さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

四つの御守りの冥想~死隨念1

 不浄隨念ほどではないかも知れないが、この死隨念についても、テーラワーダに馴染みのない人に伝えるには少し気を付けた方が良いものだ。

 

 昔は、キリスト教関連の画には髑髏が書いてあって、「死を忘れるな」というメッセージが込められていたそうだ。日本でも、飢饉や疫病でそこら中に死体が転がっていたのだから、死について考えざるを得ない状況はあったのだろう。

 

 しかし、現代はとにかく死を忌み嫌う。死なんて無い、くらいな勢いだ。

 

 輪廻という考えもあまりメジャーではないから、断見、この生が終わればどうせなにも無いのだから、自殺すればこの辛い状況から逃げられる、とも当たり前に思ってしまう。

 

 テーラワーダでは、明確に自殺は禁じている。別に戒律がどうとかではないが、輪廻をもとに考えると、「今辛い状況なのに、死んで次に生まれ変わって、それより状況が良くなっていると思いますか?」という話だ。残念ながら。

 

 「いや、経典には自殺を認めているお釈迦様の発言がありませんでしたか?」と言うかも知れない。しかし、どこにも、自殺を認める発言など無い。

 

 あのお坊様は、まあ阿羅漢になる能力があるくらいの方だったのだから、そのまま死んでしまったら次の輪廻はだいたいどんなところに行ってしまうのかはわかっていたし、しかしそれだけの覚悟を持って死ぬ寸前まで精進しなければそこには至ることができなかった、お釈迦様はその精進を称えた、というわけだ。信が無いと、誤解してしまうところかも知れない。よくは知らないが、恐らく注釈書にもそこまでは書いてないだろう。

 

 なぜそんなことが経典に残っているのかと言うと、自殺はダメなのになんなんだアイツは!と阿羅漢になった方に対して文句の心が起こってくると、それはとても善行為とは言えないためだ。

 

 日本はマニュアル社会だから、「経典にはこう書いてあります」といって、特に戒律をもとに人をやたらと裁きたがる。経典にもあるではないか。出家の戒律を覚えきれないから還俗しようとお釈迦様に最後の挨拶に行ったところ「ではこうしなさい」と言われて、「その通りに」実践したら結局阿羅漢になられた、という話が。

 

 このブログでも何度も書いているが、人は生まれによって、姿かたちから心の傾向まで、なにからなにまで違う。例えば戒律なら、それこそ死ぬ気で戒律をすべて守った方が良い人もいるかも知れない。しかし、中には戒律のことについてはほとんど気にしなくて良い人もいるかも知れない。

 

 経典を読んでいても、「お釈迦様、場所によって全然違うこと言ってない?」と思ったことはないだろうか。そりゃ、仕方がない。なにしろ、その説法を聞いている人の業がまるで違う。

 

 前から書いているように、いわゆる「見えない生命」が見える人もいる、見えない人もいる。それによって指導方法が変わることは、すぐにわかっていただけるだろう。

 

 「いやいや、そんなの嫌だ~い!誰にでも当てはまる真理を、手っ取り早く知りたいんだいっ」という人には、是非ともアビダンマをお勧めしたい。あちらは受ける側の違いは関係が無い。といっても、結局実践に当てはめる時点で関係してきちゃうけどね。

 

 テーラワーダを実践する上で必要なマニュアルは、三蔵、そして注釈書や副注釈書。なぜあんなに膨大な資料が存在するのか、これでわかっていただけただろうか。それを咀嚼して伝えてくれる、テーラワーダをきちんと学んだ師匠につくことをお勧めする。実践者がそれをすべて知る必要もないし、師匠だって、三蔵全部、となると無理があるだろう。中にはいるが。

 

 

 まあしかし問題なのは、こういうことを逆手にとって、ほんとうは戒律は守らなければならない人なのに、「いや、例外はあります」とか言って戒律をまったく守らない、とか、そういうことになりかねない、ということだ。

 

 自分で判断できれば一番いいのだが、そうでなければまともなお坊様のガイドに従って修行をしていくべきで、しかしその師匠に会うには、もしかしたらまだ時機が満ちていないかも知れない。まだ十分、こちらの徳が熟していないかも知れない。

 

 しかし、テーラワーダというのは、スパルタだ(笑)。例え極上の師匠に出会えたとしても、というか極上の師匠であればあるほど、結局は「自分の道は自分で見つけなさい」という話になってしまう。これも先ほどの話のように、最後まで言われた通りにやった方が良い人もいるかも知れない。

 

 相性もある。お釈迦様じゃないんだから、誰にでも間違いなく教えられる師匠、というのはどこにもいない。範囲が広い方はいらっしゃるかもしれないが、もんのすごい範囲の狭い師匠もいるかも知れない。

 

 まあとにかく、人によって色々違う、ということは頭に入れておいた方が安全だ。完全に皆に当てはまる公式など、存在しない。仏教において三法印は大切なものだが、そこへ至る道順は、人によってまるで違う。

 

 これはおまけになるが、しかし信と慧(ついでにw定と精進も。しかし定と精進「だけ」では、「信」が無いから見えてこないか、間違える可能性が高い)をバランス良く育てていくと、次に自分が何をすべきかが見えてくることがある。その中に、「あ、この人だ」と思うことがあるかも知れない。焦ることはない。楽しみにその時を待っていれば良い。焦りは大概、怠けや慳につながりやすい。「これだけやっていれば手っ取り早く悟りに達することができるぜぃ」なんて、悟りへの道ではない。そもそもそんなことを考えている時点で、完全に道を見誤る。

 


 というわけで、死隨念だ。

 

 人というのは、簡単に死んでしまう。いつ死ぬかわからないのだから、生きている今のうちに善行為して、修行しよう、という精進が生まれるそうだ。

 

 確かお釈迦様の言葉で、「皆死ぬのだ、ということがわかれば(気持ちが生まれれば、だったか)、争いは無くなる」というのが無かっただろうか。

 

 私にはよくわからない。世の中の人は、そこまで「自分は死なない」と思っているのだろうか?死をわかっていて、争っているのではないのか?まったくわからない。

 

 

 引用はいつものように、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

pavāta-dīpa-tulyāyā
パワータディーパトゥルヤーヤー
ロウソクの火は、
sāyu-santatiyākkhayaṃ,
サーユサンタティヤーッカヤン
風に吹かれて一瞬にして消えます。
parūpamāya samphassaṃ
パルーパマーヤ サンパッサン
いつ消えるかわかりません。
bhāvaye maraṇassatiṃ.
バーワイェー マラナッサティン
これを例えにして、死隨念を実践して下さい。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 最近では、ロウソクの火すら見る機会が減ってしまっただろうか。仏教なんてやっているとものすごく馴染みがあるが、あれも電気で点くものが100円ショップに売っているくらいだ。

 

 まあとにかく、ロウソクでなくてもいいのだが、キャンプファイヤーくらいになると、ちょっと風に吹かれたくらいでは消えなさそうなので、そのくらい簡単に命というものは無くなってしまうのですよ、ということだ。

 

 あまりにそれが怖くなってしまう場合、まだ死隨念は避けた方がいいのかも知れない。人によっては、それでもちょっと無理してやるべきなのかも知れない。いずれにしても、こういうことは冥想指導者の言うことに従ってほしい。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

mahāsampatti-sampattā
マハーサンパッティサンパッター
たくさん財産を持つ生命も
yathā sattā matā idha,
ヤター サッター マター イダ
どのように死んでいったでしょうか。
tathā ahaṃ marissāmi
タター アハン マリッサーミ
私もそのように必ず死にます。
maraṇaṃ mama hessati.
マラナン ママ ヘッサティ
死から離れることはできません。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 必要以上に財産を得るためにがむしゃらにがんばったところで、どうせ死ぬでしょ?というわけだ。

 

 こういうことを書いてしまうと、「では財産など得てもしょうがないのだ。働いてもしょうがない」と取る人がいる。まあ中には「だから出家しよう」という方も出てくるのだろうからそれはそれでいいのかも知れないが、在家は、普通の贅沢ができるくらいにはがんばるべきだ。そうすると心にも余裕が生まれるし、仏道の実践がしやすくなり、お布施もたっぷりできる、というわけだ。

 

 とにもかくにも、「いつ死ぬかわからないのだから生きていてもしょうがない」と思ってしまう人にはあまり死隨念については言うべきではないのかも知れないし、「やべえ!いつ死ぬかわからないのだから、テーラワーダを知ったこの生のうちに早めに善行為をたくさんして、冥想修行もできるだけやって、いつ死んでもいいように準備しておこう」と思える人は、どんどん死隨念をやるべきなのだろう。

 

 しかし、この四つの冥想は、御守りの冥想という。そこまで根詰めてやるより、慈悲の冥想を長い文章でやるように、日常的にこの文言を味わいながらやるくらいでも十分良いのではないか、とは思う。もちろんできる人はどんどんやっていくべきだろう。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

uppattiyā saheveḍaṃ
ウッパッティヤー サヘーウェーダン
死というものは、
maraṇaṃ āgataṃ sadā,
マラナン アーガタン サダー
生まれとともに一緒に持ってきたものです。
maraṇatthāya okāsaṃ
マラナッターヤ オーカーサン
死という悪魔は私たちの命をとるために
vadhako viya esati.
ワダコー ウィヤ エーサティ
時間を見計らっている処刑人のようです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 結構ショッキングなことが書いてある。なぜ死ぬのか。それは生まれたからだ。

 

 生まれた以上、いつ死ぬかはわからない。生きている以上、死ぬ可能性だけは常に100%だ。

 

 そしてその「死」は、常に我々にまとわりついている。「さあいつだ、さあいつ殺せるんだ?」と、今か今かと待ち続けている。

 

四つの御守りの冥想~不浄隨念2

 引用は、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

patitamhā'pi kuṇapā
パティタンハーピ クナパー
身体から出てきた汚いものよりも、
jegucchaṃ kāya-nissitaṃ,
ジェーグッチャン カーヤニッスィタン
身体にある汚いものは汚い、
ādhārohi sucī tassa
アーダーローヒ スチー タッサ
身体にある汚いものは
kāyo tu kuṇape ṭhitaṃ.
カーヨー トゥ クナペー ティタン
存在するところも汚いからです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 以前佛道実践会で、「ここは日本語おかしくないですか?」と質問があったことがある。

 

 私もそう思った(笑)。

 

 はじめにスダンマ長老から聞いた時には、何を言っているのかわからなかった。

 

 つまり、排泄物、というものがある。身体から出ると、まあ汚いと思うわなあ。うん、普通だ。

 

 しかし、ここでは、「そうじゃないでしょ?」と言っているわけだ。身体にある、では排泄物になる前のもの、と言ったらいいのだろうか、そのものの方が汚いだろ、と。

 

 どういうことだろうか。

 

 排泄物は、では道端でも、トイレでも良い。道端も、トイレも、汚くないでしょ?というわけだ。トイレは、表面はやや汚いかも知れないが、まあ考えてみれば掃除すれば綺麗になる。そこで排泄行為が行われなければ、ずっと綺麗なままだ。ホームセンターなどで展示されている便器を想像してみればわかるだろう。道端だって、まあ犬や猫や、稀に人間もあるだろうか、排泄行為が行われれば汚くなったりするが、そうでなければ、ほっておくだけで悪臭を放つことは、無いと言い切ってしまって良いだろう。たまに事故で変なものが流れたり、洪水が起こるとそれなりのものが流れてきたりするが、道端自体(?)は、別に「汚い」と言えるものではない。

 

 ところが、だ。では身体はどうなのだろうか。二、三日放っておくと、そりゃあまあ臭くなる。

 

 ということだ。

 

 排泄物になる前のものが身体の中にあるということはつまり、そのものも汚いし、それが存在しているその場所自体も汚いのだから、もうどうにもならないほど汚いのだ、ということだ。

 


 こういうことを書いてしまうと、たまに「身体はじゃあ汚いのだから、綺麗にしてもしょうがないじゃないか」と言う人が出てくる。「たまに」だが。

 

 まず、慈悲の心を持って、周りに迷惑にならないようにしよう。クサいと迷惑だ。

 

 生命、は無理だが、更に「たまに」、「人に会わないんだけど」という人も出てくる。

 

 スピリチュアル的な話で恐縮だが、やはり汚いところにはそれなりの生命が集まってくる。ゴミ屋敷をテレビでやると、いろいろ理由が語られたりするが、結局の所本人だってすべての理由が分かっているわけではないと思う。それなりの生命が集まってくると居心地がいいので、その状態を保とうとするようになる。これは汚いとか臭いとかだけではなく、貪瞋痴どれにも当てはまる話だが。人の文句ばっか言っている人はずっと人の文句ばっか言っているだろう。自分のことは見ずに。もうそういう生命に好かれてしまっているのだ。

 

 逆に言えば、不貪不瞋不痴もそうなのだとは思うが。

 

 というわけで、そちら的にも、慈悲の心を持って、「周りに迷惑をかけてしまわないように」と、普通に綺麗にしていればそれで良いわけだ。こちらも、行き過ぎは問題になってしまう。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

mīḷhe kimiva kāyo'yaṃ
ミールヘー キミワ カーヨーヤン
この身体は汚いものの中に生まれるウジ虫のように
asucimhi samuṭṭhito,
アスチンヒ サムッティトー
汚いものの中に生まれたものです。
anto asucisampuṇṇo
アントー アスチサンプンノー
排泄物でいっぱいになっている便所のように、
puṇṇavaccakuṭī viya.
プンナワッチャクティー ウィヤ
汚いもので満ちています。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「排泄物でいっぱいになっている便所のように」。ここは「トイレ」にしようか、と迷ったところだ。

 

 しかし、日本に「トイレ」という言葉が定着してからというもの、あまり排泄物でいっぱいになっているトイレ、というのがイメージがわかないような気がした、というのが一つ、もう一点は「一応お経なんだし、カタカナ外来語を入れるのはいかがなものか」と思ったからだ。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

asuci-sandate niccaṃ
アスチサンダテー ニッチャン
腐った肉を入れた鍋に穴が空けば汚い液体が出てくるように、
yathā medaka thālikā,
ヤター メーダカ ターリカー
この身体からも汚い液体が出てきます。
nānā kimi-kulāvāso
ナーナー キミクラーワーソー
身体の中にはウジ虫のような虫がいます。
pakka-candanikā viya.
パッカチャンダニカー ウィヤ
汚い水たまりのようです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 テーラワーダでは確か九つだったと思うが、九つの穴から、汚い液体が常時出てくる。よくは知らないが、虫がいるそうだ。最近の日本では、寄生虫とかは聞かなくなりましたなあ。

 

 まあとにかく、「汚い水たまりのよう」だそうだ。私は肥溜めも見たことがないし、よくわからない。そういう水たまり自体、現代日本では日常的にはほとんど見かけなくなってしまった。

 

 時代の変化とともに、たとえ話もよくわからなくなってしまう。

 

 経典の訳で問題になる所は、ここだ。経典の時代には当たり前だったことが、現代では想像もできなくなってしまっていたりする。インド文化圏では今でもわかることが、やはり日本だと背景がまるでわからないことも多い。

 

 そんなことが多いので、私はわかるまで根掘り葉掘り訊くのだが、まあ恐らくスダンマ長老も嫌がっているだろうと思うことが多い(笑)。当然、他のお坊様も同様だ。

 

 意外に文化というのは、突っ込んで訊かれると困るものだ。普段当たり前だと思っているのだから、深く背景を知ろうとは思わないことが普通だ。

 

 以前にも書いたが、「日本人はなぜお辞儀をするのですか?」と訊かれた時、皆さんならどう答えるだろうか。

 

 多分、誰の言うことも不正解ではないと思うが、では文化人類的にどれが正解なのか、となると、外国人はどう答えを出すだろうか。

 

 ま、そんな話になってしまう。普段自分を含め自分の周りが「ちょー当たり前」と思っていることを外部から「なぜなの?」と訊かれると、困ってしまう。

 

 そして、またこの「ちょー当たり前」が厄介で、これも以前に書いた通り、誰にとってもちょー当たり前なのだから、わざわざ文献に残らない。

 

 この点テーラワーダの場合、インドから、注釈書の時点でスリランカに移っている関係上、助かる部分もあるのだが、こんなこと言ったらスリランカの人に怒られるだろうが、我々日本人から見ると、インドなんだかスリランカなんだか正直な所わからない。西洋から見ると、日本か中国か韓国かわからないのと同様に。

 

 というわけで、インドとスリランカは恐らく違うわけだが(←ちょー失礼)、注釈書ではその程度の違いしか明らかにされていない。文献を基にするにしても、日本の常識とは、もともとまずかけ離れているのだ、という認識が必要だ。こういう所は、残念ながら注釈書、副注釈書を見たところですべてわかるものでは無い、と感じている。

 

 もちろん同じところはある。しかし、日本の常識を当てはめて経典に落とし込んだところですべてが正解になるのか、というと、そうではない、ということだけはわかっておいていただきたい所だ。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

gaṇḍabhūto rogabhūto
ガンダブートー ローガブートー
この身体は腫れ物のようなものです。この身体は病気です。
vaṇabhūto samussayo,
ワナブートー サムッサヨー
この身体は傷のように治すのが難しい、
atekiccho'tijeguccho
アテーキッチョーティジェーグッチョー
とても気持ち悪いものです。
pabhinna-kuṇapūpamoti.
パビンナクナプーパモーティ
あちこち壊れる汚いものです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 腫れ物なども、医療環境の改善なのだろうか、日常環境ではあまり見なくなった。病気も昔より治るようになった。すべてではないだろうが、傷もすぐに治る。

 

 だからかわからないが、私にはここは、あまりイメージできるものではない。

 


 不浄隨念終了。

 

そろそろお休みいただいては

 以前はブログのアクセス数が100を超える日が出てきた、と喜んでいたが、ここのところ、一日のアクセス数が100を切る方が珍しくなってきた。

 

 いやいや、確かに今はアビダンマはやっていない。それが功を奏したのだ(笑)と思うが、Googleからのアクセス先が、なぜかこんな記事だ。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 う~ん、やっぱり記事的にまずかったかなあと思いきや、「もしかして」と自分でも調べてみたら、どうも検索ワードは「ヤサ長老」だったようだ。

 

 なんか申し訳ない。だからといって今更文章を変える気も毛頭ない(笑)のだが、この記事とヤサ長老は、はっきり言って何の関係も無い。


 私の師匠であるスダンマ長老はヤサ長老のことをよくご存知だが、私はよく存じ上げない。お顔を拝見したことは何度もあるが、個人的にお話ししたことは全くない。お話を聴いたのも、名古屋の勉強会で一度だけだ。

 

 というわけで、正直に言ってしまうと、私も不安だった。スマナサーラ長老が体調を崩され、ヤサ長老がお話しなさるという。動画を見てみようと思ったが、音量が小さすぎてとても聞く気になれなかった。音についてはどうにも、すぐにキレて我慢ができなくなってしまう。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 しかし、その少ない時間映像を見ていても、ヤサ長老は溌溂と語ってらっしゃったようにお見受けでき、その後のネット情報を見ても、大変好評だったようだ。

 

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 富士スガタ冥想センターにスマナサーラ長老がいらっしゃった時、実は長老は「(死を)覚悟した」とおっしゃっていた。それほど体調はひどかったようだ。私としては、だいぶ以前から、スマナサーラ長老にはもう少しお休みいただきたいと思っていた。

 

 よくは知らないのだが、昔の仏教協会を知る人たちに話を聞いても、長老は話している最中に倒れることがよくあったそうだ。私はそんな話は全然知らなかったから「いやいや、休ませてあげて下さいよ」なんて思ったが、どうも私が長老にお会いする前の話のようだったから、「う~ん…」と言葉が継げなくなってしまった。

 

 ご本人がどう思っているかはまったく知らない。仏教を語っている方が元気になるのかも知れない。しかし、もうそろそろ「いやいや、休んでくださいよ」と、正直、言いたい。

 


 スマナサーラ長老がいたらした時には、スリランカのお坊様も多数いらっしゃったし、日本の大乗仏教のお坊様もいらっしゃった。

 

 私は、それまでのイメージとしては、失礼ながらかどうかわからないが、どうしても「スマナサーラ」という、なんか別の、とんでもない生き物だ、というイメージしかなかったのだが、そこでスリランカのお坊様と一緒に並んでいるのを見て、初めて「ああ、やっぱりスリランカのお坊様なのだなあ」と思った。長老がご飯を食べているのも、初めて見た。これこそ失礼千万だが、長老はご飯を食べないと思っていた(笑)。

 


 なんの関係も無い話だが。つい思い出してしまったので。

 

 といっても、正確な話は覚えていない。確か十年以上も前の話だったと思うが、問題行動を起こす子供が普段どういうゲームをしているか、という記事だった。

 

 そのデータによると、暴力的で残虐なゲームをしている子の方が問題行動を起こす気が私もしていたが、実は正義の味方が敵をやっつけるゲームをしている子の方が、圧倒的に問題行動を起こすことが判明したらしい。研究者も驚いたという。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 こちらにもあるように、「私が正しい」という人の方が、どうやら危ないようだ。

 

 では、「私は正しくない」と思えばいいのだろうか。いや、これはまたこれで大問題になりそうだ(笑)。「我こそが正しい」という人に非常に騙されやすくなる。

 

 ではどうすれば良いのか。結局は、「仏道を実践していきましょう」という結論ですな。焦らず、ゆっくりと。

 

四つの御守りの冥想~不浄隨念1

 さあみんな大好き、不浄隨念だ!

 

 何度も言うように、これがthe 仏教だ!と思われたら困るものだが、もうこのブログではそんなこと書かなくても良いだろう。

 

 そしてこれまた何度も言うように、テーラワーダで言う性欲というのは、お母さんが娘よりも息子の方をかわいがってしまう現象についても「性欲」という。

 

 ゲームで考えてみよう。美少女が怪物に襲われそうで、それを美少年が助ける。

 

 これを、汚いおっさんが怪物に襲われそうで、それを汚いおっさんが助ける、となったら、「う~ん、売り上げは伸びないだろうな」とすぐに想像がつくだろう。

 

 そういうことだ。騎士道では決してかなわない愛を王女に捧げると純愛だとか(すまん、名前は違うかも知れない)色々あるが、テーラワーダからすれば、ただの性欲だ。

 

 そのように世間には普通にあるものだから、在家に対しては「不倫はするなよ」としか言っていない。しかし宗教界隈では、異常に敵視されるものだ。そのくせ、性欲の定義すらはっきりしていない。

 

 というわけで、テーラワーダの実践者としては、「おお、それも性欲なのか。おお、これも性欲なのか」と気付いていけばそれで良い。小さいことからコツコツと。

 

 何年か前か忘れてしまったが、性欲があまりに無くならないというので陰部を自ら切り落としてしまった出家がタイでいた。まあ出家に対して文句を言うのもアレだし、出家は在家と違い、brahmacariyaだ。在家からは想像もできない環境にあるのだろうからなんとも、なのだが、性欲が出たからと言って「くそー!」と思っていると、そうなってしまう。つまり、性欲に対しての怒りを育てているだけだ。

 

 修行好きの人は結構陥りやすい罠なので、頭の片隅にでも入れておこう。

 

 そして、この不浄隨念こそ、まあこの後の死隨念もそうと言えばそうだが、テーラワーダに縁のない人に話すのには細心の注意を要する。

 

 お坊様が言っていた。「頭がおかしくなるのは、怒りでではない。欲で、だ」と。我々はあまりに欲にまみれているので、それが欲だ、とは自分でなかなか気付くことができない。異常な欲というのは盗みに結び付きやすいが、結構テーラワーダの実践者に対しても「それは盗みになりますよ」と言いたくなることが多い。

 

 つまり、欲のある人に対して「それは欲ですよ」というのも実は危ない、と言いたいのだ。または逆に、「それは欲だ!」と怒りを招く。いつものようにネットで見かける、やたらと道徳を盾に人を攻撃する人がそんなことを言い出したら、せっかくここまで認知度が上がったテーラワーダのイメージが悪くなる。というか、もう既にイメージが悪いのではないだろうか。

 

 仏教が崩壊するのは、外部からではない。内部からだ。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

不浄隨念

 

avññāṇāsubhanibhaṃ
アウィンニャーナースバニバン
識のない身体(死体)は不浄です、
saviññāṇāsubhaṃ imaṃ,
サウィンニャーナースバン イマン
識があってもこの身体は不浄です、
kāyaṃ asubhato passaṃ
カーヤン アスバトー パッサン
念(サティ)を育てる人は
asubhaṃ bhāvaye sati.
アスバン バーワイェー サティ
この身体の不浄を観察し実践して下さい。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「識のない身体(死体)は不浄です」。ここはあんまり触れたくないなあ。なにしろ私は十二縁起についてわかっていない。十二縁起については、必ずテーラワーダのお坊様から習ってください、としか言えない。

 

 識viññāṇaとは何か。確か前にも書いたように、私は「魂で良いですよ」と言ってしまうが、これを言うとスダンマ長老に怒られてしまう。テーラワーダではそういう不変の魂、我は無いよ、と言っているのだから、それが「魂のことですよ」なんて言ってしまうと、それをすべて否定してしまうことになってしまうからだ。だから十二縁起での識viññāṇaの話は激烈に難しい。というか、十二縁起がちょー難しい。ネットではどうやら私よりわかっている人たちがたくさんいるようだが、是非そういう人たちと一晩中十二縁起について語り合ってみたいものだ。さぞ私よりたくさんの真理を知っていることだろう。楽しみにしているよ。

 

 まあviññāṇaというのは、受精卵かなにか知らないが、そこに「入る」という表現をする。そしてそこから生命、有情、ということになる。身体からviññāṇaが出ると、次の蘊にまた入る、ということだ。それが、死体。

 


 「識があってもこの身体は不浄です」。まあ死体についても、日本ではキレイとされたりするのでなかなか難しいのだが、大念処経のnavasīvathikapabbaṃにもあるように、死体がどのように変化していくかを観察すると、さすがに「それでも綺麗です」と言い張れる人は、なかなかいないのではないだろうか。

 

 で、死体は不浄だが、識viññāṇaのある、つまり生きている我々も(有情も、ということで良いだろう)身体は不浄ですねえ、と観察して下さいね、ということだ。

 


 「念サティを育てる人は」。そうなんですなあ。私は、とにかく偈としての体裁を整えるために入れてあるのかなあくらいにしか思わないのだが、いや、実は深いつながりがあって書いてあることなのかも知れない。まったくわからない。

 


 「この身体の不浄を観察し実践して下さい」ね。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

vaṇṇa-sanṭhāna-gaṇdhehi
私のこの身体の
āsayokāsato tathā,
毛などの三十二の不浄物は、
paṭikkūlāni kāye me
形も臭いも存在するところも、
kuṇapāṇi dvisoḷasa.
どのように観ても汚いものです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「毛などの三十二の不浄物」。テーラワーダではやたらと出てくるフレーズだ。

 

 なぜ三十二なのか。アーユルヴェーダでもこう見ると聞いたような気がするが、正確に32なのかどうかはわからない。わからないが、少なくとも分類的にはこういう分け方をすることは確かだ。ピッタとか聞いたことがないだろうか。

 

 業処として不浄隨念、身起念、三十二身分をやろうとするならば、この三十二でなければならない。他は許されない。

 

 まあしかし、ライトに不浄隨念をするのなら、そこまで考えなくても良いだろう。

 

 参考までに、三十二身分を引用して今日は終わりにしようと思う。私には、日本語で見ても何のことかわからないものが多いが…

 


 その前に。

 

 「形も臭いも存在するところも」。スマナサーラ長老の本のどこかで、確か「(不浄隨念は)医者は除く」みたいなことが書いてなかっただろうか。間違いだったらほんとうにすまん。医者は日常的にそういうものを触れなければならないから(科によるか?)、不浄隨念なんかやっていたら仕事にならん、ということだろうか。

 

 で、「形も臭いも」とはなんとも言いすぎなような気がする。さすがに生の内臓を見ることに慣れていない我々が内臓などを見ると「うん」と思うが、普通に外に出ている顔や四肢が「形も臭いも」、とは、なんとも。

 

 まあしかし、そうなると「ではどこから、いつから不浄になるのですか?」という問題が出てくるので、テーラワーダでは始めから「不浄に決まってるでしょ?バカですか?」と問いかける。申し訳なかった。

 


 では引用して終わろう。

 

 日本語訳は、ウ・ウェープッラ長老著、南方仏教基本聖典(中山書房仏書林)から。パーリ語については、出家は暗記しておかないと話にならない。

 

 ここでは数が合っていないような気がするが、気にしてはいけない…。パーリ語の引用は、大念処経から。なんかお経によって多少違いがあったような気がする。こういう所、「統一しよう」とはならないのが、テーラワーダというものだ。頑なに、残っているものに忠実であろうとする。少しでも変えるともう歯止めが利かなくなるから、という考えからだ。

 


atthi imasmiṃ kāye
アッティ イマスミン カーイェー
この身体に、
kesā lomā nakhā dantā taco
ケーサー ローマー ナカー ダンター タチョー
髪、毛、爪、歯、皮、
maṃsaṃ nahāru aṭṭhi aṭṭhimiñjā
マンサン ナハール アッティ アッティミンジャー
肉、筋、骨、髄、腎臓、
hadayaṃ yakanaṃ kilomakaṃ
ハダヤン ヤカナン キローマカン
心臓、肝臓、肋膜、
pihakaṃ papphāsaṃ antaṃ antaguṇaṃ
ピハカン パッパーサン アンタン アンタグナン
脾臓、肺臓、胃、腸、
udariyaṃ karīsaṃ
ウダリヤン カリーサン
胃の中の食物、大便、
pittaṃ semhaṃ pubbo lohitaṃ
ピッタン センハン プッボー ローヒタン
胆汁、痰、膿汁、血、
sedo medo assu vasā kheḷo
セードー メードー アッス ワサー ケーロー
汗、脂肪、涙、血精、唾、
siṅghāṇikā lasikā muttanti.
スィンガーニカー ラスィカー ムッタンティ
鼻汁、関節滑液、頭中の脳漿、小便がある。