さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文6

 相変わらずこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会

 

・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 27頁。

 先日、

「まあ眼識に眼福だといって楽倶がないのはわからないでもないが、鼻識とか舌識に快いものは楽倶といっても良い気がするのだが、あくまで楽倶は身識のみ、だ。」

 と書いたが、いきなり答えが出てくる(笑)。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

〈八つの識が捨倶となる理由〉八つの捨倶眼識などの所縁は、色・声・香・味であって、28色中の大種依止色であり、所依も基色も眼・耳・鼻・舌の大種依止色である。眼識などが生じるのは、色所縁などの依止色と眼基などの依止色とが衝突するためである。この依止色どうしの衝突は、綿だまが互いにぶつかるように衝撃が柔らかいので、好所縁や不好所縁の味が明瞭とならない。故に、所縁の味をはっきり感受する苦・楽受と相応することができず、捨受のみと相応するとされるのである。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 うんうん、なるほど。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 ここで書いたように、アビダンマ(ッタサンガハ)は三回やれ、と言われる。その理由がここで如実にわかる。

 前にも書いた通り、アビダンマッタサンガハ自体はただ用語の羅列のみで、解説は一切入っていない。この本は注釈書などからわざわざ言葉の意味などを引用して示してくれている、大変親切な本だ。

 しかし、現代人にとっては、あまり親切ではない。このように、まだ出てきてもいない「色」の話を持ち出して、いきなり解説し始める。そもそも、この本を一発で理解する、という前提には立っていないことはまるわかりだ。

 というわけで、色についてまるでわかっていない私がここで適当なことを言っても、後で恥をかくだけだ。色の単元まで待とう。

 てゆーか、このままでいくと、ほんとに三回通りやらないと、理解できない気がする。私としてはネタが無いこともあって三回通りやりたい気持ち満々だが、果たして、よくもわかっていないやつが三回通り感想文を書くなんてものに需要があるのだろうか…

 ちなみに、伝統的には心所をやったら色を先にやる。いや、あれ、路の後だっけ?忘れちゃった(汗)。

 とにかく、アビダンマッタサンガハの順ではないことだけは確かだ。スマナサーラ長老の本は、いきなり色からはじまる。アビダンマでの色の考えをまず初めに何となくでもわかっていてくれないとどうにもアビダンマの話ができないからだ。

 とにもかくにもアビダンマと言うのは、現代の知識とは毛色を異にする。この世界観についてこれないと、何も頭に入ってこない。

 

 というか、もうこの時点でこの感想文もネタ切れのような気がする…。いきなりパタッと更新が切れていたら、「何も出てこなかったんだな」と笑ってやってほしい。


 というわけで、28頁から29頁にかけて、同じ理由でさらっと飛ばしてしまう。

 29頁。

 浄心sobhana-citta。不善と無因を除いた59心または91心が浄心と言われるそうだ。

 善心は、不善心に対しての「善心」なので、区別したい。出世間心を細分すれば91心となる、ということだ。しかし結局、浄心は不善心ではないよ、ということで、不善心より圧倒的に浄心が多いんだよ、とアビダンマは主張したい。


 結局アビダンマ(ッタサンガハ)というのは、色んな方向からお釈迦様の教えを分析して「理に適っている」という確信を高めるためにある、と言ってもいい。その材料となる用語をまず提供している。なので、その用語の範囲がどこからどこまでであるかをきちんと把握しておかないと、後々矛盾をきたす。

 しかもやっかいなことに、これは経典の用語(単語)とは定義が異なっていたりする。五禅支のひとつ、喜pīti。アビダンマでは良いことだが、経典では世間の享楽的な喜び、パリピ的なハッピーにpītiと使ったりする。これがわかっていないと、せっかくの真理も意味の分からないものになってしまう。

 経典と違う、というより、アビダンマが日常会話としてのパーリ語とは定義が違う、と言った方が正確だろう。こちらは日常会話の単語程度に意味の適用範囲が広いと大変混乱した事態になってしまう。だから「比較的」単語の意味の規定範囲は狭い。

 狭いが、そこは名詞的ともいえる日本語とは感覚の違う言語、意味が文脈によって動く動く。テーラワーダが日本人にとって混乱する理由は、聖典語であるパーリ語と日本語の、言語的感覚の違いによるところも大いにあるのかも知れない。日本人はとにかく単語の意味を特定のところに規定したがる。表意文字であることも関係しているのだろうか。

 だから、これからテーラワーダを勉強する時には、皆さんもパーリ語の意味(等)については、どこからどこまでを指すのだろう、という感覚をもって臨むとわかりやすいこと請け合いだ。しかしだからといって、平面的に考えてはいけない。意味が三次元的に飛ぶ時もある(笑)。これは冗談半分、本気半分のアドバイスだ。

 

palidictionary.appspot.com

 私もよく利用するこの辞書だが、単語が足りないことが多いし、意味も足りないことが多い。ここで見る限り、どうも英語でも似たり寄ったりのようだ。ビルマ語など全く読めないが、それでもやはり出てこないことが多い。大辞典、とはやはり行かないのだろうなあ。そもそもそんなものが必要な人には辞書は不要かも知れないし、注釈書等がその役割を果たすのだろう。

 

 注釈書ではないが、南伝大蔵経は、凄まじい。完全に検証したわけではないが、パーリ語とのまるで一対一対応で漢字に訳している。あれはほんとうに凄い。凄いのだが、おかげでもとのパーリ語の単語の意味が分からないとまるで意味が分からない(笑)。漢字の意味的に「ずばっ」というのもあれば、漢字の意味でとってしまうとまったくわからなくなってしまうものもある。

 スダンマ長老に聞いたのだが、パーリ語は師匠に習わないとわからない、と言われた。まあ言語なのだし、教科書や辞書だけではだめ、ということなのかもしれない。現代の外国語だって、ネイティブと会話することなしに完全に習得する、などほぼ不可能だろう。聖典語だし死語だからただ経典を読めれば良いだろう、くらいに私も思っていたのだが、なんとお坊様の中には母国語のようにパーリ語を操る方もいらっしゃるらしい。信saddhāが高い人でないとそもそも出家しようなんて考えないのだから、お釈迦様の言葉を直接体感したいと思えばパーリ語だって母国語にしたいというのは当然の成り行きだから考えてみれば当たり前なのかもしれないが、「母国語のように」という響きにびっくりした。

 

 私にも、まじめに勉強していればそんな日が来るのだろうか。そもそも中学高校と少なくとも6年もやっているはずの英語すらまともにしゃべれないんだけど…