四つの御守りの冥想~死隨念1
不浄隨念ほどではないかも知れないが、この死隨念についても、テーラワーダに馴染みのない人に伝えるには少し気を付けた方が良いものだ。
昔は、キリスト教関連の画には髑髏が書いてあって、「死を忘れるな」というメッセージが込められていたそうだ。日本でも、飢饉や疫病でそこら中に死体が転がっていたのだから、死について考えざるを得ない状況はあったのだろう。
しかし、現代はとにかく死を忌み嫌う。死なんて無い、くらいな勢いだ。
輪廻という考えもあまりメジャーではないから、断見、この生が終わればどうせなにも無いのだから、自殺すればこの辛い状況から逃げられる、とも当たり前に思ってしまう。
テーラワーダでは、明確に自殺は禁じている。別に戒律がどうとかではないが、輪廻をもとに考えると、「今辛い状況なのに、死んで次に生まれ変わって、それより状況が良くなっていると思いますか?」という話だ。残念ながら。
「いや、経典には自殺を認めているお釈迦様の発言がありませんでしたか?」と言うかも知れない。しかし、どこにも、自殺を認める発言など無い。
あのお坊様は、まあ阿羅漢になる能力があるくらいの方だったのだから、そのまま死んでしまったら次の輪廻はだいたいどんなところに行ってしまうのかはわかっていたし、しかしそれだけの覚悟を持って死ぬ寸前まで精進しなければそこには至ることができなかった、お釈迦様はその精進を称えた、というわけだ。信が無いと、誤解してしまうところかも知れない。よくは知らないが、恐らく注釈書にもそこまでは書いてないだろう。
なぜそんなことが経典に残っているのかと言うと、自殺はダメなのになんなんだアイツは!と阿羅漢になった方に対して文句の心が起こってくると、それはとても善行為とは言えないためだ。
日本はマニュアル社会だから、「経典にはこう書いてあります」といって、特に戒律をもとに人をやたらと裁きたがる。経典にもあるではないか。出家の戒律を覚えきれないから還俗しようとお釈迦様に最後の挨拶に行ったところ「ではこうしなさい」と言われて、「その通りに」実践したら結局阿羅漢になられた、という話が。
このブログでも何度も書いているが、人は生まれによって、姿かたちから心の傾向まで、なにからなにまで違う。例えば戒律なら、それこそ死ぬ気で戒律をすべて守った方が良い人もいるかも知れない。しかし、中には戒律のことについてはほとんど気にしなくて良い人もいるかも知れない。
経典を読んでいても、「お釈迦様、場所によって全然違うこと言ってない?」と思ったことはないだろうか。そりゃ、仕方がない。なにしろ、その説法を聞いている人の業がまるで違う。
前から書いているように、いわゆる「見えない生命」が見える人もいる、見えない人もいる。それによって指導方法が変わることは、すぐにわかっていただけるだろう。
「いやいや、そんなの嫌だ~い!誰にでも当てはまる真理を、手っ取り早く知りたいんだいっ」という人には、是非ともアビダンマをお勧めしたい。あちらは受ける側の違いは関係が無い。といっても、結局実践に当てはめる時点で関係してきちゃうけどね。
テーラワーダを実践する上で必要なマニュアルは、三蔵、そして注釈書や副注釈書。なぜあんなに膨大な資料が存在するのか、これでわかっていただけただろうか。それを咀嚼して伝えてくれる、テーラワーダをきちんと学んだ師匠につくことをお勧めする。実践者がそれをすべて知る必要もないし、師匠だって、三蔵全部、となると無理があるだろう。中にはいるが。
まあしかし問題なのは、こういうことを逆手にとって、ほんとうは戒律は守らなければならない人なのに、「いや、例外はあります」とか言って戒律をまったく守らない、とか、そういうことになりかねない、ということだ。
自分で判断できれば一番いいのだが、そうでなければまともなお坊様のガイドに従って修行をしていくべきで、しかしその師匠に会うには、もしかしたらまだ時機が満ちていないかも知れない。まだ十分、こちらの徳が熟していないかも知れない。
しかし、テーラワーダというのは、スパルタだ(笑)。例え極上の師匠に出会えたとしても、というか極上の師匠であればあるほど、結局は「自分の道は自分で見つけなさい」という話になってしまう。これも先ほどの話のように、最後まで言われた通りにやった方が良い人もいるかも知れない。
相性もある。お釈迦様じゃないんだから、誰にでも間違いなく教えられる師匠、というのはどこにもいない。範囲が広い方はいらっしゃるかもしれないが、もんのすごい範囲の狭い師匠もいるかも知れない。
まあとにかく、人によって色々違う、ということは頭に入れておいた方が安全だ。完全に皆に当てはまる公式など、存在しない。仏教において三法印は大切なものだが、そこへ至る道順は、人によってまるで違う。
これはおまけになるが、しかし信と慧(ついでにw定と精進も。しかし定と精進「だけ」では、「信」が無いから見えてこないか、間違える可能性が高い)をバランス良く育てていくと、次に自分が何をすべきかが見えてくることがある。その中に、「あ、この人だ」と思うことがあるかも知れない。焦ることはない。楽しみにその時を待っていれば良い。焦りは大概、怠けや慳につながりやすい。「これだけやっていれば手っ取り早く悟りに達することができるぜぃ」なんて、悟りへの道ではない。そもそもそんなことを考えている時点で、完全に道を見誤る。
というわけで、死隨念だ。
人というのは、簡単に死んでしまう。いつ死ぬかわからないのだから、生きている今のうちに善行為して、修行しよう、という精進が生まれるそうだ。
確かお釈迦様の言葉で、「皆死ぬのだ、ということがわかれば(気持ちが生まれれば、だったか)、争いは無くなる」というのが無かっただろうか。
私にはよくわからない。世の中の人は、そこまで「自分は死なない」と思っているのだろうか?死をわかっていて、争っているのではないのか?まったくわからない。
引用はいつものように、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。
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pavāta-dīpa-tulyāyā
パワータディーパトゥルヤーヤー
ロウソクの火は、
sāyu-santatiyākkhayaṃ,
サーユサンタティヤーッカヤン
風に吹かれて一瞬にして消えます。
parūpamāya samphassaṃ
パルーパマーヤ サンパッサン
いつ消えるかわかりません。
bhāvaye maraṇassatiṃ.
バーワイェー マラナッサティン
これを例えにして、死隨念を実践して下さい。
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最近では、ロウソクの火すら見る機会が減ってしまっただろうか。仏教なんてやっているとものすごく馴染みがあるが、あれも電気で点くものが100円ショップに売っているくらいだ。
まあとにかく、ロウソクでなくてもいいのだが、キャンプファイヤーくらいになると、ちょっと風に吹かれたくらいでは消えなさそうなので、そのくらい簡単に命というものは無くなってしまうのですよ、ということだ。
あまりにそれが怖くなってしまう場合、まだ死隨念は避けた方がいいのかも知れない。人によっては、それでもちょっと無理してやるべきなのかも知れない。いずれにしても、こういうことは冥想指導者の言うことに従ってほしい。
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mahāsampatti-sampattā
マハーサンパッティサンパッター
たくさん財産を持つ生命も
yathā sattā matā idha,
ヤター サッター マター イダ
どのように死んでいったでしょうか。
tathā ahaṃ marissāmi
タター アハン マリッサーミ
私もそのように必ず死にます。
maraṇaṃ mama hessati.
マラナン ママ ヘッサティ
死から離れることはできません。
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必要以上に財産を得るためにがむしゃらにがんばったところで、どうせ死ぬでしょ?というわけだ。
こういうことを書いてしまうと、「では財産など得てもしょうがないのだ。働いてもしょうがない」と取る人がいる。まあ中には「だから出家しよう」という方も出てくるのだろうからそれはそれでいいのかも知れないが、在家は、普通の贅沢ができるくらいにはがんばるべきだ。そうすると心にも余裕が生まれるし、仏道の実践がしやすくなり、お布施もたっぷりできる、というわけだ。
とにもかくにも、「いつ死ぬかわからないのだから生きていてもしょうがない」と思ってしまう人にはあまり死隨念については言うべきではないのかも知れないし、「やべえ!いつ死ぬかわからないのだから、テーラワーダを知ったこの生のうちに早めに善行為をたくさんして、冥想修行もできるだけやって、いつ死んでもいいように準備しておこう」と思える人は、どんどん死隨念をやるべきなのだろう。
しかし、この四つの冥想は、御守りの冥想という。そこまで根詰めてやるより、慈悲の冥想を長い文章でやるように、日常的にこの文言を味わいながらやるくらいでも十分良いのではないか、とは思う。もちろんできる人はどんどんやっていくべきだろう。
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uppattiyā saheveḍaṃ
ウッパッティヤー サヘーウェーダン
死というものは、
maraṇaṃ āgataṃ sadā,
マラナン アーガタン サダー
生まれとともに一緒に持ってきたものです。
maraṇatthāya okāsaṃ
マラナッターヤ オーカーサン
死という悪魔は私たちの命をとるために
vadhako viya esati.
ワダコー ウィヤ エーサティ
時間を見計らっている処刑人のようです。
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結構ショッキングなことが書いてある。なぜ死ぬのか。それは生まれたからだ。
生まれた以上、いつ死ぬかはわからない。生きている以上、死ぬ可能性だけは常に100%だ。
そしてその「死」は、常に我々にまとわりついている。「さあいつだ、さあいつ殺せるんだ?」と、今か今かと待ち続けている。