さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

四つの御守りの冥想~佛隨念4

 引用は、富士スガタ精舎(富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

eko sabbassa lokassa
エーコー サッバッサ ローカッサ
世尊は、
sabba-sattānusāsako,
サッバサッターヌサーサコー
すべての世界を指導する方です。
bhāgya issariyādīnaṃ
バーッギャ イッサリヤーディーナン
お釈迦さまの財産は、
guṇānaṃ paramo nidhī.
グナーナン パラモー ニディー
その無量の徳です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「世尊は、すべての世界を指導する方です」。他の宗教の人が聞いたら卒倒しそうな言葉だが、まあテーラワーダ仏教徒にとっては当たり前の言葉だ。別に、他の宗教の人に押し付ける必要はなにもない。

 

 この前の前の偈に、「世間解(せけんげ)」とある。すべての世界、三世界を知り尽くす方。何故その方に訊かないで、他の人に訊く必要があろうか。いや、ない(反語)。

 

 こういうことをわかっている、少なくとも出家達がたくさん歴史上にも当たり前にいたわけだが、そういう出家達が「これは聖典である」と認めているにもかかわらず、よくもまあ「この聖典は後の世代に改変されている、または付け加えられている。だから間違いだ。私の言うことの方が正しい」などと言えるものだ。そういう人は、テーラワーダ仏教徒ではない。五戒を守る、信saddhāのあるテーラワーダ仏教徒が、そういうテーラワーダ仏教徒ではない人たちが言う、テーラワーダについての事項は、まったく聞く必要がない。別に、他の分野についての発言等、人格を否定したいとか、そういうわけではない。そちらには能力があったり、私からしたって尊敬できる部分は大いにあったりするが、ことテーラワーダの教義に関しては、正直「死ね」と思う。

 

 だいたいそういう人たちは、アビダンマを勉強していない。なぜなのだろう、日本語訳にも関係したはずの人がアビダンマ的にちんぷんかんぷんなことを言っていたりするのは。

 

 これは、「自分で書いていることがどういうことかわかっていません」と白状しているようなものだ。専門分野の怖さを知らない人は、まあそりゃ勝手なこと書けるわなあ。

 

 というわけで、他の宗教の人にこういう考えを押し付けたいわけではない。大乗仏教の人がテーラワーダを研究するのは大いに嬉しいことだし、そういう人が著書を書くのも大賛成だ。ネットでも大いに発言して良いし、むしろ発言すべきだと思う。

 

 だが、テーラワーダ仏教徒が、そういう人たちの言うことを聞くのは問題だ、と言いたいだけだ。それがテーラワーダの教義だ、ということになると、大変困る。

 

 まあ何度も言うように、今まではテーラワーダについて、まともな日本語の資料は皆無に等しかった。わかってから読めば、「まあ、間違いではないわなあ」とか、「ああ、ここはここをこう思ったからこう書いたんだな」とか、「あ、ここはわかってないかなあ」とか見えるが、一番最初に読む資料がそれでは、後でその思い込みを修正するのが大変だ。

 


 「お釈迦さまの財産は、その無量の徳です」。これは今までも書いてきた、梵天が寿命が尽きるまでにも言い切ることができないほどの無量の徳、それこそがお釈迦様の財産だ、ということだ。

 

 その財産の一部しか我々には思いつくことすらできないわけだが、それでもその一部を思い起こすだけでも、喜びが生まれてくる、というわけだ。財産について思い起こしていたら、誰だって楽しいだろう。「あれもできる、これもできる」と。

 

 まあ信saddāがない人には、なかなかそこまでは難しいと思う。というわけで、このブログがそこに至る予備知識となれば、大変嬉しい。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

paññāssa sabba-dhammesu
パンニヤッサ サッバダンメース
世尊の特長は、
karuṇā sabba-jantusu,
カルナー サッバジャントゥス
あわれみをもって、
attatthānaṃ paratthānaṃ
アッタッターナン パラッターナン
自分の為と他人の為に
sādhikā guṇa-jeṭṭhikā.
サーディカー グナジェッティカー
法(ほう)を説くことです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「自分の為と他人の為に」。なんか前にも書いた気がするが、お釈迦様ですら、「自分の為と他人の為に」と明記されている。「他人の為だけに」なんて、どこにも書いてない。

 

 あまりどこかに書いてあるような気がしないのでここで書いてしまうが、「他人の為だけ」というのは、原理的にまったく持続することができない。正直に言おう。あれは「嘘」だ。musāvādaか、と言われると、恐らく本人もそう思い込んでいるのだから、そういうわけではないと思うが。

 

 「他人の為だけに」を本気でやろうとしたら、一回のみで終わるはずだ。しかも結果が出るかどうかわからない。

 

 十波羅蜜の一つ、布施波羅蜜のうち、最上波羅蜜は、自分の命をお布施する、つまり差し出すことだ。名前などが違うかも知れないが、ここはテーラワーダでも大乗仏教でも変わらないと思う。

 

 しかし、これは「最上」波羅蜜だ。その下の「上」布施波羅蜜は、確か自分の臓器等をお布施すること。これも多分大乗仏教でも変わらない。

 

 なんか、大乗仏教はそっちばっか見てるのだ。まあしょうがない、「阿羅漢などになったところで意味はない、場合によっては地獄に落ちる。そうではなくて、我々は正自覚者「のみ」を目指すのだ」とたいそう偉そうなことを言っているのだから。

 

 別に、そういう人がいたって良い。しかし、一般庶民にまでそれを強要しないでほしい。一般庶民には、普通の布施波羅蜜だけで十分だ。金や物、能力等のお布施を、できる時にできるようにやればそれで良い。

 

 日本はその影響下にある関係上、滅私が良いこととされる。しかし、お釈迦様はそんなことは言っていない。「わがままは言うな」とは言うかも知れない。でも、わがままと私を滅することは、まったく違う。ここを「自我を滅する」と誤解しているところもあるのかも知れない。

 

 こういうことをしているとどうなるのか。そういう人たちは、自分を「我慢」している。で、我慢をしていると、確実にそれを人に強要しだす。「私はこんなに我慢しているのに、あんたたちはなんですか!」と。そんな我慢をしていることなど、その人の勝手だ。それで関係のないこちらが文句を言われたら、たまったものではない。

 

 と、前の宗教でいろんな目に遭ってきた私は、思う。

 

 自分の感情、直感を軽視し過ぎると、不運になるそうだ。

daigoblog.jp

 なるほど、新興宗教などで、いわゆる「ああいう」雰囲気になってしまうのは、こういう理由があってのことなのかも知れない。

 


 「法を説くことです」。つまり、法を説いている時だって、「自分の為と他人の為」なのだ。

 

 正直、この人にはこういうことを言ってあげた方が良い、と私にだって思うことはある。しかし、そんなことを言ってしまったらこちらの身が危ない、とも思うのだ。言ったところでそれを聞いてもらえるような腕があるわけでもないし、それを聞いてもらえなかったところでこちらに攻撃し始めて、それをかわすことの出来る腕があるわけでもない。当然、いつもそうだ、というわけではない。

 

 大事なのは、答えがわかること、解決策がわかること、ではない。そんなのは、第一歩に過ぎない。難しいのは、それをどう現実化するのか、ということだ。

 

 腕のある人は、「他人の為に」黙っていることも当然ある。しかし、「黙っているということはやましいことがあるからだ」と攻撃されてしまう。それに忍耐できる人は、黙り続ける。

 

 経典解説で、スマナサーラ長老が、「ここで私が「間違っています」と言ってしまうと問題になるから」と言ってしまったことがある。つまり、「これは間違いだ」と長老だって言いたいわけだ。しかしそこでそう言ってしまうと、相手にとって社会的に問題が起こる。

 

 誰かを攻撃していれば自分の立場は安全だ、と思っている人は、いつか舌禍に遭う(←お前が言うな)。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

dayāya pārami citvā
ダヤーヤ パーラミ チットゥワー
世尊は三十波羅蜜を実践して、
paññāyattānamuddharī,
パンニャーヤッターナムッダリー
輪廻転生を越え、
uddharī sabba-dhamme ca
ウッダリー サツバダンメーチャ
すべての法を理解して、
dayāyaññe ca uddharī.
ダヤーヤンニェー チャ ウッダリー
他の生命にも輪廻転生という海を渡る道を教えました。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「世尊は三十波羅蜜を実践して」。ここは自信が無いのだが、正自覚者が三十波羅蜜、独覚仏陀が二十波羅蜜、阿羅漢が十波羅蜜だったような気がする。いずれにしても阿羅漢になるには三十が必要だったかもしれない。すまん、まったく自信が無い。

 

 まあ少なくとも、というわけで、最上布施波羅蜜、つまり一回は必ず命をお布施しなければならない関係上、一回の人生で「正自覚者になる」と誓願して正自覚者になれる、ということはあり得ないということがご理解いただけただろうか。そもそも正自覚者になる誓願は正自覚者の前でしないと意味がない。自分で勝手にする分にはかまわないが、だからといって正自覚者になれるわけではない。必ず正自覚者に授記されなければ、正自覚者にはなれない。

 

 

 「すべての法を理解して、他の生命にも輪廻転生という海を渡る道を教えました」。その恩恵を受け、私もこんなブログを続けることができている。

 

 まあ逆に言えば、変なことを言う人がいるからこそ、「それは違う!」と頭に来るので、ブログを続けていられる、ということでもある。前にも書いたように、私はあまり「こういうことがわかったよー!」と発表する意欲が沸くタイプではない。なにをするにも「めんどくさい」。大概の行動の原動力は、怒りだ。

 

 だからと言って、変なことを言う人に感謝する気には、まだ到底なれない…

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

dissamāno'pi tāvassa
ディッサマーノーピ ターワッサ
目に見える世尊の身体は、
rūpakāyo acintiyo,
ルーパカーヨー アチンティヨー
言い表せないほど綺麗です。
asādhāraṇa ñānaḍḍhe
アサーダーラナ ニャーナッデー
その世尊の智慧である法身については
dhamma-kāye kathā ca kā'ti.
ダンマカーイェー カター チャ カーティ
何を言い表せることがあるでしょうか。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「目に見える世尊の身体は、言い表せないほど綺麗です」。私には、よくわからない。よく、見目麗しかったとか、または経典にあるように、三十二の相があったとか、まあ色々ある。

 

 醜くはなかったのだろうなあ、くらいは確実に言えるのだが、それ以上はよくわからない。すまん。光背も、いつでも誰にでも見えたものなのだろうか。わからない…

 


 「その世尊の智慧である法身については」。法身。タンマカーイタイ語が分からないので発音があっているかどうかわからないが、あれだ。

 

 どうしてもお釈迦様ご自身を尊敬できない人は、法身でも構わないわけだ。お釈迦様を同じ人間だ、と思うと嫉妬が出てきてしまう人もいると思う。そういう人は、法の面白さを味わえば、それで良いわけだ。良いわけだが、そのままでは恐らく信saddhāをそこまで育てるのは難しいだろう。

 

 だから、今の日本では、信は育っていない人が多い。お釈迦様に対する尊敬の気持ちが決定的に足りない人をよく見かける。

 

 もう一度、吉祥経から引用して終わりにしたい。

 

 「尊敬すべき人を尊敬すること」。

 

 では尊敬すべき人をどう見分けるか。これは何度も書いている通り、自分が徳の高い人になるしかない。マニュアルは、ない。なにもテーラワーダ関連でなくても、尊敬できる人は山ほどいる。五戒を守っていなくたって、自分が学ぶべきものを持っている人は沢山いる。戒律は自分で守るべきものであって、人を選別するリトマス試験紙ではない。

 

na paresaṃ vilomāni

ナ パレーサン ウィローマーニ

na paresaṃ katākataṃ,

ナ パレーサン カターカタン

attanova avekkheyya

アッタノーワ アウェッケイヤ

katāni akatāni ca.

カターニ アカターニ チャ

 

 どうもネットでのテーラワーダ界隈を見ていると、視野が狭すぎるかな、と感じることがままある。そこまで悟りにこだわらなくて、いいんじゃない?

 

 今ちょうど読んでいる本で、cisさん著、「一人の力で日経平均を動かせる男の投資哲学」角川書店の32頁にこうある。

 

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 そのなかでもとくに大きく負けるのは、自己能力と自己認識が乖離(かいり)している人。つまり、自分を突き放してシビアに見られない人。

 わかりやすくいえば、自分の状態を直視できない人が大きく負ける。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 テーラワーダでも、法に従って生きる人の進歩はゆっくりだ、という。ゆっくり行きましょうや。

 

 

 本題とは何の関係もないが。

 

 私は今日、どうにもある新しいことに取り掛かる気力を無くしていた。だから「新しいことができない」と検索してみて、一番上に出てきた記事。

ameblo.jp

 やる気が出てきた。 

 

 

 佛隨念終了。