さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

四つの御守りの冥想~佛隨念2

 引用は、富士スガタ精舎(富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。

 

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savāsane kilese so
サワーサネー キレーセー ソー
世尊はすべての煩悩をなくし
eko sabbe nighātiya,
エーコー サッベー ニガーティヤ
心を清らかにした
ahū susudha santāno
アフー ススッダ サンターノー
すべての供養を
pūjānañca sadāraho.
プージャーナンチャ サダーラホー
受け取るべき方です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「すべての煩悩をなくし」「心を清らかにした」。どうも「煩悩をなくす」というと虚無、厭世を思い浮かべる人が多いようで、実際仏教も、テーラワーダもそういう誤解を受けることが多い。

 

 まあこれも仕方がないといえば仕方のないことだ。世の中のほとんどは貪瞋痴でできている。だからその元の衝動が無くなってしまったらどうするんだ、なにも行動できないではないか、と思ってしまう。

 

 実際テーラワーダを勉強している人でも、結局その勉強、実践で得た知識、経験を貪瞋痴で使ってしまう。「その貪瞋痴を減らしましょう」と言っているのだから、そりゃ普通嫌に決まっている。

 

 だから、「逆に行く人、流れに逆らう人」なのだ。結局は、何をしていても、不貪、不瞋、不痴でありさえすればそれで良い。善行為だ。

 

 しかしそんなことをいきなり言われても、イメージすらわかない。だから冥想という非日常的な方法を使って訓練するわけだし、しかしこれは筋トレのようなもので、大事なのは日常生活にそれをどう活かすか、ということだ。筋トレで日常生活を壊していたら、何のためのテーラワーダなのか。また、その筋トレのやり方を延々と議論してストレスを溜めて、なんの意味があるのか。

 

 中にはボディビル等の専門家も現れる。それはそれで良い。しかしそれは必ず専門家の下でやるべきだ。確か伝説のボディビルダーで、あまりにストイックすぎるがゆえに餓死した人がいたはずだ。

 


 「すべての供養を受け取るべき方です」。それは、こちらに詳しい。

fujisugatavihara.blogspot.com

 

fujisugatavihara.blogspot.com

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

sabba-kāla-gate dhamme
世尊は過去、現在、
sabbe sammā sayaṃ muni,
未来のすべての法を
sabbākāreṇa bujjhitvā
自分自身で理解して、
eko sabbaññutaṃ gato.
正自覚者になりました。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「過去、現在、未来、すべての法を」。ここでの法は、dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmiの法、お釈迦様の教え、ダンマと取るとわかりやすいし、正自覚者に限り、世間法loka dhammaの法、結局は世の中のすべて、と取っても構わない。

 

 しかし、法dhammaと出てきたからといって、どこでもloka dhmmaのことだと思うと、大問題が起きる。この区別は、きちんと勉強してからにしないと、理解が容易に教えから逸れてしまう。

 

 で、世の中のすべてを知ったから正自覚者になるのではなくて、教え、ダンマをすべて知るから正自覚者になる。

 

 ここは難しいと言えば難しいところだ。解脱に達するために必要なことはすべて知る、即ちそれは世間lokaを知り尽くすとも言える、つまり輪廻を見破る、ということだ。

 

 もしかしたらここら辺は注釈書などで細かく規定があるかも知れない。私はそこまで知らない。すまん。

 

 さて、そういうわけで正自覚者であるお釈迦様は「全知」と言えるのだが、他の宗教で言う「全知全能」とはだいぶイメージが違うと思う。

 

 お釈迦様は、「知ろうと思えばすべて知ることができる」。つまり、これは知る必要がある、と思えば瞬時に知ることができる、ということであって、前もってすべて知っている、というのとはちょっと違う。

 

 経典にもよく出てくる、「朝、助けることの出来る生命はいるかな」と神通で見るのは、そういうことだ。その前からすべての世界を気にかけて把握して、というわけではない。

 

 「全能」とテーラワーダで言うかどうかは知らないが、有情ができる最大限のパフォーマンスを発揮する、と取れば「全能」と言えるだろう。

 

 お釈迦様が最大限能力を発揮すると、その場で阿羅漢になられる方もいれば、その場で預流果になられる方もいるし、その後次第説法によって阿羅漢になられる方もいらっしゃるし、悟りには導けなかった人もいるし、そもそも教えを説くこともできなかった人もいる。それは受ける側の問題であって、受ける側の業の問題ともいえる。その人の業ばかりは、お釈迦様ですらどうすることもできなかった。

 

 そもそもお釈迦様自身も、自身の業についてはどうにもならなかった。片頭痛があったとか、聞いたことがないだろうか。他の宗教ではテーラワーダで言う業すらなんとかしてしまってくれる神こそが「全知全能」なわけだが、他の宗教では「業」という概念が無かったり、きっちりと規定されていなかったりする。ここを詳しく知りたい方は、アビダンマ(略)。

 


 「自分自身で理解して」。つまり、師匠無く。いきなり自分で発見して理解する。これがとんでもない話だということがお分かりいただけるだろうか。

 

 しかし、教義上信saddhāが強い正自覚者、という方もいらっしゃる。私にはよくわからないのだが、過去世が見えているのなら、過去正自覚者に(正自覚者は教義上必ず一度は正自覚者に会っているはずだから。というか、まあ輪廻の中で「一度だけ」ということはあり得ないが)会った時の教えを覚えて、または思い出して信、なのか、

 

blog.tinect.jp

 こちらの記事に「努力とは、信仰である」と書いてあるように、「必ずや解脱はあるはずだ」と信じて精進するから信、なのか。これまた私にはわからない。すまん。

 

 「自分自身で理解して」というのは、独覚仏陀も当てはまる。「独覚」というくらいだから、独覚仏陀、縁起仏も師匠がいない。いきなり自分で真理が見える。しかし、教えを伝える術を持たない。

 

 持たない、とか言いながら、我々よりは確実にある。確実にはあるのだが、お釈迦様、即ち正自覚者のように、誰にでも真理を説くことができる、という能力を持っているわけではない、ということだ。

 

 これは何を意味するのかと言うと、輪廻の中で修行してきた期間、量が圧倒的に違う、ということだ。正自覚者は、衆生に対して憐れみを持って、衆生に教えを説くためにも輪廻の中で修行しまくる。その次が独覚佛陀。仏教、正自覚者の教えがない期間に師匠無く悟る方たち。そして最後が、阿羅漢。正自覚者の教えを聴いて悟る方たち。テーラワーダでいう「悟り」または「覚り」とは、この三つのどれかであり、現代では阿羅漢で悟ることしかできない。

 

 これも前に書いたような気がするが、仏教が存在する間、正自覚者と独覚仏陀は現れない。お釈迦様、生まれた時は菩薩だが、その菩薩が生まれた日に、最後の独覚仏陀は亡くなっている。こういうことを世間法loka dhammaという。教義上そうなっているわけだが、そこを解剖していったところで結論はいつまでも出ないだろう。しかし、「不思議な力によって」と言ってしまえば、それで済む(笑)。

 

 私だって、初めは「それはどうだろう~?」と思っていた。アビダンマの段でも書いたはずだが、あまりにも「お釈迦様にしかわからない」という文言が多すぎる。

 

 しかし、勉強していくと分かる。それだけ、圧倒的に正自覚者だけ能力がまったく違うのだ。「不思議な力」というのも、そこまで圧倒的な力ではないにせよ、次第に感じる機会が増えてくる。そうなると、その延長線上にそういうこともあるのかなあ、と信じるようになる。

 

 そういえばcatubhāṇavāra、つまり護経の中に、isigili suttaイシギリ・スッタというものがある。過去仏が亡くなってからゴータマ菩薩が生まれるまでに「インドに」現れた、確か500人だと思ったが、独覚仏陀の名前が出てくる、その名前を読み上げるだけのお経だ。

 

 大阿羅漢80人の名前を読み上げるお経は護経の中にあるわけではないから(そもそもそういうお経があるのかは知らないが、恐らく無いだろう)、それよりも力があるというわけだが、しかしテーラワーダでは、「独覚仏陀になる、とは誓願しないで下さい」とは言う。

 

 仏陀になるくらいだからそれなりの誓願はあると思うのだが、中には王様で、パレードの最中に象の背中に乗っている時にいきなり悟ったので、そのまま森の中に入ってしまった、という独覚仏陀もいらっしゃるらしい。ちょっとお釈迦様が悟られた、苦行の後に「苦行は意味がない」と理解した後でも苦労されたイメージとは、なんか、違う。

 


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vipassanādivijjāhi
ウィパッサナーディウィッジャーヒ
世尊は、空のように限りのない
sīlādicaraṇehi ca,
スィーラーディチャラネーヒ チャ
ヴィパッサナーの智慧を持ち、
susamiddhehi sampanno
スサミッデーヒ サンパンノー
戒を守る
gaganābhehi nāyako.
ガガナーベーヒ ナーヤコー
明行具足者です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「ヴィパッサナーの智慧を持ち」。ここは皆さんの方がよくわかることだろう。

 

 ヴィパッサナー冥想をしていって、ある日経典を見てみると、以前は思いつきもしなかったものが見えてきたりする。そうして、「やっぱりお釈迦様すごい」と次第に確信が増していく。

 


 「戒を守る」。まあ当然のことだ。当然のことだが、例外はある。例外中の例外だが、確か経典にも出てくることがあったはずだ。それよりも優先することがある場合、だ。

 

 以前にも書いたように、テーラワーダの国でなければ比丘戒227は守れないものが多い。そもそも十戒も難しい。というか、十戒の方が難しい。その関係で、沙弥の方は今まで日本では現れることができなかった。

 

 しかし、いずれにしても五戒を破ることはあり得ない。

 


 「明行具足者です」。これはまだスガタ冥想センターのサイトにあげられていない。近々やろうとは思っているのだが…。

 

 

 そういえばこれを書いていて思ったが、昨日のものもそうで、佛隨念となると、リンク先にもあるように、どうしても不思議な力の話をせざるを得なくなる。正直こんなこと「確信」のしようがない、我々は正自覚者ではないのだから。だから「信じ」ざるを得ないわけだが、だからかもしれない、テーラワーダの実践者ですら平気でお釈迦様を冒涜するようなことを言ってしまうのは。

 

 そういうのを見ると今までは正直頭に来ていたが、今書いていて思った、それも仕方がないことなのか、と。こういった話が信じられないのなら、お釈迦様を尊敬する気持ちが現れないのも当然と言えば当然のことなのかも知れない。

 

 もしこのブログが、信saddhā、信仰心が生まれるきっかけになれたのなら、これ以上嬉しいことは無い。

 

 そして、信仰心が生まれると、世の中のいわゆるマインドフル冥想とテーラワーダの冥想は違う、ということがわかっていただけると思う。

 

 冥想があるところ以上うまくいかなくなるのは、信saddhāが無いからだ。五力のバランスが悪いからだ。智慧、慧が育ってきたら、信を育てないと、または慧を弱めないと、バランスが悪い。しかし慧を弱めたところで、結局は五力全部を力強く育てなければならないのだから、いずれいつかは信を育てなければならない。

 

 冥想がうまくいかなくなってネットで人に絡んでいるような人を見ると、この慧が強くなり過ぎた結果かなあ、と思う。知識的にはもっともなことを言っていそうで、そのくせぐるぐる同じところを回っている。

 

 まだ抵抗のある人はいるだろう。しかし、もうそろそろ、信仰心を育てないと、前には進めない。

 

 だから前にも言ったのだ、

 

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「ばか、やめろ、それはスマナサーラの罠だ!」と(笑)。

 

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 と。

 

 皆さんは、稀代の詐欺師の恐ろしさを、まだ知らない(笑)。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp