四つの御守りの冥想~死隨念3
先日書いた通り、私は今まで死隨念についてはまともにやってこなかった、と言っていい。
以前も書いた通り、私はこのブログを書くにあたり、特になにか調べたりはほぼしない。ただキーボードの前に座り、その時に思いついたままを書いているのだが、だからだろうか、この死隨念については、まるで書くことによって死隨念をしているかのような感覚を覚えている。死隨念というものは「今日明日にも死ぬかもしれない。だから生きているうちに努力しよう」という精進を生むらしいのだが、確かに明らかに今までよりも頭が回っている気がしてならないのだ。
そして、どうも満足も生むようだ。ここのところ、「ああ、今日も生きていられた」という気が生まれてきている。
いろいろな冥想についてはそれぞれの効用が言われたりするが、そこはいろいろオーバーラップするところもやはりあるのだろう。やり方や、その人の特性も大いに関係するに違いない。
で、驚いたことに、やはりここのところ「うわ、昨日の俺、クズだはw」という感覚にも襲われている。
自分では何が変わっているのかはわからない。しかし思い当たる所と言えば、この死隨念についてブログで書いていることくらいだ。
私が思った以上に、死隨念というのは徳の高い冥想なのかも知れない。
そして、こんなことを書いていられるのも、やはり皆さんからのアクセスがあって、モチベーションが続いているからだ。ありがとうございます。
そして、この善行為を皆さんに回向いたします。是非とも随喜して下さい。
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suyasatthāma-puññiddhi
スヤサッターマプンニッディ
徳、智慧、
buddhi-vuddhe jinadvayaṃ,
ブッディウッデー ジナッドゥワヤン
名声の限りない佛陀も
ghātesi maraṇaṃ khippaṃ
ガーテースィ マラナン キッパン
死という悪魔に殺されました。
kā tu mādisake kathā.
カー トゥ マーディサケー カター
私などはどうなるというのでしょうか。
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なんとお釈迦様も、死んだのだ。
ここは大いに誤解されるところかもしれない。
お釈迦様は、般涅槃、アビダンマで言う無余涅槃に入られたので、お祝いされるのだ。死んだから祝われるわけではない。
これは確か以前には書いていなかったと思うが、シンハラ人にシンハラ語で「あなたが早く涅槃に行けますように」と言うと、やはりこれは「早く死ねということか?」という印象になるらしい。テーラワーダの国と言えども、ここは日本語とも別に変わらない(笑)。
まあ在家であればそこまで詳しく教義を知っているわけでもないし、だからこそ「私は正自覚者だ」という出家に騙されてしまうのだろうが、それにしてもこういう所は難しい。表面的にはまったく同じことだからだ。
だからこそ、テーラワーダにマニュアルは、ふさわしくない。「こうしたらこういうことです」と一面的に見てしまうと、道を踏み誤る。
寺でも見たことがある。在家の人があることをしたら、出家が叱った。しかし他の人が同じことをしたら、褒めた。
意図が読めれば上手く対応できるが、意図を読み誤ると、最悪善いことをしようとしているのに「なに悪いことしてるんだ!」ということになる。私も小さい頃からこういうことをされた経験は山ほどあるのでよくわかる。日本では「善いこととはこういうことです」とガチガチに決まっているから、そこから外れると無茶苦茶怒られる。
マニュアル化された行動だと、悪い意図を持っても善行為に見せかけることができる。本人も善行為だと思い込んでいたりする。
テーラワーダにおいて善行為とは、不貪不瞋不痴でなされた行為。悪行為とは、貪瞋痴でなされた行為。行為とは、身口意で行うこと。
アビダンマ的だとは思わないでいただきたいのだが、貪瞋痴が「ある」というのなら、不貪不瞋不痴によって貪瞋痴を無くす、または燃やす、でもいい。
不貪不瞋不痴が「ある」というのなら、不貪不瞋不痴を「増やす」と考えても良い。
だからといって、在家なのだからあまり貪については敵視しすぎないでほしいのだが、世の中の行動として、不貪不瞋不痴が多ければ多いほど、結果が良くなる。貪瞋痴が多いほど、結果が悪くなる。本人にとっても、社会にとっても。
不貪と不瞋については、当然冥想で気付いていくことも重要なことだが、なぜだろう、ネットでいかに長時間冥想しました自慢はよく見るが、これだけたくさんお布施しました自慢をあまり見ないのは。これはお布施が現代日本でいかに難しい行為かを端的に表している。
kusalaとpuññaは違う。kusalaというのは、それこそ解脱に至る、心を綺麗にする行為で、puññaというのは、テーラワーダにおいてもこれこそが「現世利益」を生む福徳だ。
いや、「現世」というと、語弊有りまくりだ。お坊様に言われたことがある。「āmisapūjāをしたからといって、今世に良い結果があることを期待してするのは、欲。来世に良い結果があることを期待してするのは正見」と。
意味が分からなかった。「どゆこと?」
ここに、正見について説明がある。
つまり、「来世がある」と考えることは、正見なのだ。輪廻が無い、と思っている限り、残念ながらテーラワーダにおける預流果になることはできない。
来世以降、いい結果があると思って金品をお布施(何度も言うように、僧伽や出家だけではなく、テーラワーダでいう「お布施」は、自分以外のどんな生命に対して行っても善行為。悪人にすら)することは、なんと正見なのだ。
アビダンマ的に言って、路の速行の1番目に来るほど強い善の心が働けばdiṭṭhadhammavedanīya kammaになるのだから、「来世以降」と思っていたところで、どうせ結果は出る。であるなら、「来世以降」と思っていた方がテーラワーダ的に善行為の力が強いのだから、やらない手はない。その上不貪の行為にもなるのだから。
と、アビダンマ的に考えると面白いと思わない?
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paccayānañ ca vekalyā
パッチャヤーナン チャ ウェーカルヤー
歳をとって死ぬ、
bāhirajjhattupaddavā,
バーヒラッジャットゥパッダワー
事故によって死ぬ、
marāmoraṃ nimesā'pi
マラーモーラン ニメーサーピ
瞬間瞬間死に近づいています。
maramāno anukkhaṇaṃti.
マラマーノー アヌッカナンティ
死を越えられる人は一人もいません。
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ここは自信が無いのだが、テーラワーダにおいて、死というのはロウソクの火に例えられる。
ロウソクのロウが無くなっても火は消える、紐(?)が無くなっても消える、風が吹いても消える、ロウと紐が同時に無くなっても消える。
そのように、業(寿命)で亡くなったり、事故で亡くなったりする。ここが、運命論、宿命論と業がちょっと違うところだ。業の力は最強、お釈迦様ですらどうすることもできないが、すべての結果が業のみによって起こるのではない。
では他の要素はなんなのか、というのは、すまん、忘れてしまった…。何度も聞いているはずなんだが…。
まあとにかく、事故とかで死ぬことはある。津波などはわかりやすい。どうにも業が良すぎる人であればどんなことがあろうとも生き残ってしまうかも知れないが、そうでなければ、巻き込まれて死んでしまうこともある。
戦争などは、わかりやすいだろう。業が良いからといって、必ず生き残れるとは限らない。現代日本では縁が無いが、飢饉などもそうだ。
sakuragi-theravada.hatenablog.jp
ここでも書いたように、「すべては業によって」と言う場合もある。しかし厳密に言うと、すべてが業の結果ではない。
まあここは、私の場合で恐縮だが、「viññāṇaというのは、魂のことですよ」と言うのと同じだ。本当は全く違うのだが。
死隨念終了。