さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

慈しみの冥想3

 引用は富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

puratthimasmiṃ disābhāge santi devā mahiddhikā,
プラッティマスミン ディサーバーゲー サンティ デーワー マヒッディカー
東方にいる偉大なる神々が健康で幸福で、
tepi maṃ anurakkhantu ārogyena sukhena ca.
テーピ マン アヌラッカントゥ アーロー(ッ)ゲーナ スケーナ チャ
我々を守ってくれますように。

dakkhiṇasmiṃ disābhāge santi deva mahiddhikā,
ダッキナスミン ディサーバーゲー サンティ デーワー マヒッディカー
南方にいる偉大なる神々が健康で幸福で、
tepi maṃ anurakkhantu ārogyena sukhena ca.
テーピ マン アヌラッカントゥ アーロー(ッ)ゲーナ スケーナ チャ
我々を守ってくれますように。

pacchimasmiṃ disābhāge santi devā mahiddhikā,
パッチマスミン ディサーバーゲー サンティ デーワー マヒッディカー
西方にいる偉大なる神々が健康で幸福で、
tepi maṃ anurakkhantu ārogyena sukhena ca.
テーピ マン アヌラッカントゥ アーロー(ッ)ゲーナ スケーナ チャ
我々を守ってくれますように。

uttarasmiṃ disābhāge santi devā mahiddhikā,
ウッタラスミン ディサーバーゲー サンティ デーワー マヒッディカー
北方にいる偉大なる神々が健康で幸福で、
tepi maṃ anurakkhantu ārogyena sukhena ca.
テーピ マン アヌラッカントゥ アーロー(ッ)ゲーナ スケーナ チャ
我々を守ってくれますように。

puratthimasmiṃ dhataraṭṭho dakkhiṇena virūḷhako,
プラッティマスミン ダタラットー ダッキネーナ ウィルールハコー
東方の持国(ダタラッタ)天王、南方の増長(ウィルールハカ)天王、
pacchimena virūpakkho kuvero uttaraṃ disaṃ,
パッチメーナウィルーパッコー クウェーロー ウッタラン ディサン
西方の広目(ウィルーパッカ)天王、北方の毘沙門(クウェーラ)天王という
te'pi maṃ anurakkhantu ārogyena sukhena cāti.
テーピ マン アヌラッカントゥ アーロー(ッ)ゲーナ スケーナ チャーティ
偉大なる神々が健康で幸福で、我々を守ってくれますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 以前書いたように、私はかな打ちだ。パーリ語の読みを打っていると、右手の小指の所ばかり出てくる。伸ばす「ー」が一番隅っこにあり、しかも頻発する。まあ打ち間違えること打ち間違えること。

 


 さてこれまた以前に書いた通り、四天王といっても、四人しかいないわけではない。よくは知らないのだが、大乗仏教にも出てくるだろう。ここでいう神々とは、諸天善神と考えても良いだろう。色々違いはあるが、同じ仏教には違いない。

 

 記憶が全く定かではないが、確かスリランカでは、満月には四天王が降りてきて、「五戒を守っているかー?」と見回るのではなかったか。新月は将軍だったか。「こいつは五戒を守っていません」とか名簿を四天王に持って行くとか。まったく違うかも知れん。すまん。

 

 四天王は預流果だそうだ。アーターナーティヤ・スッタなどを見ると、預流果になっても悩みは尽きなさそうだ。

 

 毘沙門天は日本でも大変馴染みのある、仏教の守護神だ。アーターナーティヤ・スッタでも、四天王と率いる大軍を代表して、お釈迦様に進言する。


 以前名古屋でウェーサーカ祭が行われた時、ダンミカ長老もいらっしゃったのだが、やたらと「神々が」と回向していた気がする。

 

 テーラワーダでは、実に神々に対して回向等することが多い。テーラワーダでは、神々は、いわゆる我々が食べるような固い食べ物は食べられない。だからといって日本で食べ物や酒をお供えすることについて文句を言うわけではなく、あれは気持ちがあるものだし文化だから私も見ていて大変気持ちの良いものではあるのだが、教義上そういうものをお供えしたところで食べられない、受け入れることができないとなっているのだからではどうするのかというと、回向するのだ。功徳をシェアするんですな。これがテーラワーダ上、神々の大好物だ。そもそも善行為自体が大好きだ。善行為をする人間が、更に回向して善行為を上積み。もう神々が寄ってこない理由がない。

 

 テーラワーダでは護経を唱える前に神々を呼ぶし、慈悲の冥想の11の効用でははっきりと「神々に守られる」とあるし、転法輪経では後半でいちいち無色界以外の神々の名前を読み上げるし、マハーサマヤ・スッタなどは、ほんとうにただ集まってきた神々の名前を読み上げているだけだ(←いずれも護経とされるものの中にあるもの)。

 

 回向の文も、

 

ākāsaṭṭhā ca bhummaṭṭhā
devā nāgā mahiddhikā,

 

 と、伝統的に神々に対してやる。スマナサーラ長老が祝福なさる時に入れているのをよく聴くだろう。

 

 そういうわけで、こういう所で神々に対して、と意識するだけでも、既に天隨念ともなる。


 冥想、特にサマタ冥想などは範囲を限定しがちだし、禅定を目指すとなると当然範囲は限定した方が良いわけだが、解脱に向けて!というわけではなく、もう少しゆるく、「善行為だ」という感じでやる分には、いろんなところでオーバーラップする。そして、それはお坊様としても否定するどころか、推奨するのが普通だ。専門的にサマタ、となるともしかしたら嫌われる部分があるかも知れない。そこはわからない。

 

 だから、「細かく分けるとこれは~冥想」なんて話になってくるのだが、あまり興味が無ければ、そんなことは考える必要はないだろう。そういうのが好きな向きには、本格的にアビダンマを学ぶことをお勧めする。それはまたそれで大変面白い。「おお、ここはこう細かく分けることができるのか!」と喜べる人には、これ以上なく楽しい分野だ。

 

 しかしそうでない向きには、心心所くらいまでを「なるほど、テーラワーダではこういう考え方をするのか」とわかってもらえれば、それで良いと思う。正直、それ以上やっても苦痛でしかないだろう。

 

 なんかネットで見ていても、中途半端なアビダンマの知識でいい加減なことを言っている人を目にする。興味を持ってくれることは嬉しいのだが、「う~ん」とも思う。

 

 アビダンマ(ッタサンガハ)をやればわかると思うが、あれは恐ろしく矛盾が無い。まだまだ知識が浅い頃に「なぜこうなのだろう?」と思っていたものが、勉強が進んでいくといきなり繋がったりして、ほんとうに驚愕する。だから、最初の時点ではきっちりとお坊様の言う通りに覚えておいた方が良いものなのだ。

 

 まあしかし、その時点で方便、というか、お坊様の冥想指導に沿って教えられる方も勿論いるわけで、そうなってくると、修行には大変役に立つのだが、アビダンマとしての勉強になるのか、と言われるとそれもまた「う~ん」だ。

 

 その点、残念ながらスマナサーラ長老のアビダンマの本は、問題があると言わざるを得ない所がある。前にも書いた通り、一通りわかってしまった後に読むと「やっぱりすげぇなあ」とわかるわけだが、その「一通りわか」るまでを導いてくれる本では、残念ながら、無い。

 

 なぜかというと、アビダンマどころか、まずはテーラワーダに対して馴染みがない日本人に向けて「初めて」と言っていい本で、その為にまずはアビダンマという考え方とはこういうものである、テーラワーダとはこういう考え方をするものである、ということを披歴したものなのであって、だからこれを機にアビダンマに興味を持つことは大変良いことなのだが、この本で本格的にアビダンマを勉強しようとしたら、正直後々問題が起こる、「一字一句そのまま覚えるぞ」などと思ってしまったならば。

 

 なので、あの本でアビダンマを勉強したいと思ったら、「概念としては、まあこういうことなのかなあ」と考えて読むと、大変勉強になる。スマナサーラ長老ならではの、非常に面白い視点もある。

 

 確かまえがきにも書いてなかったか、「アビダンマを使った説法」とかなんとか。


 そういうわけで、テーラワーダにおいて一字一句そのまま覚えるのは経典であって、しかもそれはパーリ語の方が良い。訳だとまた問題が起こる場合がある。それと、注釈書や、権威があると認められている副注釈書、等。注釈書以降は三蔵とは違い、「絶対」とは言い切れないが、教義的には超参考になる。伝統的にも、暗記するならそこら辺までと、あとは習慣的に用いられる祝福の偈など。それ以降は個人の自由だが、まずはそちらを暗記して下さい、それからね、ということになる。

 

 そういうことが分かった上で、またスマナサーラ長老のおっしゃることを見ると「すげぇこと言ってるなあ」とわかるわけだが、スマナサーラ長老の言うこと「だけ」をまた好きに解釈してなにかを言い出すと問題になる。長老は、かなりインパクト強くものを言うことが多い。あまり大きな声では言えないが、「真に受けない方が良いですよ」と言いたくなることも多い。

 

 なぜかというと、何度も言うように人はそれぞれで、皆さんの周りにもいないだろうか、なにごともおおげさだ、という人が。確か現代の心理学でも生まれつきそういうタイプの人はいるということになっていたはずだ。ああいうタイプの人は、否が応にも目立つだろう。

 

 あれと一緒で、真実を伝えるには、その人の頭に入れてしまうには、インパクト強く、オーバーに言わなければならないことがある。

 

 また、これがまったく合わない人がいる。私などがそうだ。厳密に言葉の範囲通りに取ろうとする。実は私は長老の物言いに悩まされた一人だ(笑)。長老は恐らくそれすらわかった上でそうしていると思うが。

 

 中には、こういう物言いすら、真に受けた方が良い人もいるかも知れない。完全な修行タイプだろう。

 

 「真に受けない」と言っても、大事なのは、強弱だ。別に、方向性が間違っているとかいうわけでは、決して無い。決してないのだが、どうも「中道」は忘れられてしまっているかなあ、と言わざるを得ない書き込みをネット上で見かけるので、書いてみた。

 

 なにごとも、バランスは重要だ。中道がバランスのことだけを意味するのか、というとそうではないが、中道というと「中途半端な道」なんて取られてしまうこともある。すべてが真ん中とも限らない。

 


 これで、慈しみの冥想終了。