さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

途中経過

 今日はこの一冊にお世話になります。


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤

 


 やばい。

 

 本格的にヤバい。

 

 今週中は休みなんて言っていたが、とても終わりそうにない。


 1頁。

 

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最終的には本だけで自習し理解できるようなものを目指したいが

 

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 西澤先生にその後そういう動きはないようだ。なので、どうせならこのブログで一からアビダンマ(ッタサンガハ)を自習できるようなものを目指そうか、と思ったのだが、

 

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瞑想実践だけでは一歩間違えると違った方向に行ってしまい、無我の教えである仏教で平気で真我を悟ったなどと言い出す者がいるので基礎的な教義の理解は必須であると思っている。
教義の勉強によって瞑想の妨げになると思っている人もいるようだが、包丁で怪我するのが怖くて台所で使わないようなものである。心配することなく確り学んで欲しいと願っている。

 

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 とある。

 

 私もこのブログによって皆さんの冥想実践の邪魔にはなりたくないと配慮して書いていたつもりではあるが、アビダンマを一からやるとなると、よりいい加減なことは言えなくなる。

 

 そうなると、細かい私は、とてもいつもの二冊では、やはり頼りない。「それどうなのよ!?」と疑問に思った時、調べるものがない。

 

 というわけで、こちらにある、ナーラダ長老のアビダンマッタサンガハを読んでいた。

www.abhidhamma.com

 私は中学英語で挫折した人間だが、パーリ語よりはましだ。だから雰囲気を楽しんでいる、と言った方が正確だが、そんなレベルでも、これを読んでわかったことがある。

 

 最初の方のアビダンマの説明などは「ふんふん」と読めるのだが、いざアビダンマッタサンガハに入ると、やはり英語でも苦労するところのようだ。

 

 こちらにも書いてあるが、やはりパーリ語と英語では、宗教的背景や哲学的背景がまったく違う。その中で単語ですぱっと訳してしまうと、問題が起こる。

 

 この点、日本は相当恵まれているのかも知れない。もともと大乗仏教がある。テーラワーダもそちらの用語を借りて日本語で理解することができる。

 

 言語によっても、得意不得意はある。日本でも、よく「(テーラワーダが)英語で書いてあると分かりやすい」と言われることがある。確かに英語で書いてあって「すぱっ」とわかるものもある。しかし、逆に英語だとなんだかよくわからないところもある。日本語と比較するとあいまいさを嫌うゲルマン言語だと、意味が限定されてしまって「あれ?そっちだっけ?」なんて思うこともある。

 

 私は以前から、これまたちょくちょくお世話になっているパユットー長老の本の英語の項目に、いくつも訳が載っている意味が分からなかったのだが、これでよくわかった。一つの単語だとその言葉の意味する範囲がパーリ語仏教用語とはどうしても異なってしまうのだ。だからいくつか挙げることによって、範囲を規定しようとしているのか、と。

 

 また、注釈書には、言葉の意味がよく分解して書いてある。あれもよく意味が分からなかった。

 

 お釈迦様は日常の言葉を使って、わかりやすく説いた、と言われる。しかし、あれは在家を相手にしている時に限っての話だ。「比丘たちよ」と呼びかけて説法する時には、とんでもなく難しいことを話していたりする。

 

 サンスクリット語というのはその昔、女性がサンスクリット語を耳にしただけで耳に針を通されてしまうような言語だった。そのくらい、ごく一部の人にしか許されない言語だったわけだが、それだけにほぼ完全に変化せずに伝えられている。

 

 まあしかしそんな言語だったわけだから、お釈迦様はサンスクリットで仏教を語ることは確か禁止されている(すまん、違うかも知れない。しかし少なくとも積極的でなかったことだけは確かだ)。

 

 そういう理由もあって、サンスクリット語パーリ語は似ているわけだから、パーリ語を学ぶ際にはサンスクリットは必須となってくるわけだが、お釈迦様とて、パーリ語で難しいことを全く語らなかったのか、というと、そうではない。

 

 古代マガダ語だかなんだか知らないが、それで日常会話が問題なくできたとしても、経典がすべて読めて理解できるのか、というとそれは残念ながら違う。我々は日本語を理解できるが、ではそれで難解な哲学を理解できるのか、というとそうではないのと同じように。

 

 だから、言葉の意味の定義が重要になってくる。それを、注釈書がやっている。清浄道論を読んだことのある人は、やたらと言葉の意味の説明があるのをご存知だろう。あれだ。

 

 で、これをいい加減な人がやってしまうと、どうなるか。もう結果はわかるだろう。


 先に書いたように、日本は仏教用語に恵まれている。慈悲喜捨なんていい例だ。「じひきしゃ」だ。「メッター、カルナー、ムディター、ウペッカー」なんて言う必要はない。「じひきしゃ」、終わり。なんと簡単なことか。

 

 また、tatramajjhattatāタットゥラマッジャッタターなんてよくわからないが、中捨「ちゅうしゃ」。なんともわかりやすいではないか。

 

 それだけに、大乗仏教の意味との混同も避けられないところではあるし、表意文字ならではの問題もある。前にも書いた、「悲」なんていい例だ。

 

 英語がそもそもわからないのだから感覚はわからないが、ナーラダ長老の本にはjhānaがecstasyとなっている。う~んとは思わないだろうか?三昧だからecstasyでも問題ないような気がするが、これでは興奮状態とか、世俗とは全く違う非日常的な忘我の境地、みたいな気がしないだろうか。あれ、いや、それで合ってるのか??


 実はだいぶ前に、スダンマ長老に言われたことがある。「今テーラワーダを勉強するなら、シンハラ語より英語だ」と。これは「英語を勉強しなさい」と同義だ(笑)。

 

 アビダンマ(ッタサンガハ)を勉強しようとしたら、まずは英語を勉強しないとどうにもならなくなった。

 

 じゃ、このナーラダ長老の本を日本語に訳せばいいんじゃね?とも思ったが、単語の説明には英語特有の問題が含まれており、それを日本語に訳す意味は特にない。日本語にはなんの関係もない話だからだ。そうでなくても他の箇所は参考になる話は多いが、それは日本語でも調べれば出てこない話でもないような気がしないでもない。

 

 今日本には、英語から訳された、テーラワーダのお坊様の説法などの本がたくさんある。しかしあれは冥想関係や、あまり専門用語的なところに突っ込んだものではない理由もわかるような気がした。

 

 こりゃ無理だ。というか、それでは(例えばこのナーラダ長老の本をそのまま日本語に訳すのは)意味がないような気がしてきた。

 

 なるほど、これで、スダンマ長老がおっしゃる、テーラワーダパーリ語がわかる先生から習いなさい、という意味と、パーリ語は師匠から習わないとわからない、という意味がわかった。私もよく寺に通っているからナーラダ長老がおっしゃるところ、アビダンマがわかる部分があるわけで、もしかしたら英語がわかるだけの人が読んだら、誤解される所があるのかも知れない。

 


 というわけで、当ブログでアビダンマに言及しようと思ったら、どうもこれは本腰入れて勉強しないとどうにもならないぞ、となってしまいました。

 

 このブログは「目指せ平日22時up」だったはずだが、恐らく当面の間、勉強している間に何か思うことがあれば、という感じの不定期更新になります。

 

 よろしくお願いします。