しようがないのだが、「そういう事例がある」ということだけは参考になるだろう。私はここに書かれていることを別に実践しているわけでもないのだが、身体との関係でその原理であったりのヒントがこうして書かれているものは、他にないのではないだろうか。これを読むとチベット医学に興味が出てくるが、もうこれ以上私は手を広げない方がいい気がするので、医学が得意な方で霊的なものに興味がある、という方がいらっしゃったら、是非とも挑戦していただけたら、と思う。