さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文20

 今日はこの3冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


・仏教事典(仏法篇)(パーリ語-英語-日本語)
 ポー・オー・パユットー著 野中耕一翻訳
 (施本版)


 さて、そろそろ冥想指導をなさるお坊様が他の(流派?の)お坊様のことをけちょんけちょんに言わなければならない理由が、お判りいただけただろうか。

 

 富士山に登るには、別にどこから登ってもいい。しかし、どこから登るかは決めないと、頂上に到達することはできない。

 南壁から登っても北壁から登っても良いが、北壁から登っている場合は、「いや、南壁もいいかも知んない。そっちも行ってみるか」なんて言っていたら、時間の無駄だ。

 

 それなら、北壁を登っている場合は「南壁から登るなんて、バカのやることだ。北壁こそ正義!」と思っていた方が早く登れる。そして頂上まで行った後に、「南壁も良いかもしれない」、そうでなかったら、「南壁からも登れるのか」くらいに思ってくれれば、それだけで良い。実践者は。

 

 指導者となると、そうはいかない。一応知識だけでも富士山の全体像はつかんでいてくれないと困るし、ガイドはどこが危険かを熟知しておかなければならない。

 実はすぐそこに大変ヤバいでかい穴があることを知っているが、余計な恐怖感を与えないために冗談でも言いながら気を引いてそこから遠ざけるとか、あまりに調子に乗っている人間相手だったら「お前死ぬぞ」くらい言うかもしれない。

 

 しかし、指導者とて正自覚者ではないのだから、得意不得意がある。北壁の専門家が南壁の専門家が言う細かいことに対して、しかもそれを教わっている人が言うことにどう対応すべきなのかは、さすがに細かいところまで相手する必要もない。原理くらいわかるが、他の実践者もいる手前、また社会的な関係もあって、発言も方便を含んだりするとかなり厄介なことになる。だからセクショニズムなのだ。

 テーラワーダの国々だけでも考えてほしい。日本にはその中のいろんな国から人が来ているが、法要の時などは合同でやることはあっても、日常的にどの国の人でもいいからオールテーラワーダですね、といって運営したりは、やはり現実的にできない。あまりにそれぞれの背景が違いすぎるからだ。理想は「国境はない」だが、現実的には不可能だ。しかしそうしようと努力することには意味がある。

 


 結果的にだいぶ引っ張ってしまう形になったが、いよいよ四無量心について。

 

 51頁。

 

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悲 不幸な有情を所縁として、憐れむこと。

 

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 う~ん、これしか書いてない。この先にも、

 

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〈悲と愁〉不幸な人、特に自分に関わる人を見る時、悲と類似した憐みの情が生じることがある。これは悲ではなく、愁(soka)という憂受である。悲は他人を憐れんでも善法であるから憂えることはなく、清らかなものである。

 

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 う~ん、その通りなんだが、これでわかるだろうか。分かる人はそれでいいのだが、私は全く納得がいかない。

 

 まあ結局この本では他の無量心についても同じようなものなので、これについてはポー・オー・パユットー長老の本から引用したい。

 

 55頁。

 

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1.慈(Mettā : loving-kindness; friendliness; goodwill): 人に幸せになって欲しいという愛情、良かれと願うことで、すべての人・衆生に対して友情を広げ、役に立ちたいと考える心を持つこと。

 

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 悲と慈と違うが、これならまだわかりやすい。

 

 後者は以前上げたリンクだが、是非こちらをご覧いただきたい。テーラワーダの正統な、大変素晴らしいスダンマ長老の法話だ。

fujisugatavihara.blogspot.com

 

 11の効用。

fujisugatavihara.blogspot.com

 

 この二つのお経は、慈経と同じで、同時に護経としても力を持つ。読んで、理解して、もしできれば唱えてみてほしい。

 

 そういえば、暗記文化のテーラワーダでも、たとえば現代で言えばスマナサーラ長老の本とか、そういうものは暗記しないそうだ。暗記するのはやはり権威のあるもの、テーラワーダで言えば経典、三蔵、そして注釈書、アビダンマッタサンガハを入れれば副注釈書、清浄道論を入れれば副々注釈書か?とか、あとは慣習的に用いられている護経(これは後の長老が作っている)や礼拝の偈、など。個人が勝手に暗記する分には勿論構わないが、勉強として暗記するものとしては、そういう類のものだ。

 

 

 さて、以前マンガラ長老に「mettāとは結局なんですか?」と訊いたら、「friendship」。それだけ(笑)。上のリンクを見ればわかるが、確かにテーラワーダにおける正式な定義だ。

 

 しかしながら、いやいや、だからそれはどういうことなのですか、と訊きたかったのだが、お坊様と過ごしたことのある方ならわかるだろう、なぜか訊けない。

 

 まあそれにも理由がある。

 

 慈悲喜捨と言われるが、例えば「幸せでありますように」が慈、だとか言われる。

 

 アビダンマ的に慈悲喜捨を分けてまず理解してもいいのだが、実践としては、「幸せでありますように」と言ったところで、慈が生まれようが悲が生まれようが喜が生まれようが捨が生まれようが、別に構わない。善行為なんだから、全然構わない。リンク先の話にもあるが、アビダンマでは慈は不瞋、無瞋心所であるが、「幸せでありますように」とやって不貪が生まれたって全然構わない。とゆーか、どちらかというとそんな細かいことを考えているより、ただ何も考えずに「幸せでありますように」とやった方がよっぽど善行為だ。

 

 しかし、私の今までの経験上、やはりちょっと間違った方向に行くこともあるし、それで禅定など目指されてしまうと困ってしまうので、参考までに書いておこうと思う。

 

 何度も言うように、「慈悲の冥想さいこー!これやればみんなハッピー!」と思っている人に、「いや、実はむちゃくちゃ難しいことなんだよ」とか言いたいわけではない。また、実践者にはあまり関係がない話、とも言える。しかし、指導者には絶対に必要だ。何が危険かは、はっきりと知っておいてほしい。

 

 因みに慈悲喜捨にも人によって得意不得意がある。だから、例えば「私は「幸せでありますように」とはこういうことだと思います」と誰かが言って、それが喜に当たる話であったとしても、何の問題もない。何の問題もないが、テーラワーダ的に、アビダンマ的に慈の定義とはなんであるか、ということは、きちんとわかっておいてほしい。もうこんなブログをここまで読んでいる方なのだから、そうやって言ってしまって良い人たちばかりだろう。

 

 どうでもいい話だが、このブログが「アビダンマ(略)」と題してから、アクセスががくんっと減った(笑)。

 

 実はこれは意図していることでもある。あまりいい加減な興味で読まれたくない話だからだ。アビダンマというのは、いきなりそれから始めてもさっぱり意味が分からない。この際はっきり言ってしまうが、スマナサーラ長老の本を読んでも、アビダンマは理解できない。あれは、「私だってアビダンマくらい知ってますよ」と社会に示す必要があったから書いた(説法した)だけの話であって、興味のある人があれを読んだからといって、アビダンマが理解できるわけではない。理解できるわけではないのだが、ある程度分かってみてからまた読み返してみると、さすがのことを言っている。当たり前だが、長老だってアビダンマを理解している、ということがよくわかる。ま、その程度の本だ。教科書としては、使い物にならない。もともとそういう意図で書かれているものではないのだから。

 

 また、これは英語でも同じなのではないかと思うのだが(恐らくあったとしてもビルマ語だけなのではないか)、世の中にある現代語のアビダンマの解説で、我々がわかるようなものがあるのだろうか。お坊様ならパーリ語がわかるのだから、初めからパーリ語でやってしまえばいい。パーリ語にはアビダンマに関しても書籍(というかhttps://tipitaka.org/romn/だけでもわんさかある)が豊富だ。

 

 また、富士スガタ冥想センター(旧富士スガタ精舎)でもそうだが、お坊様が説法なさる時にシンハラ語の本を参考になさる時がある。しかし、その本を我々在家が読んだところで、意味は結局わからない気がする。お坊様がそれを読んだ上で解説してくれるから、はじめてそこで理解できるのだ。

 

 スリランカの三蔵には、シンハラ語の現代語訳が付いている。権威あるお坊様方の仕事であるが(ニャーナーランカーラ長老の師匠が中心になってやったものだ)、冗談で、「パーリ語の方がわかりやすいですね」と言ったりするらしい。結局、それだけ能力のあるお坊様方が訳したところで、専門家の解説なしにはなんのこっちゃわからない、というわけだ。

 

 だから、アビダンマに関してもよくわからないもの、とか、ただぐちゃぐちゃ言ってるだけ、とか言われてしまう。そらしょうがない。巷にある解説書など、そう思っている人が書いているものだらけだ。当然のことながら、アビダンマだって師匠から習わないと意味が分からない。

 

 そういえばコーサッラ長老から聞いた話だが、ミャンマーではアビダンマが得意な在家がいるらしく、その在家がお坊様にもアビダンマを教えたりするらしい。しかしその時は在家が下に座り、お坊様は高い所に座って、教えるのだそうだ。


 というか、そもそも、今まででは日本でアビダンマが普及されるには、時期が早すぎた。天界の話とか、宗教的な視点が多すぎる。せっかくスマナサーラ長老が「仏教は宗教ではない、科学です」と言って布教しているのに(勿論「科学」と言っていい部分も多々ある。しかしそれ以上に、宗教的な視点からみたテーラワーダは魅力的すぎる)、せっかく日本人の中で盛り上がってきた信が、アビダンマの話で下がってしまっては元も子もない。因みにアビダンマッタサンガハではそこまでではないが、それ以降になると、完全に輪廻転生について信じていないともうまったく話についていけなくなる。そんな人たちが「アビダンマはどうこう」とか文句を言っていても勿論まったく構わないが、テーラワーダ仏教徒がその文句を鵜呑みにするのはどうだろう。当然のこと、スマナサーラ長老もそういうことを踏まえて方便を使っていることはお忘れなく。

 

 

 そういえば(が多いが(笑))、昨日独覚仏陀の話が出た。

 

 スダンマ長老の口ぶりから察するに、どうも大阿羅漢、無碍解を持つお坊様というのは今もいらっしゃるようだ。

 

 そして、これこそ私が勝手に思い込んでいるだけだが、独覚仏陀並みの能力を持つお坊様も、いらっしゃると思っている。教義的に、お釈迦様が生まれた日に最後の独覚仏陀が亡くなったことになっているが、そういった能力を持つ方がその後生まれない、という教義は聞いたことがない。私が聞いたことがないだけだが。

 

 ダンマーローカ長老が先頭に立って行われた、GABS 2018 JAPAN。いつものごとく、牛久大仏を見学される、(世界各国の)スリランカのお坊様方。

 

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