さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文18

 今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 51頁。

 無量心所2、慧根心所1。

 

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無量心所 四無量心(慈・悲・喜・捨)の心所の意味。この中の慈は、共浄心所の無瞋に含まれ、捨は同じく共浄心所中の中捨である。故に無量心所としては、悲と喜だけが掲げられている。

 

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 慈悲喜捨というのも、けっこう厄介だ。前にも書いた通り、悲についてはずいぶん誤解があるが、他についても同じようなものだ。なのでここは丁寧に書いていこうと思う。

 

 が、その前に、

 

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また、無量心所とは、量を限定せずあらゆる有情施設を所縁とするものをいう。ここに有情施設というのは、有情が第一義ではなく、施設法であるということである。

 

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 これもたまにある質問だが、「「私」というものはないのに、では何に対して慈悲の冥想をすればいいのですか?」というものがある。特に「私は幸せでありますように」などは、引っかかることだろう。

 これも昨日書いた、世俗諦と勝義諦の区別がわかっていないから生じる疑問だが、これは仕方がない。「それはね」と教えてあげる気にもならない。そういう人に世俗諦と勝義諦、施設、とか言ったところで意味はない。

 別にその人たちがのーたりん、と言いたいわけではない。ほんとうに「仕方がない」ということだ。それよりもまずは慈悲の冥想をしてもらった方がありがたい。施設がどう、とか言って嫌になられても困る。

 

 しかし私は学生時代、「物質面での自分と他人の境界は(なんとなく)分かる気がするが、では精神面での自分と他人の境界はどこにあるのだろう?」と考えていた。この答えがここにある。たった今、その答えを明確に知った(笑)。

 

 結局「有情」というのは「施設法」である、ということだ。だから上の質問には、「人のイメージによって変わってしまう」としか答えようがない。それ以上突っ込むと泥沼にはまる。テーラワーダ的には「意味がない」、だ。


 もうこのブログを読んでくださっている方々には、施設の説明は不要だろう。ということで、次の段階(笑)に進みたい。

 

 エヴァンゲリオンの昔の映画に、「個体としての生命の形を維持できません!」というセリフがある。私は驚いた。当時テーラワーダを知らなかったから、この論理が私以外に理解できている人がいるとは思っていなかった。

 

 仏教は虚無主義だ、と言われたりする。なぜそんなことになるのかというと、この「施設」、「世俗諦と勝義諦」が理解できていないからだ。

 

 同じ映画でミサトが自衛隊員に対して「悪く思わないでね!」と言って拳銃をぶっ放すシーンがある。

 

 (日本で活躍する)テーラワーダのお坊様は、相手の社会的な立場を重んじて、方便だったり、沈黙だったり、最悪自分が犠牲になったりして布教活動をなさっているが、私はそんなに優しくないし、そもそも私にはそんな影響力は無い。だから思う存分言ってしまおうと思う。もう亡くなってるし。

 

 水野弘元、中村元はこの論理がわかっていない。だから私は嫌いなのだ。そりゃあこれが分かっていない人が書いたものを読んでいたら、虚無主義だと思われても仕方がない。

 彼らの能力を否定するわけではない。言語能力、知識量はすごい。私も現に今彼らが関わった日本語のものを読んで勉強させてもらっている。しかし、そんなに頭の良い人が、なぜこんなことがわからないのだろう、とは長い間疑問である。

 

 

 さて、世の中では「これがないから虚無主義」となってしまうようだ。欲を否定すると虚無主義、我がないと虚無主義虚無主義とは、そんなに生易しい話ではない。

 

 1.yesではない。
 2.noではない。
 3.yesでもありnoでもある、ではない。
 4.yesでもなくnoでもない、ではない。
 5.noではない、ではない。

 

 ここまで否定して、初めて虚無主義たり得る。

 

 yesではない、noではない、は単純だろう。まあこの時点で「noではない」とあるので以前書いたようにno「ではない」となってしまうが、ここでは単純に普通の二重否定だと取っていただいて構わない。

 

 3.は、一昨日書いた、

 

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この識は、五蘊とか十二縁起の識とはまったく違う。まったく違うのだが、別に同じととっても構わない。

 

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 順番は逆だが、これだ。

 

 4.は無色界禅定の非想非非想処定を考えてみればわかるだろう。想ではなく、非想でもない。

 

 5.は、no「ではない」、でもない。これは以前書いた、無限の世界が広がる否定形、その世界「でもない」。これで完全に消滅する。

 

 この5.を応用して3.と4.を考えても良いが、さすがにあまりにも茫洋としすぎるので、今は扱わない。

 

 

 さて、涅槃とはなんだったか。

 

 アビダンマッタサンガハの最初で、勝義諦、第一義とは心、心所、色、涅槃とある。諸法無我についてはもうこの時点で理解していてもらわないと困るが、念のためリンクを張っておく。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 「「無我を理解すると我があるよ」というのも違う」と書いた。無我と非我に違うパーリ語があるわけではない。anatta、それだけだ。テーラワーダ的にはātmaṃなんてものはないよ、と言っているだけだが、それでもなんとか「我があるよ」と言う話に持って行こうとするので、こんな話までせざるを得なくなった。さすがにここまで書く気はなかった。

 理解としては、ātmaṃがありませんよ、日本的に言えば永遠不滅の魂、輪廻する主体はありませんよ、という理解で良い。「そんなの、ほんとかよ~」と思っていれば、それで良いのだ。どうせ明確には、悟らないとわからない。

 しかしこの論理をちょっとでも、興味を持っておくくらいにはしておかないと、十二縁起での識viññāṇaの段でむちゃくちゃひっかかる。ここで識というのは、世間的には結局魂のことだ。しかしそんなことを言っていたら、スダンマ長老に怒られた(笑)。

 だから、「ほんとかよ~」で止めておいてくれれば良かったのに、日本における仏教の権威がアホなことを言ってしまったためにひどく混乱する始末となってしまった。

 いや、何度も言うように大乗仏教における教義を否定したいわけではない。テーラワーダにそれを持ってこられると大変困る、ということだ。本当にこれで大変困っている。なぜ大乗仏教テーラワーダを混ぜるのだ、皆。こんな話、スマナサーラ長老の話を聞いていればわかるはずなんだが…

 

 

 さて無我とは単純に「我がない」ということだ。これはスマナサーラ長老が言うように「「私」なんてものはない」で正解だ。しかし、それは、何度も言うように勝義諦だ。世俗諦ではない。

 

 一昨昨日に、不貪と瞋の違いについて書いた。これも理解しておかないと虚無主義に陥りやすいので、ぜひ理解していただきたい。ここにも書いたように、このように親切に書いてくれてあるものは私は今のところ他に知らない。

 

 さてここまでは理解していただけたとして話を進めることにする。

 

 涅槃は、名色の滅によって得られる(?)。しかし、日本語でも涅槃が「現れる」とは言わない。般涅槃だとか、涅槃に入る、とかいう。そこはわかっているのに、なぜ無我がどう非我がどうだとかいうのか。意味が分からない。

 

 有余涅槃は阿羅漢果で得られ、無余涅槃は名色の滅で得られる。同じ(?)涅槃には変わりないが、体の消滅、即ち色蘊の滅があるかどうかが違う。有余涅槃では、名も色も残っている。その名があるから、アビダンマでは「出世間心」だとか「唯作の笑起心」だとかがある。

 

 お釈迦さまは五取蘊は苦、とおっしゃる。五蘊が苦、とは言っていない。まあ無余涅槃だけが涅槃だよ、とすれば五蘊が苦、でも構わないが、だからかもしれない、日本では五蘊が苦になってしまっているから、五蘊から離れる、死、即ち成仏、となるのは。いや、まったく違うと思うが。

 さて、涅槃というのは、名色の滅。しかしそれは常住で、楽。それはテーラワーダでも間違いない。しかし、「無我」だ。

 

 恐らくここを勘違いされていると思う。「名色の滅」とだけ取るから(いや、正解ではあるが)、虚無主義に思えるのだろう。

 

 ここで、先ほどの3.が効いてくる。順番は逆だが、「noでありyesである」。名色の滅によって存在が無くなる(no)だが、常住である、楽である涅槃は有る(yes)。

 

 ここで、細かい話は省くが、無色界というのはお釈迦さまが現れる以前の宗教家たちが開発した禅定であることは以前にも書いた。名蘊というのはよくわかっていなかったから、とりあえずわかりやすい(名蘊に比べれば、だ)色蘊について、滅すればなんとか涅槃に行けんじゃね?というわけだ。

 これは大変な話だ。論理上わかっているだけではなく、彼らは実践してしまった。とんでもない人たちがいた時代である。が、お釈迦さまはそれも解脱ではない、と喝破した。

 

 これはそれ以前の人が発見したものなのかどうかは知らないが(恐らく違うだろう)、アビダンマッタサンガハでも後で出てくる、無想有情という天界がある。色界最高禅定を身に着けた後、想厭離の修習によって心、心所がない、乱暴に言えば名蘊がない生命、ということだ。テーラワーダでは、これだけはやってはいけない、と言われる。無色界以上に時間の無駄だからだ。こんどはほんとうになにもできなくなってしまう。

 さらに悪いことに、お釈迦様の当時には冥想によって過去世が見える修行者がたくさんいたが、その彼らがその梵天界にいつか入っていたとして、その後に何らかの生命に(恐らく梵天とかだろう)なっていたとしてその過去を見てしまうと、「何もない所から生命、私は生まれたのだ」と勘違いしてしまう。他の梵天についても、あまりにも寿命が長いためその過去世を見た修行者がやっぱり「私は最初から存在していた」と勘違いしてしまう話が出てくる。

 

 さて、これは3.と4.のミックスのような気もするが(実はそうでもないような気がしているが(笑)。これで言うならnoでもない、noでもない、だよなぁ。そもそも命題が移っちゃってるし。どうかここはひらに、突っ込まないでいただきたい)、無色でもない、無名でもない、それが涅槃。

 

 中村元は、涅槃に至ると我がある、と思いたくて、名についてどこに出てきても「名称と形態」などと意味の分からない訳を当ててしまっている。

 いや、別に間違いではない。名というのは名称でもあるし、形態でもある。しかし、どこに出てきたところで遍くその意味で通るわけではない。まあそれでもいいとすると、結局涅槃では名色は滅する。名称と形態も滅する。そうとっても構わない(←念のため言っておきますが、嫌味ですよ)。

 


 さて、お坊様はこの論理を使って方便を使う。この中の一要素だけを見ているから「おかしなことを言っている」と思ってしまう。が、まあ仕方ない。名だたる学者がわかっていなかったのだから。

 

 勿論のこと、この論理についても私は施設、世俗諦を用いている、ということはもうみなさんお分かりですね?