さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スマナサーラ長老、スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。

ブッダラッキタ長老御法話「世間とは」解説

 このブログはこちらの動画の解説動画である。

 

youtu.be

 

 今回のこの動画は、さすがに日本語のみでテーラワーダを勉強されている向きには難易度が高いだろうと思い、解説を加えることにした。

 とりあえず、動画中のテロップは全てを太字(ボールド)にてこちらに記し、随時にそこに解説を加えることとした。数字は動画中の時間を表し、時間;分;秒;フレーム数であるが、この動画は約30フレーム(29.97fps)で書き出されている為、それ以上の数字は無いが、飽くまでこれは参考値としていただきたい(←ただ消すのが面倒くさかっただけ…)。

 殆どの人はYouTubeに動画を上げたことがないであろうからわからないと思うが、以前はPremiereProでH.264で書き出した場合、YouTubeに上げるとチャプターの位置が数秒単位でローカルな環境とは異なっていた。その為上げた後に修正をちまちまとしていたわけであるが、何故か最近はそのままの秒数で合っている。かといって、フレーム数(fps=frames per second、1秒の間に何フレーム表示させるか)まで合っているという保証はどこにも無いが、いちいちそれだけを消すのも手間なので(なにしろ量が厖大で…。申し訳ない)、そのままにしてある。

 もっと以前であれば、私はDaVinci Resolveで動画編集を行っていたので、このアプリはアプリ内の編集で入れたチャプターをそのままYouTubeに上げられるという神機能を純正で装備していたが、キャプション、特に日本語キャプション(テロップ、字幕)の自由度はPremiereProの方が未だに圧倒的であるので、毎月高いAdobe税を私の法施として喜んで払い続けている。

 更に言い訳ばかりで申し訳ないが、秒表示と動画のリンクを張ろうとも思ったが、こちらも手間がかかり、なにより確認作業が大変すぎるので、テロップをすべてここに記した為法話の流れはそれでわかっていただけるだろう、との期待の下、秒表示のリンクも割愛させていただいた。

 

 技術的なことに興味のない向きには苦痛な文章であろうが、やっとここからテーラワーダの解説に入らせていただく。

 

 パーリ語部分に関してはリンク先(光明寺経蔵様)を見れば良いので、そこも割愛した。

 

00;04;34;08 - 00;04;52;26
kammaṭṭhānācariya 業処師(ごっしょし)。
テーラワーダで教える四十のサマタ瞑想(止業処)を
授ける師匠。所謂瞑想指導の専門家。

 

 kammaṭṭhānācariya 業処師(ごっしょし)。

 テーラワーダでは瞑想は大きく二つに分かれる。サマタ瞑想、止業処とヴィパッサナー瞑想、観業処である。

 簡単に言うと、厳密に言えばサマタ瞑想は集中力を高めることに重点を置き、ヴィパッサナー瞑想はテーラワーダにだけ残る教え、無常・苦・無我を観ることである。

 

 ここでいきなり世の中では誤解があるが、それは仕方のないことである。なぜなら、この動画内でも後に触れているが、無常・苦・無我を観るためには如理作意 yonisomanasikāra が必要で、つまりそれは正見 sammādiṭṭhi が必要だからである。世の中では正見を必要十分に教えている教えはテーラワーダしか無い。で、これに触れている教えは残念ながら今までは日本にはほぼ無かった。だから「ヴィパッサナー」と言う新しい言葉を与えることによって世の中に浸透させていくことに成功したヴィパッサナー瞑想は、西洋での「マインドフルネス」という言葉とともに流行することになるが、実はその殆どは結局サマタ瞑想である。

 

youtu.be

 

 この動画でも明言されているが、サマタ瞑想とは atta 我の瞑想である。つまり、どれだけやっても預流果に達することはできない。現に、我らがお釈迦さまが悟られる前、凡夫の頃のゴータマ修行者はアーラーラ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマプッタという二人の先生に無色禅定を習ったが、それはつまり、この二人の仙人は無所有処と非想非非想処という、色界を超えて、特にウッダカ・ラーマプッタに至っては最終無色界禅定にまで達していて、つまり禅定はこれ以上無い、というところまでわかっていたが、預流果には達していなかった。

 

 では預流果に覚る為にはサマタ瞑想が必要ないのか、というとそれはそうではない。だから、あまりこれがサマタ瞑想である、という自覚は無い向きが多いかとは思うが、慈悲の瞑想は立派なサマタ瞑想である。お坊様方は言葉巧みにサマーディ、定も育てさせているのである。

 それはなぜなのか。ここには議論のあるところだが、サーリプッタ尊者によると、正定とはいきなり第一禅定から始まる(saccavibhaṅga sutta. MN 141)。

 因みに動画内でもこのアルファベットと数字はよく出ているが、ここの場合 majjhima nikāya の略である(つまり中部経典)。どうも学術的に完全に統一されているわけではないようであるが、まあ動画内が文字だらけになってもしょうがないし、そもそも略と数字だけ出しているわけではなくてそもそも経典の名前は出していることが多いのだから興味のある人は自分で調べられるやろ、くらいの気持ちで書いている。なぜかはわからないが、日本人は「その出典は」と訊いてくる人がやたら多いので、参考のためにテロップに入れることにした。

 因みに動画内でもいつも参考にさせていただいているサイトはこちら、光明寺経蔵様だ。

https://komyojikyozo.web.fc2.com/

 

 この動画解説の、後に出てくる経典のリンクもこちらのサイトからになる。このサイトの作業量には本当に頭が下がる。非常に好感の持てる訳で大変参考にさせていただいているが、テーラワーダ的には単語の意味が不明な部分も多々あるため、

 とゆーか、経典の出典を訊いたところで、その経典に用語の説明など先ず載っていない。単語の説明は注釈書を読まなければわからず、しかし注釈書は単語の説明がメインであって(略)

 というわけで、経典の単語を自分のいい加減な知識で読むと大変な誤解を生むわけだが、そういう人はそれが世界全体なので、知らない、ということを知らない。所謂無知の知の無い人だ。トンデモなテーラワーダ知識を自信満々と披露する人と最近も出会ってしまった。

 

 話を戻して。アビダンマでも道心 magga citta、預流果に至る一歩手前の預流道心は初禅からしか存在しないし、だから「(少なくとも第一)禅定に達しなければ預流果に達することはできない」と断言するお坊様も多い。サマタを中心に瞑想を教えるお坊様は基本そういう姿勢だと思う。

 しかし、律 vinaya・経 sutta・論 abhidhamma の三蔵のうち論の国ミャンマーと違い、スリランカのお坊様は禅定についてそこまで厳密には説かないのが普通だ。近行(きんぎょう、ごんぎょう upacāra)とか種姓(しゅじょう gotrabhū)とか、聞いたことがない。勿論、瞑想で有名なお坊様、例えば森林派のお坊様、

youtu.be

 こちらのラタナ長老もアビダンマに大変詳しいが、ミャンマーのお坊様ほど、例えばダンマパダをアビダンマで解説する、等といったことは絶対にやらない。

 

youtu.be

 こちらのマンガラ長老も、「アビダンマは天人に解いた教え。預流果になったらやれば良い」というスタンスだ。

 飽くまで経の国、スリランカは経を中心に法を説く。アビダンマとは齟齬が見られるところも正直な所あるが、それは経典においてお釈迦さまが、人によって説く内容が違う(特に種類の数など)というのと同じようなものなので、そんな細かい所よりも教えの真髄を理解することの方が重要である。

 

 で、禅定の話に戻ると、「禅定」と言っても、khaṇika samādhi 瞬間定というのか、例えば本を読むのに集中力が高まって、誰かがその人に声をかけられても気付かない、というような集中力でも養えば、それで十分(まあ例え話であってその程度ではさすがに覚れないだろうが)、というお坊様もいらっしゃる。しかし覚るためには集中力が要るよ、ということは共通しているところである。

 しかしこの集中力、対象が危ないものであるととんでもない方向に行ってしまう恐れがある。だから、その対象をテーラワーダでは40に規定しているのだ。

 

 で、やっと kammaṭṭhānācariya 業処師(ごっしょし)に戻るが、スマナサーラ長老が「私は瞑想指導者ではありません」という物言いをするのを覚えている方もいるかも知れない。私などは「あれだけのことをしといてそれないわ~」と思っていたものだが、業処、サマタの40の kammaṭṭhāna 業処と言う通り、瞑想の専門家というと、サマタにも精通していることが求められ、その人の性格や業(すべてを見ることができるのは正自覚者のみだが)に合わせてサマタを訓練させることのできる人が業処師である。性格によっては、この40の対象の中でも相性によって危ないものが実はある。その見極めができないと、サマタだけでなく、実はヴィパッサナーも教えるのは危険である。それには kammaṭṭhānācariya ほどではなくとも専門知識がいるので、「素人が瞑想指導してはならない」と言われるのである。そういう危険性があるので、現実的にサマタは基本、師匠が身近にいる状態でないとやらない方が懸命である。

 まあとにもかくにも、スマナサーラ長老は「私は業処師ではありません」と言いたいのである。

 

 ではヴィパッサナー瞑想では集中力が育てられないのか、というと別に、世にいうヴィパッサナー瞑想やマインドフルネス瞑想で集中力が育てられないわけではなく、まともな指導者のやり方ならそこはうまくバランスが取られているから大丈夫である。

 

00;05;39;27 - 00;05;47;17
大寺派系アマラプラ宗日本大僧伽ナーヤカ(主任)長老

00;06;55;11 - 00;07;07;07
saṃyutta nikāya 相応部 
saḷāyatana saṃyutta 六処相応
samiddhilokapañha sutta サミッディ世間問経

 

 光明寺経蔵様による samiddhilokapañha sutta

https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn35/sn35c051.htm

 

00;07;20;15 - 00;07;30;22
サミッディという出家者、お坊さんが
お釈迦さまの所に来てお釈迦さまに礼拝して横に座って、
お釈迦さまに質問しました。

00;07;44;19 - 00;07;49;23
世尊よ、「世間、世間」という言葉が使われます。

00;07;55;00 - 00;08;04;13
どの位で世間と言いますか、どの位で
世間という言葉の表現を使うことができますか。

 

 これが動画内でなくここでこの動画の解説をしている最大の理由になるのであるが、動画内で私さくらぎが勝手に解説してしまうと、それはお坊様の見解だ、と勘違いされてしまう可能性が大きいからである。無論自分としても現時点では間違っていないつもりではあるが、間違っている可能性は大いにある。その責任は、このブログで公開する分には私に帰属するので、ここで解説させていただいているわけである。そもそも、動画内をもうこれ以上文字だらけにするのも気が引けるわけでして…。

 

 で、この「世間」という言葉、「世界」とか「世の中」にしてしまって構わない。世界とは何なのか、その質問にお釈迦さまが答えているのである。

 

00;08;26;23 - 00;08;32;07
サミッディさん、眼があり

00;08;34;10 - 00;08;37;04
rūpa、色(ここでは六境の色)があり

 

 動画内で後で私が質問しているが、名色 nāmarūpa の rūpa 所謂物質と、六境、色声香味触法の色 rūpa の違いを指している。後でブッダラッキタ長老がその二つは同じものではあるが、と説明して下さっているが、とりあえずこの先その二つは区別した方が理解が進みやすいと思われるので、しつこいようだがわかりにくいところはテロップで注釈を入れている。

 

00;08;39;29 - 00;08;45;11
その rūpa を識る眼識(げんしき)、
cakkhu viññāṇa があり

 

 基本仏教用語(お気づきの方もいらっしゃると思うが、スガタ冥想センター関連では「佛」の字で統一している。なので動画内で後に一箇所「仏教」とテロップが出てくるがこれは間違いではなく、日本の大乗仏教からの借用とも言える箇所なので「仏教」とさせていただいた)は呉音で読まれる。全てがそうかはそこまで精査しきれていないが、仏教用語の読みが難しい理由がここにある。

 が、現代日本で使われる、普段使う漢字の読みも、漢音だったり呉音だったり、ごちゃ混ぜである。これは読みがどうこうというより、成り立ちの経緯によるところが多いのだろう(すまん、そっちはさっぱり専門ではないので調べてない)。だから動画内の後の方で私が呉音と漢音を間違えている箇所があるが、これは「普段あまり使わない難しい読みの方がきっと呉音だろう」という浅はかな考えのもと私が適当に放ったバカ発言である。

 だから、日本語でのテーラワーダの佛教用語は、読みはどうでもいいと言えばどうでもいいのであるが、眼耳鼻舌身意が、漢音だと「がんじびぜっしんい」になってしまう。別に統一もされていないし、懴悔は呉音だと恐らく「せんげ」だろう。そのうち市民権を得た読みを採用すれば良いが、そこまでするなら単語だけでもパーリ語で覚えたほうが早くね?というわけでそういう作業を私がやる気はない。飽くまでもどっかから借りてきたフンドシで相撲するだけである。

 

00;08;49;05 - 00;08;55;11
その cakkhu viññāṇa 眼識によって
識るべきことを識る

 

 cakkhu viññāṇa によって色声香味触法の色以外は識ることができない、ということである。眼で匂いは無理があるだろう。あまりの悪臭に眼が霞む、というのは飽くまで鼻から香を感じそれに反応した身的な眼で起こす事柄である。大音量の低音を身で感じる、というのも同じことだが、あまりの大音量の低音は明らかに地の要素を発生させているので身で感じているとも言えるのだろうか。

 

00;08;59;25 - 00;09;06;23
そこに世間があります。
世間という表現を使うことができます。

 

 世界はそこから始まるよ、というかそこが世界だよ、ということだ。これを勝義諦 paramattha sacca で理解しよう、ということだ。世の中一般の「世間、世界、世の中」という定義が間違っているよ、ということをお釈迦さまは言いたいのではない。それは世俗諦 sammuti saccca ということでテーラワーダでも認めている。むしろそれも積極的に勉強しなさいよ、とはしっかり言っている。

 

00;09;12;14 - 00;09;18;23
このように、六根について同じように教えています。

00;09;46;09 - 00;10;00;00
サミッディさん、ここに眼が無かったら、眼に見える色が
無かったら、それによって生まれる眼識も無かったら、

00;10;00;03 - 00;10;12;20
その眼識によって識るべきことを識ることも無かったら、
そこに世間もありません、世間という表現を
使うこともできません。

00;10;16;14 - 00;10;20;11
そのように、六根について教えています。

00;10;24;24 - 00;10;31;20
一番最初に、この六根の、眼について見ましょう。

00;10;37;02 - 00;10;50;22
眼がある。眼というのは cakkhuppasāda
眼浄(げんじょう)という所ですね。それはずーっと
続けてあって(←断続的に存在するということではない、
という意味。常 nicca という意味ではない)、

 

 cakkhuppasāda 眼の浄色、というのは眼の、六境の色をまさに認識するところのことで、cakkhu というのは物理的な眼のシステム全体を指すようなものだろうか。

 そういえばスダンマ長老は pasāda のことをよく prasāda と発言なさっている。サンスクリットである。

 

00;10;50;27 - 00;10;58;20
色、rūpa はこの pasāda rūpa 浄色に出会って

00;11;04;06 - 00;11;11;10
それによってその rūpa を識る
cakkhu viññāṇa が生まれて

 

 そのシステムから送られてきた信号(?)によって cakkhu viññāṇa が認識するので、現代の感覚でいうと視覚野と言えるだろうか。

 しかしここでそういうことにしてしまうと、あとあと問題が起こる。大きな問題は「その場所はどこなのだ」という問題だ。だからテーラワーダの話が全くわからなくなる。現代ではとにかく話を物資的に攻めてくるからだ。だから場所は cakkhu、行っても色を感じるところは cakkhuppasāda、までではないだろうか。それ以降、物質的な場所は求めないのがテーラワーダだ。てゆーか物質的な場所を求めてしまった途端、この動画の話もまったくわからなくなる。現代人の第一のハードルはそこかも知れない。

 

00;11;18;13 - 00;11;31;04
その cakkhu viññāṇa によって識るべきことを
識るというのは、 vedanā、saññā、saṅkhāra
という三つのことです。

 

 上に書いたことが間違っているのかも知れないが(「cakkhu viññāṇa によって識るべきことを識る」の段)、ここは私にはよくわからなかった。

 

00;11;34;29 - 00;11;41;13
そこに世間があります、
世間という表現を使うことができます。

00;11;49;15 - 00;11;59;23
ここで言ってるのは、
rūpa, vedanā, saññā, saṅkhāra, viññāṇa 色受想行識 という
五蘊が世間と言います、ということなんです。

 

 これはわかる。つまり、自分の身体(この場合では眼耳鼻舌身意の身ではなく普通の感覚で言う身体)、この五蘊が世間なんだよ、ということだ。外の世界は色声香味触に過ぎず、そこに世界があるわけではなくこの五蘊が世界なんだよ、ということだ。これは後でスダンマ長老が解説してくださっている。

 

00;12;03;22 - 00;12;08;15
同じように、耳から世間が生まれます。

00;12;10;03 - 00;12;13;02
鼻から世間が生まれます。

00;12;15;16 - 00;12;18;15
舌から世間が生まれます。

00;12;20;19 - 00;12;23;08
身体から世間が生まれる。

00;12;25;03 - 00;12;28;06
心から世間が生まれる。

00;12;30;05 - 00;12;32;09
心があって、

00;12;35;15 - 00;12;39;18
ārammaṇa 対象、所縁が生まれて

00;12;42;07 - 00;12;52;28
mano viññāṇa 意識によってその感覚を感じて

00;12;57;01 - 00;13;04;04
その mano viññāṇa によっても
vedanā, saññā, saṅkhāra が生まれます。

00;13;11;18 - 00;13;20;11
そうすると心からも rūpa, vedanā, saññā, saṅkhāra, viññāṇa という五蘊が生まれますので、

00;13;20;13 - 00;13;28;14
それが生まれて、世間が生まれます。
世間という表現を使うことができるようになります。

00;13;30;05 - 00;13;32;11
これを世間と言うんです。

00;13;35;14 - 00;13;40;29
それ以外の世間を見ることはできません。

00;13;43;24 - 00;13;47;23
全て、この五蘊の中に入ってます。

00;13;53;21 - 00;14;00;27
だから pañcakkhandha loka 五蘊という世間
という言葉を使っています。

 

00;14;09;24 - 00;14;23;03
俗世間の人々が世間について話すと、
いえ、私は違います、世間はそうではありません、
という意見に立って世間を見るんです。

00;14;32;22 - 00;14;45;03
ここでは、心と、その心で識る cetasika 心所も
世間に入ります。

00;14;48;15 - 00;14;52;19
聖なる方々は、そのように世間を見るんです。

00;14;55;23 - 00;14;59;20
疑問に思ったことがありますか?


00;15;00;20 - 00;15;10;11
質問:
先ほど mano (manas) について、
cakkhu で教えて頂いたんですけども、

mano から五蘊が生まれる、
という話があったんですけど、

mano から rūpa が生まれる、
というのがよくわかりません。

kammaja rūpa 業生色のことかも
知れないんですが…

 

 これは私がした質問である。


00;15;47;22 - 00;16;01;13
mano 心(意)というのは、データを保管してあって
後で思い出すとか、

00;16;01;19 - 00;16;05;13
そうやって見せる、まあ機械みたいなものなんです。

00;16;08;00 - 00;16;14;13
それは前世の業によって生じたものなんです。

 

 私の場合、善業善果、悪因悪果のその業はどこにあるのですか?という疑問は起こらない。後から知った概念だからなのか、どこかにその業が保管してあって適宜その業が場面場面で出現してくる、という考えではなく、そもそも業はあるがどこかにあるのではなくて適宜場面場面で出現してくる、という考えを持っている。が、記憶に関してはやはりハードディスクのように何処かに保管してあって、という考えを捨てきれずにいる。しかしそれはそうではないよ、ということを言っている。「データを保管してあって」と言っているので、この文章と相まって誤解してしまうかも知れないが、保管してある物理的な場所は無い(正確には有るとは言えない、というのが正しいのだろうがこの場合「無い」、で良いだろう)。

 他の教えでは、その業や、他には真我であるとかがどこかにあると思って探してしまうので覚りには至らない、つまり先述の atta 我の教えだよ、ということになってしまうのである。

 

00;16;23;02 - 00;16;35;12
その心は rūpa dhamma 色法の
熱 usmā と命 āyu がある限り続くんです。

 

 以前から私が悩まされているのがここだ(笑)。スダンマ長老は āyu と uṣṇa उष्ण ウスナと言っている。以前からスガタ冥想センター関連の動画のテロップが「あれ、お坊様が言っている単語と発音、綴りが違う?」と思った方も多いかと思う。

 少なくともスリランカ、シンハラ語環境では、佛教用語はほぼサンスクリットから来ている。日常的に使う言葉だとシンハラ語化しているものもあるが、お坊様も無意識にサンスクリット(というか感覚としてはサンスクリットだとも思っていないのかも知れない)で用語を話される。

 で、私はサンスクリットがまったくわからない。だからと言ってパーリ語も単語の意味が少々わかるだけであるが、サンスクリットは本当に何もわからない。

 本来であれば、パーリ語だけでは語根がわからないものがあるのでテーラワーダを本格的に学ぶ際にはサンスクリットも学ぶのが当たり前ではあるのだが、私にはそこまでの根性はない。し、今日本でテーラワーダを学ぶのであれば、パーリ語がわかるだけでも万々歳だろう。というわけでここの動画では、多少サンスクリットも入れることもあるが結局私では検証できないし、恐らく需要もないだろうから、パーリ語の単語で当てはめてテロップに入れている。そうすれば他のお坊様との話でも話が通じるかと思ったが、ことスリランカのお坊様であればサンスクリットのほうが通じが良い場合が多い…。

 

00;16;44;29 - 00;17;06;22
その mano、心の action として出てくるものは、
今までに使って終わりになった、前にやってたことが
心の中でまた繰り返し起こります。

 

 この action というところはスダンマ長老は「行い」とおっしゃるわけだが、私としては「行い」というとどうしても誰か主体があって起こしたこと、と思ってしまうので単なる「作用」、ともとれる action という言葉を入れている。

 こういう所、インド=ヨーロッパ語族だけあって、私でもそこはかとなくわかる英語から想像するに「こういうところをこういう文法でその訳語に当てはめているからこういう訳になるのだろう」と推測を立てて理解するのだが、これまでにどうしてもわからないところが数か所あったので、そこだけはスダンマ長老にお訊きしたことがある。ひどいものでは、シンハラ語だと思っていたものが実は英語だった、ということが一度ある。

 まあ、そんな感じで訳というのは一筋縄ではいかないものであるが、こういった話を通訳する、というのは私には考えられないような重労働であることは間違いなく、それをさらっとやられている(ように見える)スダンマ長老には本当に頭が下がる思いである(というか普段から礼拝しているが)。

 

00;17;13;09 - 00;17;27;11
お腹がすいてご飯を食べたいという時には、前にご飯
というものを食べてたから、すぐにご飯というとこんな
ものが食べたい、ということが思い出せる。

00;17;43;03 - 00;18;05;20
そのように rūpa, sadda, gandha, rasa, phoṭṭhabba
色声香味触(しきしょうこうみそく)、五境を前に使って
ましたので、心の中でまた生まれてきます。

00;18;10;27 - 00;18;18;18
それは前に使っていたのでまた思い出せるんです。
コピーするみたいな感じです。

00;18;25;10 - 00;18;29;05
そのように思い出せることは dhamma 法と言うんです。

 

 色声香味触法の法だ。ここを教えの法 dhamma と勘違いしてしまうと大変なことになる。そういった誤訳もたくさん見たことがある。翻訳というのはその二つの言語が喋れればできる、というものではなく、専門の分野について造詣が深くないといとも簡単に誤訳に繋がってしまう。いや、二つの言語がしゃべれるだけで私などからすればすごい能力だとは思うが、言語がしゃべれるのと専門の分野ができることとはまったく違う。日本語だけが喋れる人の中でも突出した専門分野の領域を持つ人達は多くいることからもそのことはわかるだろう。どちらかといえば、その専門分野ができる人の中から二つの言語が喋ることのできる人、という進み方が間違いないだろう。その関係でテーラワーダでは、日本語での誤訳が多く見られてしまっている。なにしろテーラワーダが専門分野の日本語を母語とする人達などつい最近現れて来ているだけなのだから。

 

00;18;29;07 - 00;18;33;04
manañca paṭicca dhamme ca uppajjati manoviññāṇaṃ. 
(MN 148)

 

https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnup/mn15/mn15c14.htm

 

 これは六六法経という大変重要なお経で、中部経典の148経である。日本語で読んでみると、なるほど今まで聞いてきた話の元ネタはこのお経に(も)あるのか、とわかっていただけると思う。

 

00;18;42;14 - 00;18;50;14
mano viññāṇa が生まれるというのは心でそうやって
dhamma、前使ってたものが思い出せるからです。

00;18;53;17 - 00;19;00;17
tiṇṇaṃ saṅgati phasso. phassapaccayā vedanā.

(SN 12-45 他)

 

 SNは saṃyutta nikāya 相応部のことだ。

 この前半の tiṇṇaṃ saṅgati phasso. はレーワタ長老の御法話でもよく出た。この三つが集まると phassa となる、ということだ。

 この phassa も曲者で、私は色声香味触の触は phoṭṭhabba で、この三つが集まると phassa 触だとばかり思っていたが、レーワタ長老に質問したら、「同じでしょ?」と言われてしまった。さすがに三つの集まりが phoṭṭhabba というのは聞いたことがないが、別にそれでもいいのかも知れない。

 

00;19;00;20 - 00;19;11;20
その三つ(mano, mano viññāṇa, dhamma)が
生じた途端に、phassa, vedanā, saññā, saṅkhāra が
生まれてきます。

00;19;12;11 - 00;19;23;13
だから心が中心で、心が先立つ、という言葉を使います。
心が先立って生まれることが五蘊なんです。

 

 ダンマパダの第一偈、第二偈にある、manopubaṅgamā dhammā~という箇所、心が先立ち、というところだ。こここそが俗世間とテーラワーダの決定的な違いである。

 が、まあそれは仕方がない。なにしろ心は見えない。見える物質的なものと見えない心とでは、そもそもその存在のインパクトに差がありすぎる。だから、勉強するにしても膨大な時間を要するわけだが、そもそも物質的なものだって専門的に勉強すればなんだって時間がかかるのには変わりない。だったら手っ取り早く、在家だったら仕事しながらなんだから預流果に至っちゃおうよ、という法話を、今回もブッダラッキタ長老はして下さっさている。現にお釈迦さまの時代には、サーワーッティーだったかどこだかは忘れてしまったが、その都市の在家の四分の三が預流果になっていた。在家は当然、アビダンマなんか全然知らなかったが、預流果になっていた。

 

00;19;25;07 - 00;19;27;05
それでわかりましたか?

00;19;28;05 - 00;19;36;15
わからなかった理由は、rūpa というと
外にある物質という考えがいつもあるからです。

 

 上にも書いているが、最大の問題点はここだ。テーラワーダでは瞑想という特殊な方法で、この法話では yonisomanasikāra 如理作意を、一般的には sati を育てていく。

 実は私は以前、「なぜ瞑想はこの方法でなくてはならないのか。なぜ身から見ていくのだ?」と非常に疑問で、瞑想に身が入らなかった時期が長かった(←言い訳)。

 しかしこの「特殊」というのは一般的な視点から言えばであって、法話を聴いてみると「確かにそれしか無いわなあ」と納得できる。

 

 「rūpa というと外にある物質という考えがいつもあるから」外に世界があると思ってしまう。「自分なんていうちっぽけな存在」となってしまう。謙虚に生きる為には別にそれが悪いわけではないが、勝義諦を見ていく為には不必要

 というか、ここが慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想が覚りに繋がる両輪だ、と言われる所以だ。

 先ほどサマタ瞑想は atta 我の教えだ、ということを書いたが、サマタ瞑想である慈悲の瞑想は俗世間で生きていく上で楽に修行を進めていく為にも必須の瞑想であり、それはなぜかと言うと、皆 atta の世の中で生きているのだからそれをお互い同士慈悲の心で生活しようよ、そうすれば楽になっていくでしょ、ということだ。

 また、これを「rūpa というと外にある物質という考えがいつもあるから」視点で行くと、ということは逆に自分(ここでは自分の五蘊、とでも言うべきか)の世界が慈悲の視点になるのだから、それはつまり世界が慈悲で満たされる、ということも意味する。俗世間的観点から言っても、慈経にある通り、「慢のない人」になっていく。慢は阿羅漢になるまで残る煩悩であるから、それを減らすのが覚りの邪魔になるわけがない。

 

 ネット上の話を見る限りだが、どうも無我とか苦とか「俺は理解した」とか言っていても、どうにも慈悲が無く問題を起こす人の話を、今はあまりそういう分野でネットを巡回していないので見ていないが、以前はよく見かけた。慢が無い人が「俺が俺が」とか言って問題を起こすはずがないだろう。慢が減っていないのだから、何か言っていてもまあ少なくとも預流果には至っていないだろうなあ、というのは容易に想像がつく。なぜなら、世界が外にあると思っているから、必死に外の世界に働きかけている以上、その真理に到達していない輩が何かを言っているだけだからだ。

 しかし、特別な能力のあるお坊様(勿論在家も)方は、慈悲の心で外に働きかける。スマナサーラ長老が良い例だろう。

 

00;19;36;21 - 00;19;42;25
大事なのは、心でその rūpa が
どのように見えるか、ということなんですね。

00;19;43;22 - 00;19;56;19
私達は、今新しく来たこの法座を一回見て、
目を閉じた後にも心の中で
それを見ることができるじゃないですか。

 

 この動画で初めて法座が登場するが、これはスガタ瞑想センターに法座が来て初めての法話がこの動画の法話だった。

 法座というのは特別なもので、お釈迦さまが説いた法に対し尊敬を込めてこういった椅子を用意するのであって、別に「お坊様が偉いからすごい椅子を用意しよう」ということではない(いや、そういうことだけれども(笑))。まあ結局、教えを教えられたお釈迦さまと、その教え自体と、それを引き継ぐ僧伽(さんが)に尊敬する、ということで良いのだが、法座は特に「法」に対しての尊敬を表して用意するものだ。本当の法話と言うと、それはそれは在家が法話をなさるお坊様に対してものすごい尊敬を表す。だからスダンマ長老も、いや今のお寺の法話会も「法話会」とは題しているが、本当は長老としては「法話」とは言いたくないようだ。日本人はまだまだ信 saddhā が高くないことが殆どで、三宝に対する尊敬度合いが足りないのだろう。尊敬度合いが低いと、やっぱり法話の中身も頭の中に入ってこない。因みに預流果になると信 saddhā は完成するので、三宝に対して失礼なことを言っていると、何か覚ってそうなこと言ってる人でも「こいつは預流果ではないな」とすぐに分かる。

 

00;19;56;21 - 00;20;02;29
物質的なものなんですけど、だからコピーしたみたい、
という言葉を使ったじゃないですか。

00;20;04;11 - 00;20;14;09
前に見たものは全て心の中でまた見ることができるように
なってるんです。心で見る rūpa なんです。

00;20;14;10 - 00;20;22;14
それは眼を閉じてても、眼で見えるんじゃなくて、
心で見えるんです。
それは眼で見えるとは言わないんです。

00;20;22;17 - 00;20;27;22
だから私達は去年の雨安居明けの法要も
今見ることができるんですね。

00;20;27;24 - 00;20;36;13
目を閉じると、どのようにやりましたか、ということを
ずーっと見ることができるんです、
映画を見る、みたいな感じで。


00;20;36;23 - 00;20;40;20
質問:
そのことを dhamma rūpa と言う?


00;20;45;02 - 00;20;49;07
dhamma だけです。dhamma rūpa という
言葉は使わない。

 

 dhamma rūpa。どこかで聞いた気がするんだけどなぁ…。

 

00;20;52;25 - 00;20;58;01
dhamma という言葉をここで使ってるのは
教えという意味ではなくて、

00;20;58;02 - 00;21;07;18
原因によって生じるもの、という意味で、
sabbe dhammā anattā 諸法無我の法と同じですね。

00;21;15;02 - 00;21;22;11
なぜ sabbe saṅkhāra 諸行ではなくて
sabbe dhammā anattā と言っているかというと、

00;21;23;01 - 00;21;30;04
全てが anicca ではない(nibbāna 涅槃は常住 nicca)

 

 涅槃と施設が anicca ではない。が、ここでは施設は扱わない。

 施設というのはイコール世俗諦のことであるが、話がややこしくなるし、どうせ私もよくわかっていないから、ここでは扱わない。大事なのは涅槃は始点があるが常住 nicca、常である、ということである。

 ここの dhamma は、別に教えのことを入れても成り立つ。教えが我であるわけがないのだから。

 問題は、sabbe saṅkhāra に dhamma 法を入れてしまうと、「教えが無常」となってしまうのでダメだ、ということだ。これは dhamma 教えが akālika 永遠なる、ということと矛盾してしまう。教えは永遠であり、言ってしまえばお釈迦さまが発見された法則ということだ。別にお釈迦さまがゼロから開発したわけではない。物理法則と一緒で、そこにある真理があるだけの話だ。正自覚者がいようがいまいが、その真理は変わらない、という意味で akālika。またお釈迦さまが教えられた四聖諦である道は、どの生命にも当てはまる永遠なる教えであり akālika。等と、どの方面から見ても当てはまるので、テーラワーダの国々ではそういう単語一つとっても一冊の本になってしまうようなものが沢山あるのだ。

 

00;21;33;15 - 00;21;40;10
原因によって生じて(原因が滅することによって)
滅するものであります。だから dhamma なんです。

00;21;40;23 - 00;21;45;11
その意味で anatta 無我であります。


00;21;49;01 - 00;22;01;20
質問:
そこで言う rūpa というのは、cakkhu 眼の
ārammaṇa 対象としての rūpa であって、
nāmarūpa 名色の rūpa ではない?

 

 先ほど書いた(rūpa と rūpa の段)のはこの質問のことだ。

 

00;22;51;26 - 00;23;10;03
両方同じなんですけど、違うところは、肉体の眼で rūpa を見る時には眼の cakkhu samphassa 眼触で触れた物質的なもので rūpa, vedanā, saññā, saṅkhāra が生まれるんです。

00;23;10;15 - 00;23;22;20
心の場合は、その物質的な眼で以前にぶつかって
生まれた、だからコピーしたみたいに、

00;23;23;04 - 00;23;35;09
そのことを心の中で思い出して dhamma として生まれて
くるんです。生まれてきて、rūpa, vedanā, saññā, saṅkhāra(, viññāṇa) が生まれるんです。

00;23;36;25 - 00;23;48;20
微妙に違う。始まるところが違うだけです。
でも、同じ nāmarūpa が生まれるんです。

00;24;05;15 - 00;24;19;02
(一般には)心には rūpa が見えない、と言っても
āyu と usmā 命と熱がある間でしか心の働きはありません。

 

 (一般には)とテロップに付け加えたのは、iddhi 神通、神変、所謂神通力の時、例えば dibbacakkhu 天眼(てんげん)、言ってしまえば千里眼だが、この時 cakkhu と cakkhuppasāda が働いていないことは明らかだからだ。cakkhu viññāṇa が働いているかとも思ったが、その路心 cittavīthi, vīthicitta 心路がどうなるかはまったく自信が無かったので、念の為こう書かせていただいた。別に書かなくてもよかったかも知れないが、なんか突っ込まれたくなかった(笑)。

 

 いやいや、そんな現実的じゃないこと考えなくて良いんじゃない?と思うかも知れない。私もアビダンマを習うまではそう思っていた。しかし citta 心のところでいきなり無色界のことをさも当たり前にやるものだから考えが変わってしまった。そもそも色界第四禅定(アビダンマでは尋伺 vitakka, vicāra の禅支で分けるので五)だって私からしたら現実的ではないが、テーラワーダの話では普通に出てくる。そういえばブッダラッキタ長老に訊いたが、色界第四禅定で呼吸はほぼ止まるらしい。例えばアナパナの段によくある、passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmīti sikkhati, passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmīti sikkhati. 全身の saṅkhāra を静めて吸う、吐く、という文言がこれに当たるそうだ。言うまでもなく、想受滅、滅尽定 saññāvedaita nirodha samāpatti に至れば呼吸は完全に止まる。それで一週間が限界だ、というのは身体の rūpa 的な意味で保たない、ということだ。別にそのまま般涅槃してもよさげな話だが、滅尽定に入ることのできる不還果以降の聖者たちは自分で請願しないと般涅槃に入ることは無い(つまり、滅尽定に入ってたけどうっかりそのまま死んじゃった、ということは無い、ということ)。

 

00;24;34;05 - 00;24;46;14
よく、深く考えてる時あるじゃないですか。(例えば)
家のこととか、家はどうなってるか、という風に。

00;24;47;00 - 00;24;57;17
そうやって深く考え込んでいる時には周りの人たちが
何をやってるか、とかは全然気付かないんですね。

00;24;57;18 - 00;25;04;26
でも、心の中の働きはずーっと働いてるんです。
家のことで。

00;25;05;04 - 00;25;19;26
でも、吸う吐くが止まっているわけではありません。
吸う吐くが止まっていない、というのは
āyu と usmā が働いてる、ということなんです。

00;25;31;28 - 00;25;47;21
五根と対象(五境)が出会って生まれるものも五蘊です。
心に ārammaṇa が出会って生まれるものも五蘊です。

00;25;59;23 - 00;26;16;05
なぜいつも「心が先立つ」という言葉を使うかというと、
生命は最期になると、五根が全部使えなくなって
心だけ働いてるんです。

00;26;16;11 - 00;26;19;29
だから次の生(来世)はそれによって(決まるんです)。

00;26;23;18 - 00;26;35;14
cuticitta(死心)、paṭisandhicitta(結生心)として、
最期に亡くなって、また生まれる役割を持ってるのは
心なんです。

 

 ここら辺の話は、上に挙げたラタナ長老の御法話に詳しい。

 テーラワーダでは、cuticitta 死心の次の刹那はいきなり paṭisandhicitta 結生心だ。そこに間はない。理論立てて説明されるので、アビダンマで勉強すればよりわかりやすくなるだろう。

 因みに五蘊、色受想行識はアビダンマでは、rūpa は rūpa、vedanā は受心所、saññā は想心所、saṅkhāra 行はその他の50心所、viññāṇa は心ということになるが、経典では場所によって、mano と mano viññāṇa は同じものだったりする。ここがアビダンマと経典では齟齬が出るところであるが、説いている相手が違うのだからそうなるのは当然のことである。アビダンマを全く興味が無い人に説いたところで話も聞いてもらえないのではそれこそお話にならない。

 

00;26;39;22 - 00;26;45;03
他の五根もこれによって働いてるんです。

00;26;57;16 - 00;27;06;00
これを説明する為に、saṃyutta nikāya にある
koṭṭhika という経典(SN 35-232)もちょっと使います。

 

 コッティカ経。

https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn35/sn35c159.htm

 

 ブッダラッキタ長老もスダンマ長老も、動画内ではコッティ「タ」と発言されている。

tipitaka.org

 

 こちらのリンクはミャンマー版であるので、スリランカ版とでは差があるかも知れない。私はシンハラ文字が読めるわけではないので、検証のしようがない。

 パーリ語というのは文字を持たない言語であるため、テーラワーダの国々ではそれぞれの言語の文字でパーリ語を表記してきた。それ以前は口伝のみ、だった。

 現代の私達からすると「口伝のみ、というのは怪しい」となると思うが、昔の人達は「書くなんて信用できるか」と思っていた。だから皆暗記した。なぜ書くことが信用できないのか。間違いがどうしても起こるからだ。しかし暗記であれば、一文字違うだけですぐに分かる。例えば皆さん九九は覚えているだろう。九九八十一、というところ、「くくは「た」じゅういち」といえば誰でも一瞬で「おかしい!」とわかるだろう。しかし暗記していなくて書いているものを読むだけではこれはわからない。それが正しいのかどうかは他のものと比較しないと検証のしようがない。だから、第何結集か忘れてしまったが、そこで文字化するまで僧伽のそれぞれの系統の団体(団体とまでは言えないが、例えばアーナンダ長老の系統の弟子達が長部経典(だったはず。中部だったかも知れない…)を担当した)が命がけで経典を口伝で守ってきた。現代的に思えば文の形式まできっちり一字一句変えずに覚えろよ、と思うかも知れないが、昔の人達は教えが中心だったわけで、偈の形式がどうこうというより、教えを残すことに重点を置いていた。

 タイ版もミャンマー版もスリランカ版も、教えには全く違いはない。が、細かい単語や、ca とか vā とかは三蔵内でも結構違う。そして現代になると、それが問題を引き起こした。第六結集の頃になるとそれこそ上に書いたように細かいところが結構違っていた。テーラワーダの考え方としては、当然教えは重要だが、ダムのヒビのように、些細なところから教えは崩れていくと信じているので、些細なところでもこの違いが問題になった。だから残念ながらそこまでの統一版であるローマ字版は出ていないが、我々のような学習者にはそこまでは必要ないだろう。tipitaka.org で十分だ。というか、注釈書、副注釈書、副々注釈書までローマ字(だけではなくそれぞれ諸言語文字で)公開されている。問題は、私がパーリ語の意味がわからないことだ…。

 

 当然、三蔵の中にない、お供えの偈などはそれこそ全く違ったりするのは当たり前だ。

 因みにスリランカ版はローマ字にされたものが無いが、「PTS版がそうです」とスリランカのお坊様が断言されていた。以前はあったが、今見たらネット上になさげだったし、そもそも綴りの間違いが多くて…

 

00;27;13;14 - 00;27;26;20
サーリプッタ長老とコッティカ長老は、バーラーナシーの
イシパタナ、鹿野園におられる時のことです。

00;27;38;19 - 00;27;43;22
コッティカ長老がサーリプッタ長老に訊きます、

00;27;52;11 - 00;28;01;05
眼に rūpa がくっ付いてるんですか、
何かで結んでるんですか。

00;28;03;11 - 00;28;13;02
そうじゃなかったら、rūpa は眼にくっ付いてるんですか。
眼が rūpa に繋がってる(saṃyojana)か、
rūpa は眼に繋がってるか。

 

 テーラワーダが習う人が saṃyojana というとすぐに思い浮かぶのが十結だ。その字の通り、結ぶもの。

 

00;28;20;13 - 00;28;31;23
サーリプッタ長老が言います、眼に rūpa は繋がって
いません、rūpa が眼に繋がってることもありません、と。

00;28;40;01 - 00;28;51;28
その二つによって chandarāga 欲が生まれると
それは upādāna 執着、結 saṃyojana と言うんです。

00;29;00;24 - 00;29;14;29
眼と、眼に見えるものについて気を付ける必要は
ありません。それによって生まれる
chandarāga 貪欲に気を付けなければいけない。

 

 これは(コタワラ・)ヘーマラタナ長老もおっしゃっていたことだ。

youtu.be

 

00;29;21;27 - 00;29;28;18
例え話を言います。黒い牛と白い牛がいます。

00;29;32;00 - 00;29;36;24
この二頭は紐、ロープで繋がれています。

00;29;42;17 - 00;29;57;26
白い牛を黒い牛に繋がっている、または
黒い牛は白い牛に繋がっている、という言葉を使ったら
それは間違えてる。

00;30;00;00 - 00;30;10;09
そのロープで両方が繋がれている、
と言った方が正しいんです。

00;30;16;27 - 00;30;30;23
そのように、眼と眼に見えるものによって chandarāga が
生まれたら、それで眼と眼に見えるもの rūpa が
繋がれている、と言うんです。

00;30;47;02 - 00;30;54;05
ここでまた saṃyutta nikāya の中にある
loka sutta(SN 12-44)という経典も使います。

 

 世間経

https://komyojikyozo.web.fc2.com/snnv/sn12/sn12c44.htm

 

00;31;07;03 - 00;31;18;08
そこでまたとても細かく説明してあります。眼と
眼に見えるものから cakkhu viññāṇa 眼識が生まれます。

00;31;20;18 - 00;31;27;08
この三つの集まり(cakkhu, rūpa, cakkhu viññāṇa)
は phassa 触と言うんです。

00;31;35;02 - 00;31;51;15
phassa paccayā vedanā, vedanā paccayā taṇhā,
taṇhā paccayā upādāna, upādāna paccayā bhavo,
bhava paccayā jati, jāti paccayā jarā maraṇaṃ,
soka parideva dukkha domanassupāyāsā sambhavanti.

00;31;51;25 - 00;31;55;15
そのように世間は始まるんです、生まれるんです。

00;31;57;23 - 00;32;02;00
そのように世間は成り立ってるんです。

 

 私はまだわかっていないが、ということは世間は苦 dukkha なんですな、ということになる。

 

 ここから暫くは特に言うこともない。

 

00;32;31;00 - 00;32;43;21
このように、(眼と)眼に対するものとそれによって
生まれる眼識という viññāṇa、その三つによって
phassa が生まれます。

00;32;43;24 - 00;32;52;09
その phassa に縁って passa paccayā vedanā,
vedanā paccayā taṇhā、

00;32;52;14 - 00;33;14;10
その taṇhā が少しも残らないでなくなっていくと
それに縁って taṇhā nirodhā upādāna,

00;33;15;24 - 00;33;27;16
taṇhā がなくなることによって upādāna することが
なくなります。渇愛を完全になくしてしまったら
upādāna nirodha。

00;33;27;22 - 00;33;36;08
upādāna nirodha, bhava nirodha、それに縁って
upādāna がなくなりますので bhava もなくなる。

00;33;36;12 - 00;33;42;27
bhava nirodha, jāti nirodha、それに縁って jāti
生まれることもなくなります。

00;33;43;01 - 00;33;54;08
生まれることがなくなったら
soka, parideva, domanassa, upāyāsa という
全ての煩悩が、悩み苦しみがなくなります。

00;34;01;11 - 00;34;11;26
私達は upādāna 執着するんですね。
執着しますので、続ける、bhava があります。

00;34;21;29 - 00;34;31;13
苦の原因と言ってるのは、
upādāna で捕まる渇愛のことです。

00;34;36;09 - 00;34;46;15
それが完全になくなると、それは dukkha nirodha
というんですね。四聖諦。
dukkha samudaya (sacca) 集諦、
dukkha nirodha (sacca) 滅諦。

00;34;57;19 - 00;35;09;20
ここで taṇhā 渇愛は無明というものと繋がってるんです。
無明に縁って渇愛が生まれるんです。

00;35;20;00 - 00;35;28;12
micchādiṭṭhi 邪見がなくなって sammādiṭṭhi 正見に
ならないと、これは理解することができません。

00;35;32;11 - 00;35;43;05
だから、聖なる道、八正道の1番目は sammādiṭṭhi。

00;35;48;15 - 00;36;02;18
sammādiṭṭhi を一番最初にして説明しながら、
教えながら他の七つを教えてるんです。

00;36;06;15 - 00;36;12;06
ここでお釈迦さまがどのような言葉を使ってるかと
見てみましょう。(サミッディ経に戻ります)

00;36;22;20 - 00;36;32;16
眼が無かったら、眼に見えるものも無かったら、
それに縁って生まれる眼識も無かったら、

00;36;32;26 - 00;36;42;11
次に vedanā, saññā, saṅkhāra も無いですので、
そこに世間というものもありません。

00;36;51;14 - 00;36;57;07
ここで二つ(のこと)が現れる(起こる)んです。

00;37;05;26 - 00;37;12;12
upādāna 執着から離れて

00;37;19;28 - 00;37;25;08
先ず五取蘊が無くなって、五蘊という立場になるんです。

00;37;32;02 - 00;37;46;08
後で āyu と usmā 命と熱が無くなっていくと、その五蘊も
なくなります。最初に五取蘊が無くなります、
後で五蘊も無くなります。

00;37;50;23 - 00;37;56;17
お釈迦さまは菩提樹の下で五取蘊をなくしました。

00;38;00;19 - 00;38;08;17
それは有余涅槃 saupādisesa nibbāna,
kilesa nibbāna 煩悩涅槃と言います。

00;38;10;17 - 00;38;14;03
クシナガラで無余涅槃
anupādisesa nibbāna に入りました。

 

 身体、五蘊があった状態で阿羅漢に覚られるとそれは有余涅槃、煩悩が消えるから煩悩涅槃、亡くなる時には五蘊も滅するので無余涅槃、余るところが無く涅槃に入られる、ということだ。死ぬことだけが涅槃なのではない。

 

00;38;20;20 - 00;38;33;07
だから私達は、upādāna にならない、
五取蘊にならない方向へ、全てを観察するべき。

00;38;46;21 - 00;39;02;03
この五根、眼耳鼻舌身(げんにびぜっしん)

00;39;02;12 - 00;39;05;06
心(意)、六根ですね、が

00;39;07;05 - 00;39;11;06
原因に縁って生じて滅するものであると、

00;39;15;09 - 00;39;21;04
いつもいつも繰り返し観察するべき。

 

 瞑想というのは繰り返しのことだ。

 

00;39;27;24 - 00;39;34;17
原因に縁って生じて(原因が無くなることに縁って)
無くなりますので、無常と言います。

00;39;40;04 - 00;39;52;25
それは ajjhatta 中側、内側という言葉も使うんですけど
(ajjhattikāyatana)、
saḷāyatana 六処、という言葉を使うんです。

00;39;57;28 - 00;40;02;07
内側の六処に外側の

00;40;06;23 - 00;40;09;00
六境が

00;40;09;09 - 00;40;25;28
違いません。六境は六外処 bāhirāyatana です。
後で調べました。
ここでさくらぎがいい加減なことを言っています。

 

 ここに限らず、以前の私のブログでも今見ると間違っているなあ、ということは結構あるが、まあ直すのも面倒だし、むしろ対面した時に「あれは間違ってます」と言ってくれればそれこそその話ができるので有り難いくらいに思っている。

 

00;40;29;19 - 00;40;36;11
ajjhatta, bahiddha 内と外

00;40;43;22 - 00;40;54;17
内側の六処も生じて滅するものであると、
外側の六処も生じて滅するものであると、

00;41;02;04 - 00;41;08;16
外処、外の āyatana

00;41;11;07 - 00;41;14;28
内処

00;41;17;12 - 00;41;31;15
ここでもさくらぎがいい加減なことを言っています
(後述)。内の呉音は「ない」、寧ろ漢音が「だい」
でした。通常仏教用語は呉音が使われることが主の為。

 

 これも先程書いたことだ。最初の方に色々言ってしまったので最後の方ではあまり言うことが無い。これを書く前の想定では結構な文章量になることを想定していたのだが、このままでは半日で終わってしまいそうだ…。

 

00;41;33;28 - 00;41;44;25
内側の六処も原因に縁って生じて滅するものであると
理解することができれば、

00;41;50;27 - 00;42;00;07
外側の六処も地水火風に縁って生じて滅するものであると
理解することができれば、

00;42;04;20 - 00;42;10;06
viññāṇa が生まれます、
yonisomanasikāra 如理作意で。

00;42;13;19 - 00;42;20;18
それより前は、ayonisomanasikāra 非如理作意、
気付きが無くて(viññāṇa が)生まれてたんですけど、

00;42;20;19 - 00;42;28;17
それを理解すると、yonisomanasikāra 気付きながら
viññāṇa が生まれるんです。

00;42;45;06 - 00;42;56;15
見えることと、見えるものは、viññāṇa によって生まれる、
ということがここでわかるでしょうか。

00;42;59;17 - 00;43;06;11
それは pasāda rūpa と 境の rūpa ではありません。

00;43;15;08 - 00;43;25;07
pasāda rūpa が対象をわかるわけではない、
対象 rūpa も pasāda というものがわかるわけではない、

00;43;28;12 - 00;43;32;17
pasāda と 対象の rūpa に縁って viññāṇa が生まれます、

00;43;35;06 - 00;43;40;19
そうすると、viññāṇa が生まれなかったら何も無い
(我々はなにも認識できない=何も無い)し、

00;43;40;21 - 00;43;53;23
viññāṇa が生まれると(そこで初めて)pasāda もある、
rūpa もあるじゃないですか
(対象である rūpa を認識するその時に
pasāda と rūpa がある)。

 

 問題はここである。どうしても pasāda も rūpa も、特に rūpa は外にずーっとある=常、常住だと思ってしまう。それは違っていて、viññāṇa が認識(?)するのでそこで初めてそこには pasāda も rūpa もあるでしょ、という論法だ。例え外にずーっと rūpa があるとしてもそれは関係無い、というのが勝義諦からの論点だ(勝義諦からするとずーっとあるわけではないのだが)。

 世俗諦というのは外にずーっと rūpa があって、だからサマタの対象としてそれを選んで集中するのでサマタに入れるわけだが、それ故にある=atta の教え、ということになる。だから施設も常である。

 この動画で話して下さっているサミッディ経ではそれこそのっけから lokapaññatti とある。paññatti とは結局名称、名前である。

 しかしヴィパッサナー瞑想をする時にはそこを無常である、と繰り返し観る必要がある。そのとっかかりとして、ブッダラッキタ長老は御法話して下さっているのである。

 私も色々と分かっているつもりではあったが、ブッダラッキタ長老のお話を聞いて初めて、今まで知っていた知識が、つまり点と点が見事に繋がった経験を何度もして感動した。スダンマ長老がわざわざ日本の雨安居に招いて下さったことに、そしてまたブッダラッキタ長老が日本にわざわざいらっしゃったことに深く感謝である。また、その御法話を動画で出せる喜びは大変大きいが、ブッダラッキタ長老の未編集動画は現時点でまだ6本もある…。仕事しながらテーラワーダの活動をする在家にはなかなか動画編集の時間が取れないことが歯がゆいところではある。

 

 テーラワーダには全く関係のない話だが、最近YouTubeチャンネルの積分サークルにはまっている(そんなの見ている間に動画編集しろよ、という話は無しでお願いします(笑))。

www.youtube.com

 

 そこで編集が得意なメンバーの動画編集ライブというものがあり大変興味があって見ているのだが、その予定に「150h」とあった。一本の動画(まだ公開されていないのでどのくらいの長さのものかはわからないが)に150時間かけている、ということだ。あれだけ凝った編集がされているのだからそれは手間がかかることは容易に想像できるが、なかなか動画編集というものもやったことがある人にしかわからない分野ではある。

 お寺の動画では基本テロップしか出していないが、一通りテロップを入れるとそれでも軽く30時間はかかる(佛道実践会などの動画では一気に動画本数が溜まってしまう為難しい言葉のみテロップを入れているのはその為だ。またその場合最後に一通り確認「しない」ので、以前にもミスが出てしまった。いや、他の動画だってミスあるけどね…)。

 いや、最近はAIがあるから文字は全部起こしてくれんじゃね?と思うかも知れないが甘~い!お寺の動画はシンハラ語日本語サンスクリット英語パーリ語混じりなのでほぼ文字起こししてくれない。たまーに合ってるくらいで、まだまだ全然使い物にはならない。なので文字起こしは妻がしてくれている。それがないと編集時点で動画を行ったり来たりしないといけないので更に時間がかかる。DaVinci Resolveでやっていた頃はそうしていたが、もうあれは無理ですばい…。

 しかし、まったくテロップが無い状態で聴いてもちんぷんかんぷんな箇所も多いと思うので、動画中でその説明をする手間を省く意味もあり、テロップは入れることにしている。

 

00;43;54;13 - 00;44;01;24
夢を見る時というのは、それは 
mano viññāṇa の中の働きじゃないですか。

00;44;07;13 - 00;44;21;05
ここでも、cakkhu viññāṇa というのは見えるもの、
対するもの(rūpa)を viññāṇa で
理解するから(夢を見るん)です。

00;44;29;09 - 00;44;45;02
それをそのように理解することができるのは、
viññāṇa も pasāda も rūpa も
生じて滅するものである、と理解することができる

00;44;47;06 - 00;44;54;02
yonisomanasikāra でそれを気付きながら
いる人にしかできません。

00;44;54;04 - 00;45;19;12
tiṇṇaṃ saṅgati phasso.(MN 148)
その三つの触れ(集まり)は phassa と言われるところも
そういう感じ、同じです。

 

 tiṇṇaṃ saṅgati phasso. 本当にこのフレーズはよく出てくる。phassa が重要だよ、ということを示唆している。

 

00;45;35;19 - 00;45;54;08
pasāda 浄, gocara 境、それから viññāṇa 識、
その三つがぶつかると phassa と言います。

 

 pasāda が眼耳鼻舌身の肝となる所で、それぞれの働きのメインとなる所、gocara がそれぞれの対象の色声香味触法。というわけで mano 意には pasāda が無い。hadayavatthu 心基はある。

 

00;46;02;02 - 00;46;09;14
phasāda は無常です、gocara も無常です、

00;46;12;09 - 00;46;16;24
それを yonisomanasikāra によって
無常ということをありのままに観ていきます。

00;46;17;22 - 00;46;20;15
それによって viññāṇa 生まれます。

00;46;22;27 - 00;46;30;09
その viññāṇa の中に見える、ということも
見えるもの(rūpa)、ということもあるんです。

00;46;34;29 - 00;46;42;02
そこで phassa というのは phassa cetasika 触心所
という言葉を使うんです。

00;46;43;17 - 00;46;49;04
その phassa も無常です、滅する nirodha。

00;46;52;18 - 00;47;06;29
その phassa が生まれる原因も無常だったら、
phassa という結果は永遠なるものではありません。

00;47;11;09 - 00;47;19;14
でも私達はその(正しい)気付きが生まれるまで
これを理解することはできません。

00;47;28;14 - 00;47;43;20
その yonisomanasikāra を育てる為には、
内側の六処と外側の六処が生じて滅するものである、
ということを観察しなければいけません。

00;47;53;05 - 00;48;03;11
その phassa によって生まれる vedanā, saññā, saṅkhāra も
無くなるもの、無常である。

00;48;04;27 - 00;48;31;23
vedanā paccayā taṇhā, taṇhā paccayā upādāna,
upādāna paccayā bhavo, 業 kamma が
集まるのが少なくなっていくのはだからなんです。

 

 業が少なくなっていく、というと今までのものも減っているような気がするので、まずはこれから積んでいく業(ここでは特に悪業、不善業)が減っていく、ということだ。まあ結局それに付随して今までのものも減っていくわけだが。

 

00;48;31;28 - 00;48;52;18
そのように yonisomanasikāra で、生じるものは滅するものであると、永遠なるものではない、無常である、という
ことを理解すると執着 upādāna しないので
(そこから積む)kamma が(少なくなっていく)。

00;48;57;00 - 00;49;14;26
一番最初に貪瞋痴が無くなるわけではなくて、yonisomanasikāra によって、一番最初には我々に起こる
ことは、四悪趣に落ちないようになることです。

 

 これが預流果になる、ということだ。

 

00;49;20;06 - 00;49;29;11
そうすると、眼が中心になって生まれるのは
五蘊である、ということを理解することができます。

00;49;34;01 - 00;49;44;01
眼耳鼻口、舌、身体からも五蘊が生じる、
ということを理解することができるはず。

00;49;46;21 - 00;49;50;19
一回会ったものは二回会うことは無い。

00;49;54;06 - 00;50;01;01
二回目に出会うのは、コピーです。
mano の。

00;50;03;08 - 00;50;06;07
そのコピーも無くなります。

00;50;16;03 - 00;50;27;15
だから、そこに世間という言葉を使うことができない、
世間という表現を使えない、と言ってるんです。

00;50;35;07 - 00;50;45;13
それをどの程度理解したか、ということで預流果、
一来果、不還果、阿羅漢果という立場があるんです。

00;50;48;16 - 00;50;56;11
それは俗世間から離れて、出世間に達すること。

00;51;01;14 - 00;51;08;28
だからこの教えをこのように繰り返し繰り返し
観察しなければいけないんです。

00;51;14;11 - 00;51;30;19
私達に矢で誰かを射る、撃って下さいと言ったとします。

00;51;33;18 - 00;51;41;03
対象がきちんと見えるんだったら、
撃つ(射る)ことができるはず。

00;51;43;15 - 00;51;50;07
撃つところがボケてるんだったら、どこに撃ちますか。

00;51;52;29 - 00;51;59;14
だから対象は、はっきり
見えるようにしないといけません。

 

 これが瞑想では重要な所で、だからサマタ瞑想も必要ですよ、と言われる所以だ。当然だがヴィパッサナー瞑想するにも集中力が要る。普通のサマタをする向きには、途中でヴィパッサナーに切り替える必要が出てくる。サマタだけでは覚りに達することはできない。だって atta の教えだから。

 

 アリヤダンマ長老だったか他のお坊様の話だったか忘れてしまったが、ミャンマーで確かマハーシ長老の所に行って瞑想を教えてもらう時に、「ではあなたの請願はなんですか?」と訊かれると、そのお坊様は「私の請願は正自覚者になることです」と答えると、「ではサマタをやって下さい」と言われたそうだ。

 テーラワーダの教え上、正自覚者というのは正自覚者の教えが残っている限り現れず、つまり現在のお釈迦さまの教えが残っている現代においては覚りは阿羅漢の覚りのみに限定されている。覚りは三種類、正自覚者の覚り、独覚佛陀の覚り、そして教えを聴いて覚る阿羅漢の覚りがあるが、どれも同じ覚りだ。しかし、智慧が違う。全く違う。

 正自覚者というのは、正自覚者の前で請願して正自覚者が授記し、その時点で請願する者が阿羅漢になる能力がある必要がある。そしてそこから気が遠くなるほどの輪廻を繰り返しながら修行し続け、正自覚者となる。その間に預流果になってはならない(後述の通り、七回輪廻転生すれば覚ってしまうのだから)。ジャータカにあるのは我らがお釈迦さまの前世であるスメーダ修行者がディーパンカラ正自覚者の前で請願してからの物語である(当然のことながら全ての生の話ではない。それ以外の生まれも気が遠くなるほどあるるわけだ)。

 で、例えばアリヤダンマ長老だったら、少なくともお釈迦さまは生きている時に弥勒佛陀の出現を予言され、その弥勒佛陀、今では弥勒菩薩は兜率天にいらっしゃるというのだから、少なくともどんなに早くともその次の正自覚者である、ということになる(もし授記されているのならば、という前提の話だが。授記されていないのであればのまずは授記されるよう請願しなければならないのだろう。そこまで聞いたことはないが)。

 スマナ・バンテーの本などを読むにつけ、サマタを中心に教えられるパオ・セヤドーの口ぶりでは、やはりどうにも来世以降の正自覚者も視野に入れているような気がしてならない。当然それは大変素晴らしいことなのだが、私としてはちょっと尻込みしてしまうところではある。

 

00;52;06;04 - 00;52;15;14
そのように sammādiṭṭhi に達すると、
他の七つも瞬間で生じるんです。

00;52;23;17 - 00;52;29;02
maggakkhaṇa 道刹那という言葉を使うんです。
瞬間ですね。

 

 預流道心では八正道が同時に生ずる。そのことを言っている。

 

00;52;33;11 - 00;52;47;14
magga が khaṇa 瞬間で生じると、その瞬間(次の刹那)
に結果も出てくる。だから akālika と言うんです。

00;52;47;17 - 00;53;01;09
ここで akālika というのは過去・現在・未来いつでも、
という意味ではなくて、瞬間で、akālika 即時に、
時間を開けずに、という意味で、

00;53;01;19 - 00;53;20;07
瞬時に結果が出てくるんです。magga と結果 phala、
道と果は時間を開けず瞬間で現れますので
akālika と言うんです。

 

 預流道心の直後、次の心刹那に預流果心が生じる。ここの間が無い、ということだ。これは先程の死心と結生心と同じことで、つまりこれは預流道心が生じたら預流果になるのは来世で、とかではありませんよ、ということを言っている。

 

00;53;21;26 - 00;53;23;28
質問ありますか?

 

 本当の法話では、こうでも訊かれない限り、在家が口を挟んではならない。それが法話を聞く礼儀というものだ。私などはどうしても動画的にまずくならないように口を挟んでしまうこともあるが、そこは教えを広めたいという気持ちから出ていることで、どうか許していただきたいが、本来それすら礼を失していることである。

 

00;54;15;23 - 00;54;38;04
これがわかりにくい、と思う人であっても、地水火風で
できたものは、地水火風に縁って変化していく、
ということだけでも理解しなければいけません。
そのようにでも観察して下さい。

 

 地水火風という四大種についてはこちらの動画に詳しい。

youtu.be

 

00;54;46;23 - 00;54;57;08
そうやって観察するといつか、この生じて滅するという
ことは viññāṇa によって生じているということが
わかってきます。

00;54;59;24 - 00;55;06;12
そうすると viññāṇa も 生じて nirodha 滅するもので
あるということがわかります。

00;55;11;05 - 00;55;21;26
viññāṇa によって cetasika が生まれますので、
その cetasika も生じて滅するものであるとわかります。

00;55;28;27 - 00;55;36;29
rūpa は rūpa として形成されるだけで、
本当にあるものではありません。

00;55;41;11 - 00;55;50;13
vedanā, saññā, saṅkhāra ということも、
あるものではありません。形成されるもの。

00;55;56;17 - 00;56;03;22
viññāṇa も形成されるものであって、
永遠にあるものではありません。

00;56;10;19 - 00;56;20;03
五根も、永遠にあるものではなくて、
形成されるもの、原因に縁って生じて滅するもの。

00;56;25;28 - 00;56;38;02
だから、私、私のもの、我、という言葉を使うことは
できません。私の思い通りにはなりません。

 

 本来は「我というものもあるとは言えない」という言い方になる。「無い」というのは、「有る」という前提があってはじめて言えることだからである。だから「私、私のもの、我、という言葉を使うことはできません」という言い方になるのである。


00;56;40;20 - 00;57;09;24
質問:

前回までに色々教えて頂いて自分なりに実践したら
引っかかっちゃったのでお訊きするんですけど、
眼が見えない人も結構外を把握してたりするじゃないですか。
しかし cakkhu, cakkhu viññāṇa があるとは言えないですよね?
先ほどおっしゃっていた mano の中、dhamma で
rūpa を見てる、ということなのでしょうか。

 

00;57;30;24 - 00;57;37;08
そういう人達は、自分の mano viññāṇa で
rūpa を作ってるんです。

00;57;46;08 - 00;57;57;12
なぜかと言うと、永遠なるものがある、という風に
(皆)思ってるんです。だからそういうものを
自分の心の中に作るんです。

00;57;57;25 - 00;58;13;13
それをもう放してるんだったら、執着していなかった
場合は作ることはないんですけど、
執着してますので、心の中で rūpa を作るんです。

00;58;20;28 - 00;58;27;29
だから他のものを使ってなにか「ある」、
という考えを作るんです。


00;58;28;22 - 00;58;31;19
質問:
それが rūpa を作る、ということ?


00;58;32;20 - 00;58;34;28
そう、rūpa を作るんです。

 

 ここで言っていることがでは最初に書いた神通、神変、天眼でも通じることなのか、というとそれはわからない。

 

00;59;11;11 - 00;59;19;14
スダンマ長老が日本語で通訳してるんですけど、
それはとても難しいことだと思ってます。

00;59;24;01 - 00;59;33;14
お釈迦さまの深い教え、難しい言葉ですので、
説明するのは大変だと思います。

 

 完全に同意である。

 

00;59;40;09 - 00;59;46;03
皆さんも気付きながら yonisomanasikāra で聴かないと
もう全然わからないし。

 

 完全に同意である(笑)。

 

00;59;52;14 - 01;00;00;08
そういう中で私達が少しでも理解できたことは
とても素晴らしいことです。

 

 実は動画内ではスダンマ長老は「この程度でも理解できたことは」とおっしゃっている。逆に言えば「この程度は理解できました(前提)」ということだ。お坊様の怖いところというのは、こういうところだ。

 しかし私は思う。日本語でテーラワーダを学ぶ、というハンデを。なぜならテーラワーダの国々と違って、なにしろ日本語でテーラワーダを学ぶことのできる資料が少なすぎる。まず大乗仏教との違いを精査しないといけないところから始まる。だからその一助となれば、と思い動画編集をさせていただいている。

 

01;00;09;26 - 01;00;23;10
お釈迦さまはある時、足の爪に土を乗せて、
この私の爪の上にある土の方が多いか、大地の土の
方が多いですか、と(比丘達に)訊きました。

01;00;32;22 - 01;00;46;28
比丘達が答えます、それは百分の一でもない、
千分の一でもない、一万分の一でもありません、
表現を使うことはできません、と。

01;01;03;17 - 01;01;14;21
お釈迦さまが言います、そのように預流果になった
人達の、diṭṭhisampanna 見具足者の苦しみというのは

01;01;14;29 - 01;01;25;22
無くなった苦しみ、煩悩は大地の土みたい、
残っているのは爪の上にある土みたい。

01;01;27;23 - 01;01;35;18
それも七回生まれたらもう完全に無くなります。

 

 これは宝経にもあるとおりである。

 

01;01;43;06 - 01;01;53;13
だから私達はとても大きな徳を持ってるんです。
このような教えに出会って、聴いて、
実践することができるようになったという。

 

 そして回向、請願、祝福で終わる。善いことをした後には必ず回向しよう。

 

ブログをお休みします。

 昨日、「コメント欄を開けます」と発表したが、その後コメントはいただけなかった(笑)。

 

 以前も書いたように、アビダンマをこれ以上ブログで書こうとすると、英語を勉強せざるを得なくなった。さすがに一朝一夕では、どうにも…

 

 というわけで、いつコメントをいただけるかわからずに日々過ごし、忘れたころにやってきたものをネタにブログを書くのもモチベーション的に厳しいような気がするので、再びコメント欄は閉じ、少なくとも当面の間はブログをお休みさせていただきます。

 

 

 これまでにも何回か、ネタ切れによって「ブログはそろそろ」と考えたことがあった。

 

 今見てみると、119記事もある。本人的には、「よくもここまでネタが持ったものだ」と思っている。しかし、さすがに吐き切った。

 

 

 また何か言いたいことがあったり、または英語が修得出来たら再開しようと考えているが、今のところ、それまでに何か出てくるとは思えない。

 

 

 というわけで、半年の間、ありがとうございました。

 

 

 そういえば、死隨念の影響だろうか、齢40を超えて、初めて努力、精進の意味を知り始めたような気がしている。今、私はなんと、勉強している。

 

 と、思う…

 

 

 確かサンスクリットだったと思うが、明日死ぬように生きろ、永遠に生きるように勉強しろ、みたいな格言があった気がする。

 

 そりゃ、明日死ぬと思えば、勉強する気にはならない。映画などでは、欲望の赴くままに好き放題したりもする。

 

 言葉の捉え方は、気を付けなければならない。努々、テーラワーダの言葉を、好き勝手に解釈しないでいただきたい。

 

 

 いや、またそんなのを見かけたら、頭にきてブログを再開するかもしれない(笑)。

 

 

 それまで。

 

 でわ。

 

コメント欄を開けようと思う

 いよいよほんとうにネタが尽きたw。

 

 というわけで、皆さんの力にすがろう、という魂胆だ。コメントをいただき、それをブログのネタにして延命を図ろうとのゲスい考えから、コメント欄を開放することにしました。

 

 悩み相談などされてもなにも解決するようなことは書けないだろうし、なにしろ自分が冥想していないのだから冥想のことを聞かれてもなにも答えられないが、知識的な方面からは

 

 というか、なんでもいいから、ネタくれ(笑)

 


 よろしくお願いします<m(__)m>

 

四つの御守りの冥想~死隨念3

 先日書いた通り、私は今まで死隨念についてはまともにやってこなかった、と言っていい。

 

 以前も書いた通り、私はこのブログを書くにあたり、特になにか調べたりはほぼしない。ただキーボードの前に座り、その時に思いついたままを書いているのだが、だからだろうか、この死隨念については、まるで書くことによって死隨念をしているかのような感覚を覚えている。死隨念というものは「今日明日にも死ぬかもしれない。だから生きているうちに努力しよう」という精進を生むらしいのだが、確かに明らかに今までよりも頭が回っている気がしてならないのだ。

 

 そして、どうも満足も生むようだ。ここのところ、「ああ、今日も生きていられた」という気が生まれてきている。

 

 いろいろな冥想についてはそれぞれの効用が言われたりするが、そこはいろいろオーバーラップするところもやはりあるのだろう。やり方や、その人の特性も大いに関係するに違いない。

 

 

 で、驚いたことに、やはりここのところ「うわ、昨日の俺、クズだはw」という感覚にも襲われている。

 

 自分では何が変わっているのかはわからない。しかし思い当たる所と言えば、この死隨念についてブログで書いていることくらいだ。


 私が思った以上に、死隨念というのは徳の高い冥想なのかも知れない。

 

 そして、こんなことを書いていられるのも、やはり皆さんからのアクセスがあって、モチベーションが続いているからだ。ありがとうございます。

 

 そして、この善行為を皆さんに回向いたします。是非とも随喜して下さい。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

suyasatthāma-puññiddhi
スヤサッターマプンニッディ
徳、智慧、
buddhi-vuddhe jinadvayaṃ,
ブッディウッデー ジナッドゥワヤン
名声の限りない佛陀も
ghātesi maraṇaṃ khippaṃ
ガーテースィ マラナン キッパン
死という悪魔に殺されました。
kā tu mādisake kathā.
カー トゥ マーディサケー カター
私などはどうなるというのでしょうか。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 なんとお釈迦様も、死んだのだ。

 

 ここは大いに誤解されるところかもしれない。

 

 お釈迦様は、般涅槃、アビダンマで言う無余涅槃に入られたので、お祝いされるのだ。死んだから祝われるわけではない。

 

 これは確か以前には書いていなかったと思うが、シンハラ人にシンハラ語で「あなたが早く涅槃に行けますように」と言うと、やはりこれは「早く死ねということか?」という印象になるらしい。テーラワーダの国と言えども、ここは日本語とも別に変わらない(笑)。

 

 まあ在家であればそこまで詳しく教義を知っているわけでもないし、だからこそ「私は正自覚者だ」という出家に騙されてしまうのだろうが、それにしてもこういう所は難しい。表面的にはまったく同じことだからだ。

 

 だからこそ、テーラワーダにマニュアルは、ふさわしくない。「こうしたらこういうことです」と一面的に見てしまうと、道を踏み誤る。

 

 寺でも見たことがある。在家の人があることをしたら、出家が叱った。しかし他の人が同じことをしたら、褒めた。

 

 意図が読めれば上手く対応できるが、意図を読み誤ると、最悪善いことをしようとしているのに「なに悪いことしてるんだ!」ということになる。私も小さい頃からこういうことをされた経験は山ほどあるのでよくわかる。日本では「善いこととはこういうことです」とガチガチに決まっているから、そこから外れると無茶苦茶怒られる。

 

 マニュアル化された行動だと、悪い意図を持っても善行為に見せかけることができる。本人も善行為だと思い込んでいたりする。

 

 テーラワーダにおいて善行為とは、不貪不瞋不痴でなされた行為。悪行為とは、貪瞋痴でなされた行為。行為とは、身口意で行うこと。


 アビダンマ的だとは思わないでいただきたいのだが、貪瞋痴が「ある」というのなら、不貪不瞋不痴によって貪瞋痴を無くす、または燃やす、でもいい。

 

 不貪不瞋不痴が「ある」というのなら、不貪不瞋不痴を「増やす」と考えても良い。

 

 だからといって、在家なのだからあまり貪については敵視しすぎないでほしいのだが、世の中の行動として、不貪不瞋不痴が多ければ多いほど、結果が良くなる。貪瞋痴が多いほど、結果が悪くなる。本人にとっても、社会にとっても。

 

 不貪と不瞋については、当然冥想で気付いていくことも重要なことだが、なぜだろう、ネットでいかに長時間冥想しました自慢はよく見るが、これだけたくさんお布施しました自慢をあまり見ないのは。これはお布施が現代日本でいかに難しい行為かを端的に表している。

 

 kusalaとpuññaは違う。kusalaというのは、それこそ解脱に至る、心を綺麗にする行為で、puññaというのは、テーラワーダにおいてもこれこそが「現世利益」を生む福徳だ。

 

 いや、「現世」というと、語弊有りまくりだ。お坊様に言われたことがある。「āmisapūjāをしたからといって、今世に良い結果があることを期待してするのは、欲。来世に良い結果があることを期待してするのは正見」と。

 

 意味が分からなかった。「どゆこと?」

 

fujisugatavihara.blogspot.com

 ここに、正見について説明がある。

 

 つまり、「来世がある」と考えることは、正見なのだ。輪廻が無い、と思っている限り、残念ながらテーラワーダにおける預流果になることはできない。

 

 来世以降、いい結果があると思って金品をお布施(何度も言うように、僧伽や出家だけではなく、テーラワーダでいう「お布施」は、自分以外のどんな生命に対して行っても善行為。悪人にすら)することは、なんと正見なのだ。

 

 アビダンマ的に言って、路の速行の1番目に来るほど強い善の心が働けばdiṭṭhadhammavedanīya kammaになるのだから、「来世以降」と思っていたところで、どうせ結果は出る。であるなら、「来世以降」と思っていた方がテーラワーダ的に善行為の力が強いのだから、やらない手はない。その上不貪の行為にもなるのだから。


 と、アビダンマ的に考えると面白いと思わない?

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

paccayānañ ca vekalyā
パッチャヤーナン チャ ウェーカルヤー
歳をとって死ぬ、
bāhirajjhattupaddavā,
バーヒラッジャットゥパッダワー
事故によって死ぬ、
marāmoraṃ nimesā'pi
マラーモーラン ニメーサーピ
瞬間瞬間死に近づいています。
maramāno anukkhaṇaṃti.
マラマーノー アヌッカナンティ
死を越えられる人は一人もいません。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 ここは自信が無いのだが、テーラワーダにおいて、死というのはロウソクの火に例えられる。

 

 ロウソクのロウが無くなっても火は消える、紐(?)が無くなっても消える、風が吹いても消える、ロウと紐が同時に無くなっても消える。

 

 そのように、業(寿命)で亡くなったり、事故で亡くなったりする。ここが、運命論、宿命論と業がちょっと違うところだ。業の力は最強、お釈迦様ですらどうすることもできないが、すべての結果が業のみによって起こるのではない。

 

 では他の要素はなんなのか、というのは、すまん、忘れてしまった…。何度も聞いているはずなんだが…。

 

 まあとにかく、事故とかで死ぬことはある。津波などはわかりやすい。どうにも業が良すぎる人であればどんなことがあろうとも生き残ってしまうかも知れないが、そうでなければ、巻き込まれて死んでしまうこともある。

 

 戦争などは、わかりやすいだろう。業が良いからといって、必ず生き残れるとは限らない。現代日本では縁が無いが、飢饉などもそうだ。

 

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 ここでも書いたように、「すべては業によって」と言う場合もある。しかし厳密に言うと、すべてが業の結果ではない。

 

 まあここは、私の場合で恐縮だが、「viññāṇaというのは、魂のことですよ」と言うのと同じだ。本当は全く違うのだが。

 


 死隨念終了。