さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

吉祥経の読書感想文1

 最初に、思い出したので。

 

 先日adhiṭṭhāna、決意について書いたが、テーラワーダでは「変なことでadhiṭṭhānaしないで下さい」と言う。

 

 そこでも書いたが、辞書には「加持」とある。あのイメージからもわかると思うが、変なことをあれだけ真剣に護摩行されてはたまったものではない。例えそれに効果がなく、自分以外のものに影響が無かったとしても、悪いことを念じていたら、テーラワーダ的には本人の悪業になってしまう。

 

 十波羅蜜のなかに決意波羅蜜がある。当たり前だが、テーラワーダ的に善いことに対して決意することだ。だから、方向性は非常に大事だ。

 

 変な方向に行かないためには、法話を聴くしか方法は無い。

 

 

 さて、幸いにしてリクエストが無かったので、やはり以前にも書いた通り、アビダンマ(ッタサンガハ)をやるには英語を勉強するしか無くなってしまった。というわけで、今度こそ、アビダンマ(略)の読書感想文は、暫くお休みします。

 

 ではどうしようかと思ったところ、「ぽん」と思いついたのが吉祥経だった。

 

 なので、今度は吉祥経をもとに読書感想文を書いていこうと思う。

 

 引用するのは、富士スガタ精舎の日常読誦経典である。

 

 

 この本のパーリ語のローマ字表記校閲は、マドゥルオイェ・ダンミッサラ長老にお願いしている。八王子の正山寺のダンミッサラ長老とは別のお坊様だ。以下、富士スガタ精舎の日常読誦経典関連でダンミッサラ長老、といったらこのマドゥルオイェ・ダンミッサラ長老のことだとご承知おきいただきたい。

 


 お願いしている、というか、バラしてしまうと、その時たまたまスガタ精舎にいたお坊様だ(笑)。スダンマ長老が、「今こんなの作ってるんだよー」「どれどれ」から始まった。

 

 しかしサンスクリットの専門家であることには変わりなく、またテーラワーダをやっていると、それはただの偶然とはまったく思えなくなってくる。見えざる意思を信じるのならキャスティング、信saddhāを信じるなら、それこそ仏様のお導き、だ。


 さて、この日常読誦経典のローマ字表記については、ダンミッサラ長老の指示に従っている。ハイフン(ダッシュ?)、アポストロフィーの入れ方が特徴的だ。実にシステマチックでわかりやすいのだが、これに則って自分で書こうとすると、しっかりパーリ語を勉強していないとできない。

 

 私はこういう場面に遭遇すると、「お前、次やる時は、わかってるんだろうなあ?」という脅しにしか思えない(笑)。前にも書いた通り、お坊様というのは、一回しか言ってくれない。大事なことだからもう一度言うw。「お坊様というのは、一回しか言ってくれない」。そして、この脅しというのは、笑顔でやらないと意味がない。この恐怖がわかる人は、なかなかの人だ。


 ローマナイズされたパーリ語約物は、いろいろあるのはもう皆さんご存知だろう。やり方もまったく統一されていないが、文字の表記に限ってはほぼ統一されていると見ていいだろう。その点については、例えばいつも出すtipitaka.org(ミャンマー版をもとに)とmettanet(PTS版をもとに)の違いはない。しかし約物は結構違う。

 

 そこについて、ダンミッサラ長老は私に「お前はこのやり方だ。わかったな?」と脅してスリランカに帰られた。以上。

 

 

 まあ慣れれば、どのやり方でも別に気にならない。しかし「書く」となると、やはりどれかに統一しなければならなくなる。これが大変だ。だから一つに規定してくれたのだが、それを踏襲するためには結局パーリ語をしっかりと勉強しなければならない。

 

 以前アミタ・ハムドゥルヲに訊いたことがある。「サンスクリットを勉強するにはどうしたらいいですか?」と。答えは、「英語だね」。結局ここでも、英語をやるしかないのだが…。何の専門分野でもそうだが、現状では一番情報が集まる言語は英語だ。そうでなければ、もう現地語をやるしかない。

 

 一度英語を通してしまうやっかいさもあるが、大概どの分野、言語でも英語ができる人がいるから、あまりいい加減なことは言えない、というメリットがある。まあメリットがあるはずだが、じゃあ英語圏ではいい加減なことを言う人がいないか、というと全然そうではない。まあ学術分野でも、共通語はとりあえず英語だよね、ということだ。

 

 しかしでは英語をわかっていれば良いのか、というとまたこれもやっかいで、現地語がわかっていないと、専門分野というのは現地語には訳すことが出来ない。通訳の専門家だからといってどの分野の通訳もできるのか、というと全然そうではないことは、それ関係に携わったことのある人なら痛感していることだろう。

 

 また、政治などの通訳では、一語一句正確に訳さないと国際問題に発展してしまうこともあるので正確に訳さなければいけないが、テーラワーダでは、用語を適切に訳すだけでは、意味が分からないことがある。

 

 以前板橋のミャンマーの寺で通訳されていたミャンマー人の方で、驚異の訳をする方がいた。

 

 私は最初聞いた時は、日本人だとばかり思っていた。しかし時々単語遣いなどが「ん?」と思うので後で聞いてみたらミャンマーの方だという。しかももう何度も出家された方だとか。

 

 実に正確にテーラワーダの言葉も大乗仏教用語に訳して下さる方だったが、残念ながらこちらはその大乗仏教用語がすべてはわからない。あの時に痛感した。これがテーラワーダを訳すという難しさなのだ、と。

 

 因みにこの方の場合、お坊様が繰り出すパーリ語の偈が一部言えないくらいで、ほんとうに完璧に訳されていた。世の中には、凄い人がいたもんである。

 


 スダンマ長老は、よくスリランカのお坊様の説法を通訳して下さるが、意外にそのお坊様ともめているw時がある。

 

 スダンマ長老の訳は、その方の訳とは対極にある。スダンマ長老が意味が分かっていないと訳せない、とおっしゃる。だから意味が不明瞭だったり、どちらの意味かとりづらい時など、必ずそのお坊様に確認する。まずはスダンマ長老相手にしゃべらなければならないのだから(気に入らないお坊様だとそもそも通訳してくれない)いい加減なことは言っていないはずなので、シンハラ語で言うにはそれで十分だと思うのだが、訳して伝えるとなると、話は違ってくる。

 

 だから、我々日本人に対して言う時は、日本の文化や環境に配慮して言って下さるし、こちらが意味が分からないようならこちらから質問しても、答えて下さるのはスダンマ長老であることが多い。通訳としてはあり得ないかも知れないが、我々がテーラワーダを理解するには、こちらの方が適している。

 

 その関係で、私は最初の頃、「ほんとうにこのお坊様が言っていることなのだろうか?」と疑ったことがある(笑)。あとからそのお坊様と話したりして、間違いがなかったことは確認できたりするのだが、もしかしたら初めて遭遇される方には、戸惑うこともあるかと思う。

 


 これは、「書く」となるとさらにハードルが上がる。仮想読者をどこに置くかも重要だし、幅のある現地語からどの単語を選び出すのかも緊張を強いられる。

 

 実はこの吉祥経で、いきなりもめた。「吉祥」とはなんなのか。

 

 私はダンミッサラ長老に、おみくじで大吉を引くような幸運なのか、と訊くと、それは違うと言う。

 

kotobank.jp

 

 日本のテーラワーダ界隈では「きっしょう」と読むことが多い。

 

 私は辞書が大好きで、実は小学生のころなど、どこに行くにも国語辞典を持って行っていた。

 

 スガタ精舎でも施本などをやるとは聞いていたので、必要かと思って結構早い頃に辞書をお布施させてもらっていた。私は中型の辞典が大好きで、中型の辞典は広辞苑大辞林三省堂類語新辞典、新潮日本語漢字辞典をお布施させていただいた。

 

 その関係で、こういう作業をする時には、他にもお布施させてもらった水野弘元と雲井昭善のパーリ語辞典とともにテーブルの上にすべて出してやることが多いのだが、結局それでわかったことがある。辞書は、確認で使うものであって、決して新しい何かをもたらしてくれるものではない、ということが。

 

 これは恐らくこういう作業をする時に限っての話だとは思うが、自分でまずわかっておかないと、どうにも先に進まない。多少単語がわからないとか、そういうのは構わないのだが、まず自分がわかっておく、というのがどれだけ重要なのかを、思い知らされた。

 

 ちなみに私は、どうも辞書ばかりは電子が苦手で…。昔から馴染んでいたからだろう、紙が一番だ。だからいい加減な辞書(略)

 


 さてこのままでは吉祥経に行かずに終わってしまうので、最初だけ。

 

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

evaṃ me sutaṃ:
エーワン メー スタン
私はこのように聞きました。

ekaṃ samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati,
エーカン サマヤン バガワー サーワッティヤン ウィハラティ
その時世尊は舎衛城(サーワッティ)の近くの祇園という

jetavane anāthapiṇḍikassa ārāme.
ジェータワネー アナータピンディカッサ アーラーメー
アナータピンディカ長者の精舎にいらっしゃいました。

atha kho aññatarā devatā abhikkantāya rattiyā
アタ コー アンニャタラー デーワター アビッカンターヤ ラッティヤー
その時ある天人が夜中

abhikkantavaṇṇā kevalakappaṃ jetavanaṃ obhāsetvā
アビッカンタワンナー ケーワラカッパン ジェータワナン オーバーセットゥワー
祇園精舎を明るくしながら

yena bhagavā tenupasaṃkami, upasaṃkamitvā bhagavantaṃ
イェーナ バガワー テーヌパサンカミ ウパサンカミットゥワー バガワンタン
世尊がいらっしゃる近くに来ました。

abhivādetvā ekamantaṃ aṭṭhāsi.
アビワーデットゥワー エーカマンタン アッタースィ
近くに来て世尊に礼拝(らいはい)して側に立ち、

ekamantaṃ ṭhitā kho sā devatā bhagavantaṃ
エーカマンタン ティター コー サー デーワター バガワンタン
その近くにいる天人は

gāthāya ajjhabhāsi:
ガーターヤ アッジャバースィ
世尊に偈文で言いました。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 


 便宜上カタカナで読みを書いているが、残念ながらパーリ語の発音はカタカナ通りではない。今はとりあえず下点とかは置いておいて、単語の最後にa(āではない)が来る時は、実はアとエの中間の発音になる。だから日本では人によって「ア」になる時もあれば、「エ」になる時もある。私は気になると言えば実は気になるのだが、まあしょうがない。

 

 また、vは、例えばviなら「ヴィ」でも「ウィ」でも良いが、viが出てくるたびに舌を噛んで「ヴィ」は意外に辛い。スリランカのお坊様も、もちろん濁ることはあるが、ほとんど「ウィ」に近い。だから私としても、「ウィ」発音をおすすめする。

 

 しかし、「ヴィパッサナー」に関しては、もうすでにそれで一般化しているので、それをわざわざ「ウィパッサナーですよ」なんて言う必要はない。

 

 これはスリランカ(シンハラ)発音に限った話であるが、確か以前にも書いたように、ローマ字を我々がそのまま読むのに一番楽なのは、スリランカ発音だ。テーラワーダの国々の中でも、お釈迦様が使ったパーリ語の発音に近いのはシンハラ発音だろう、ということは広く認められている。しかしそれぞれの国には伝統があるから、別にシンハラ発音に統一する必要もない。

 


 さて吉祥経、宝経、慈経はともにスッタニパータにあるもので、どこのテーラワーダの国でも護経の代表格とされているものだ。

 

 しかしこの、特に吉祥経については、意外に解釈に幅がある。下手すれば、悪用することができるくらい、幅が広い。例えば、虐待する親に困る子にすら、「吉祥経には両親の面倒を見ること、と書かれていますから、どんなに虐待されようが」なんて、言う人はいないだろうが、言えないことはない。

 

 だから、法話は聴いてほしいのだ。ネットでも、テーラワーダを実践していると言いながら、教えをとんでもない方向に曲解する人が意外に多い。残念ながら、法話を聴く機会があまり無いからだ。法灯明というのは、こういうことだ。「師匠がいなくても、もう法を知ってるんだから、自分で修行すればいいよ」なんて、正自覚者だけが言っていれば良い。その、「私は知っている」という慢こそ問題だと、わからないのだろうなあ、そういう人は。ま、しょうがない。そういう慢全開の人たちが書いた法しか知らないのだから、そうなって当然と言えば当然か。

 


 さてこの吉祥経の始めの散文でわかることは、神々は夜中に来る、周辺を明るくしながら、ということだ。

 

 だからスリランカの護経、終夜読経は、夜、夜中行われる。神々が一番出てくるmahāsamaya suttaは、日を超えた、本当に夜中に読誦される。

 

 寺で初転法輪、転法輪経を読誦する時も、夜だ。

 

 これは教えというより、習慣的、だと思った方が良いとは思うが、伝統的にも普通そうだ。実は私はあまり気にしていないので、夜にやる時は「伝統に則っているなあ」と喜ぶし、朝昼でも平気で読誦するが、時間に余裕があるのなら、それなりの護経は夜に唱えることをお勧めする。朝夜にお供えとともに護経を唱えるのは、この限りではない。

 

 この場合で言う「護経」とは、吉祥経、宝経、慈経を三つ全部とか、転法輪経とか、mahāsamaya suttaとか、好きな人ならcatu bhāṇavāraとか、そういうことだ。