さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

ブログをお休みします。

 昨日、「コメント欄を開けます」と発表したが、その後コメントはいただけなかった(笑)。

 

 以前も書いたように、アビダンマをこれ以上ブログで書こうとすると、英語を勉強せざるを得なくなった。さすがに一朝一夕では、どうにも…

 

 というわけで、いつコメントをいただけるかわからずに日々過ごし、忘れたころにやってきたものをネタにブログを書くのもモチベーション的に厳しいような気がするので、再びコメント欄は閉じ、少なくとも当面の間はブログをお休みさせていただきます。

 

 

 これまでにも何回か、ネタ切れによって「ブログはそろそろ」と考えたことがあった。

 

 今見てみると、119記事もある。本人的には、「よくもここまでネタが持ったものだ」と思っている。しかし、さすがに吐き切った。

 

 

 また何か言いたいことがあったり、または英語が修得出来たら再開しようと考えているが、今のところ、それまでに何か出てくるとは思えない。

 

 

 というわけで、半年の間、ありがとうございました。

 

 

 そういえば、死隨念の影響だろうか、齢40を超えて、初めて努力、精進の意味を知り始めたような気がしている。今、私はなんと、勉強している。

 

 と、思う…

 

 

 確かサンスクリットだったと思うが、明日死ぬように生きろ、永遠に生きるように勉強しろ、みたいな格言があった気がする。

 

 そりゃ、明日死ぬと思えば、勉強する気にはならない。映画などでは、欲望の赴くままに好き放題したりもする。

 

 言葉の捉え方は、気を付けなければならない。努々、テーラワーダの言葉を、好き勝手に解釈しないでいただきたい。

 

 

 いや、またそんなのを見かけたら、頭にきてブログを再開するかもしれない(笑)。

 

 

 それまで。

 

 でわ。

 

コメント欄を開けようと思う

 いよいよほんとうにネタが尽きたw。

 

 というわけで、皆さんの力にすがろう、という魂胆だ。コメントをいただき、それをブログのネタにして延命を図ろうとのゲスい考えから、コメント欄を開放することにしました。

 

 悩み相談などされてもなにも解決するようなことは書けないだろうし、なにしろ自分が冥想していないのだから冥想のことを聞かれてもなにも答えられないが、知識的な方面からは

 

 というか、なんでもいいから、ネタくれ(笑)

 


 よろしくお願いします<m(__)m>

 

四つの御守りの冥想~死隨念3

 先日書いた通り、私は今まで死隨念についてはまともにやってこなかった、と言っていい。

 

 以前も書いた通り、私はこのブログを書くにあたり、特になにか調べたりはほぼしない。ただキーボードの前に座り、その時に思いついたままを書いているのだが、だからだろうか、この死隨念については、まるで書くことによって死隨念をしているかのような感覚を覚えている。死隨念というものは「今日明日にも死ぬかもしれない。だから生きているうちに努力しよう」という精進を生むらしいのだが、確かに明らかに今までよりも頭が回っている気がしてならないのだ。

 

 そして、どうも満足も生むようだ。ここのところ、「ああ、今日も生きていられた」という気が生まれてきている。

 

 いろいろな冥想についてはそれぞれの効用が言われたりするが、そこはいろいろオーバーラップするところもやはりあるのだろう。やり方や、その人の特性も大いに関係するに違いない。

 

 

 で、驚いたことに、やはりここのところ「うわ、昨日の俺、クズだはw」という感覚にも襲われている。

 

 自分では何が変わっているのかはわからない。しかし思い当たる所と言えば、この死隨念についてブログで書いていることくらいだ。


 私が思った以上に、死隨念というのは徳の高い冥想なのかも知れない。

 

 そして、こんなことを書いていられるのも、やはり皆さんからのアクセスがあって、モチベーションが続いているからだ。ありがとうございます。

 

 そして、この善行為を皆さんに回向いたします。是非とも随喜して下さい。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

suyasatthāma-puññiddhi
スヤサッターマプンニッディ
徳、智慧
buddhi-vuddhe jinadvayaṃ,
ブッディウッデー ジナッドゥワヤン
名声の限りない佛陀も
ghātesi maraṇaṃ khippaṃ
ガーテースィ マラナン キッパン
死という悪魔に殺されました。
kā tu mādisake kathā.
カー トゥ マーディサケー カター
私などはどうなるというのでしょうか。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 なんとお釈迦様も、死んだのだ。

 

 ここは大いに誤解されるところかもしれない。

 

 お釈迦様は、般涅槃、アビダンマで言う無余涅槃に入られたので、お祝いされるのだ。死んだから祝われるわけではない。

 

 これは確か以前には書いていなかったと思うが、シンハラ人にシンハラ語で「あなたが早く涅槃に行けますように」と言うと、やはりこれは「早く死ねということか?」という印象になるらしい。テーラワーダの国と言えども、ここは日本語とも別に変わらない(笑)。

 

 まあ在家であればそこまで詳しく教義を知っているわけでもないし、だからこそ「私は正自覚者だ」という出家に騙されてしまうのだろうが、それにしてもこういう所は難しい。表面的にはまったく同じことだからだ。

 

 だからこそ、テーラワーダにマニュアルは、ふさわしくない。「こうしたらこういうことです」と一面的に見てしまうと、道を踏み誤る。

 

 寺でも見たことがある。在家の人があることをしたら、出家が叱った。しかし他の人が同じことをしたら、褒めた。

 

 意図が読めれば上手く対応できるが、意図を読み誤ると、最悪善いことをしようとしているのに「なに悪いことしてるんだ!」ということになる。私も小さい頃からこういうことをされた経験は山ほどあるのでよくわかる。日本では「善いこととはこういうことです」とガチガチに決まっているから、そこから外れると無茶苦茶怒られる。

 

 マニュアル化された行動だと、悪い意図を持っても善行為に見せかけることができる。本人も善行為だと思い込んでいたりする。

 

 テーラワーダにおいて善行為とは、不貪不瞋不痴でなされた行為。悪行為とは、貪瞋痴でなされた行為。行為とは、身口意で行うこと。


 アビダンマ的だとは思わないでいただきたいのだが、貪瞋痴が「ある」というのなら、不貪不瞋不痴によって貪瞋痴を無くす、または燃やす、でもいい。

 

 不貪不瞋不痴が「ある」というのなら、不貪不瞋不痴を「増やす」と考えても良い。

 

 だからといって、在家なのだからあまり貪については敵視しすぎないでほしいのだが、世の中の行動として、不貪不瞋不痴が多ければ多いほど、結果が良くなる。貪瞋痴が多いほど、結果が悪くなる。本人にとっても、社会にとっても。

 

 不貪と不瞋については、当然冥想で気付いていくことも重要なことだが、なぜだろう、ネットでいかに長時間冥想しました自慢はよく見るが、これだけたくさんお布施しました自慢をあまり見ないのは。これはお布施が現代日本でいかに難しい行為かを端的に表している。

 

 kusalaとpuññaは違う。kusalaというのは、それこそ解脱に至る、心を綺麗にする行為で、puññaというのは、テーラワーダにおいてもこれこそが「現世利益」を生む福徳だ。

 

 いや、「現世」というと、語弊有りまくりだ。お坊様に言われたことがある。「āmisapūjāをしたからといって、今世に良い結果があることを期待してするのは、欲。来世に良い結果があることを期待してするのは正見」と。

 

 意味が分からなかった。「どゆこと?」

 

fujisugatavihara.blogspot.com

 ここに、正見について説明がある。

 

 つまり、「来世がある」と考えることは、正見なのだ。輪廻が無い、と思っている限り、残念ながらテーラワーダにおける預流果になることはできない。

 

 来世以降、いい結果があると思って金品をお布施(何度も言うように、僧伽や出家だけではなく、テーラワーダでいう「お布施」は、自分以外のどんな生命に対して行っても善行為。悪人にすら)することは、なんと正見なのだ。

 

 アビダンマ的に言って、路の速行の1番目に来るほど強い善の心が働けばdiṭṭhadhammavedanīya kammaになるのだから、「来世以降」と思っていたところで、どうせ結果は出る。であるなら、「来世以降」と思っていた方がテーラワーダ的に善行為の力が強いのだから、やらない手はない。その上不貪の行為にもなるのだから。


 と、アビダンマ的に考えると面白いと思わない?

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

paccayānañ ca vekalyā
パッチャヤーナン チャ ウェーカルヤー
歳をとって死ぬ、
bāhirajjhattupaddavā,
バーヒラッジャットゥパッダワー
事故によって死ぬ、
marāmoraṃ nimesā'pi
マラーモーラン ニメーサーピ
瞬間瞬間死に近づいています。
maramāno anukkhaṇaṃti.
マラマーノー アヌッカナンティ
死を越えられる人は一人もいません。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 ここは自信が無いのだが、テーラワーダにおいて、死というのはロウソクの火に例えられる。

 

 ロウソクのロウが無くなっても火は消える、紐(?)が無くなっても消える、風が吹いても消える、ロウと紐が同時に無くなっても消える。

 

 そのように、業(寿命)で亡くなったり、事故で亡くなったりする。ここが、運命論、宿命論と業がちょっと違うところだ。業の力は最強、お釈迦様ですらどうすることもできないが、すべての結果が業のみによって起こるのではない。

 

 では他の要素はなんなのか、というのは、すまん、忘れてしまった…。何度も聞いているはずなんだが…。

 

 まあとにかく、事故とかで死ぬことはある。津波などはわかりやすい。どうにも業が良すぎる人であればどんなことがあろうとも生き残ってしまうかも知れないが、そうでなければ、巻き込まれて死んでしまうこともある。

 

 戦争などは、わかりやすいだろう。業が良いからといって、必ず生き残れるとは限らない。現代日本では縁が無いが、飢饉などもそうだ。

 

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 ここでも書いたように、「すべては業によって」と言う場合もある。しかし厳密に言うと、すべてが業の結果ではない。

 

 まあここは、私の場合で恐縮だが、「viññāṇaというのは、魂のことですよ」と言うのと同じだ。本当は全く違うのだが。

 


 死隨念終了。

 

四つの御守りの冥想~死隨念2

 引用はいつもの通り、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の、日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

īsakaṃ anivattaṃ taṃ
イーサカン アニワッタン タン
命は、朝に昇った太陽が夕方になって沈むまで
satataṃ gamanussukaṃ,
サタタン ガマヌッスカン
走り続けているようなものです。
jīvitaṃ udayā atthaṃ
ジーウィタン ウダヤー アッタン
人生は少しも止まらず、
suriyo viya dhāvati.
スリヨー ウィヤ ダーワティ
死というところまで走っていきます。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 太陽が東から西へ常に動き続けているように、我々が、有情が生まれたということは、常に死に向かって走り続けていることだ、とのこと。

 

 他のテーラワーダの国はわからないが、スリランカでは、誕生日や結婚記念日など、まあとにかくなにかにつけてお食事のお布施等をして、お坊様方に祝福してもらう。こういう時はだいたい皆ケーキを持って来て、皆で食べる。

 

 大変良いことだと思う。なにかにつけて文句を言うのではなく、なにかにつけて、善いことをする。

 

 こういう時、例えばでは誕生日の場合、お坊様は冗談めかして、「なにがおめでたいんですか?また一年死に近づいたんですよ?」なんて言ったりする。

 

 現代日本ではテーラワーダの考え方自体なかなかあまり馴染みのない考えなのでスマナサーラ長老は怖そうな顔をしてこういうことを言ったりするが、これは決して「おめでたい気持ちになんかなるんじゃないよ」ということではない。

 

 確かお釈迦様も、「何を笑うことがあるのか?こんな輪廻の中で苦に満ちているのに」みたいなことをおっしゃっているはずだが、それは「なに笑ってるんですか!?不謹慎な!」とか言っているわけではない。いわゆる不謹慎厨ではない、ということですな。

 

 ここは結構誤解されている所だと思う。だから世界的に見ても、「仏教は暗いことばかり言う」と言われてしまう所以だ。

 

 お釈迦様は、「修習、修行を楽しめ」とおっしゃる。もしかしたら、出家に対しては「は?なに笑ってんの?バカなの?」くらいの圧力を加えているかも知れない(笑)が、在家は、日常生活が楽しめないで、修行が楽しめるわけがない。

 

 お釈迦様の教えというのは、日常生活に活かしてこその仏教だ。なぜか。別に在家に対して「解脱しなさい」とは強調していないからだ。もちろんお釈迦様在世当時、在家の預流果の方はわんさかいたし、不還果の方も、経典だか注釈書だかに出てくる。しかしそういう方々は、無論教えを説いたりする方々もいらっしゃったが、まず日常生活を楽しんでいらっしゃった。

 

 日本でも昔からそうであるように、なにか問題を起こした、問題が起こったから出家した、ということはある。そういうことがあってお釈迦様に出会ったから、「では出家しなさい」と、いいようにお釈迦様に誘導されている気がしないでもない話も多い(笑)。

 

 しかし、在家の楽はお釈迦様も認めている。出家の楽とは明らかに違うものだ。ここを誤解して、「在家も出家のように暮らさなければ」と思う必要はまったく無い。中にはそういう修行タイプの人もいる。それはそれで勿論素晴らしいことだ。

 

 が、中には、そういう生活は「窮屈だなあ」と感じる人だっている。

 


 今はまだできないが、そのうち、テーラワーダ実践者の在家皆でなにか普通に遊んだって良いのではないか、と思っている。

 

 大乗仏教のお寺でも、若いお坊様を中心に、いろいろなことが試みられているようだ。大道芸やコンサート、こども食堂や、当然教法の勉強まで。最近はアンドロイド観音まで出てきた。正直に言ってしまうと、個人的には「どうか」と思う(笑)が、動画を見た時、そこに関わられているお坊様方は本気なんだな、というのは伝わってきた。

 

 まあアンドロイドはおいといて、それでこそ「お寺」だと思う。皆が集まり、善行為をしようとするモチベーションが皆で高まりあえば、素晴らしいではないか。

 

 冥想や法話を聴くこと、教法の勉強は大変素晴らしい。しかし、それ「だけ」では、なんとも、ねぇ。

 

 世間一般で「遊ぶ」となると、ちょっとバカ騒ぎ的なイメージがチラついたりするが、テーラワーダでやるとなれば、当然酒は絡まないし、以前にも書いた通り、バーべキューとも縁が無い。

 

 皆でやるとなれば、あまり準備に時間が掛からないものの方が良いだろう。それぞれが既にできることを組み合わせてなにかやるのなら、誰にも負担は重くならない。永続的に続けていくのなら、いつか義務感が生じてきてしまうようなら、その手前ですんなりやめられるような雰囲気を作っていく。

 

 話題になる、大乗仏教のお寺でのコンサートは、ちょっと大掛かりすぎる。そういうものがあっても勿論構わないのだが、皆でやるというのなら、そこまで大掛かりになる必要は無い。ほんとうに、そこに来られる人が大きな負担なくできることをやれば、それで良いではないか。

 

 暫く続けていると、方向性を見失うかも知れないし、冥想と同じで、変な方向に行きそうになってしまうこともあるかも知れない。そういう時に、お坊様がいれば、早いうちに軌道修正ができる、というものだ。


 正直なところ、今の日本はテーラワーダの黎明期だということもあって、皆のマウンティング合戦だった。冥想となると「何年やってますか?」とか、教義となれば「無常、苦、無我とは」とか。

 

 どうですか?皆さんそろそろそれに疲れてきた頃ではないですか?こういう力が抜けた時というのは、チャンスだ。今こそ、大きな一歩を踏み出せる時だ、と思うのだ。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

vijju-bubbula-ussāva
ウィッジュブッブラウッサーワ
雷、水の泡、水に書いた線、葉の上の滴のように
jalarājī parikkhayaṃ,
ジャララージー パリッカヤン
いつ落ち消えるかわからない、そのようにすぐになくなります。
ghātako'va ripū tassa
ガータコーワ リプー タッサ
死というものは防ぐことのできない、
sabbatthāpi avāriyo.
サッバッターピ アワーリヨー
殺しに来る敵のようなものです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 水の泡、葉の上の滴、というのはわかる。

 

 雷、というのはどういうことだろう?稲妻のように一瞬ですよ、ということだろうか。

 

 それにしても、「水に書いた線」というのは、あんまりではないだろうか(笑)。検証のために今指でやってみたが、水面に線など書けねえぞゴルァ(怒)

 

 (追記:その後風呂で乱暴に(?)やってみたら、確かに瞬間軌跡が残る。このことか?)

 


 まあとにかく、「そのようにすぐになくなります」よ、とのこと。

 

 昨日出てきた、阿羅漢になられたお坊様は、この死隨念を限界までやった、とも言える。ミャンマーの言い方かもしれないが、死隨念は、今年、今月(もしかしたらここら辺までは無かったかもしれない)、今日、次の時、分、この呼吸が終わる時、とか、どんどん時間を短くしていったりする。

 

 そういう話を聞くと、まあこの文章もやりすぎというわけではないなあ、とは思うが、それにしてもなぁ、と思ってしまう私は、まだまだ死隨念が足りないのだろう。