さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文4

 今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会

・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 24頁。

 瞋根心。無行と有行の2つだけ。憂倶のみだ。

 憂倶は、瞋根心だけ。つまり、心が憂domanassa、やな感じがする時は怒りですよ、ということだ。他の心は、身識を除いて、捨倶と喜倶しかない。心がやな感じ=怒り。

 しかしこの怒り、というのは、実は難しい。単純に言うと拒否することで、それで納得できる人はいいのだが、私のように細かい人は、種類というか、バリエーションまで考えてしまう。まあ結局(自分に起こる)怒りについて知り尽くすのは、怒りが滅尽する不還果になる時なのだろう。

 

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〈瞋恚相応心の起る原因〉1.瞋恚の性質を持っていること(本来、瞋恚の性質を持っている人は、容易に腹を立てる。)、2.人柄が軽薄であること(軽薄な人は度々、腹を立てては悲しむ。)、

 

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 1.はわかりやすい。生まれによって、瞋恚の性質が強い人もいる。問題は2.だ。軽薄な人の方が怒りやすいのだろうか?私はどちらかというと深刻、または深刻ぶっている人の方がやたらと怒りやすい気がする。「私は良いことしてるんだ!お前らは何だ!」なんて人、すぐに想像できません?あれは軽薄な人なのだろうか。

 23頁に

 

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捨倶心の起る原因としては、3.人柄が思慮深いこと。

 

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 とある。まあ「思慮深い」人に対して「軽薄」なら、わからなくもない。わからなくもないが、「軽薄」だと、「なんでもいいじゃん~」とか言って、あまり怒らなさそうな気がする。

 しかしこの記述の出典はmaṇisāramañjūsā-ṭīkāと明記されている。tipitaka.orgで調べようかとも思ったが、結局どこかわからない。どうせ分かったところで私のパーリ語能力では「軽薄」なのかどうかは理解できないしさ。

 というわけで、とにかく「思慮深くない人」ということにしておきたい。


 次。痴根心。掉挙(じょうこ)相応と疑相応。

 極愚心なんてネーミング、あまりにも、あまりにも、だとは思いませんか?

 まあ結局テーラワーダとしては、無智だから輪廻する、無智を滅尽しましょうということだから、痴を敵視する気持ちはわかるが、そこまで言わなければならないのだろうか。momūhacitta。だからといって、ほかのネーミングが思いつくか、と言われると「うーん」だが。痴を強調するとなると、超痴?超越痴?超越だと意味変わっちゃうか。

 

 これも後で出てくることだが、心と心所は違うにしてもこの痴(心所)、不善心すべてに関わってくる。こういうことがわかると、スマナサーラ長老が、こういう知識をベースにして、しかし難しい専門用語を用いずに我々にテーラワーダの基礎知識を叩き込んでいることが如実にわかるようになる。私などは専門が芸術だから、こういう鮮やかな腕前を芸術的に、名人芸として見てしまう。正直に言うと、私がなぜテーラワーダが好きか、というと、芸術的だからだ。美しい。だから、美しくないテーラワーダまがいを見せつけられると、なんとも腹が立ってしまう。私の性格は、軽薄だ。うん、これは認めよう(笑)。

 

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極愚心には行が有るとも無いとも言えないから、有行・無行の区別はない。

 

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 うん、これはわかる。もうすでに「極」愚心なのだから、無行だからといって更に強い極愚心、といわれても、なんだかなぁ。確かに、区別したところで、いいことはない気がする。

 

 25頁。

 

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痴根心は、好所縁に直面してもその味をはっきりと受け取ることができないから喜と相応することはない。また、不好所縁に直面しても、その味をはっきりと受け取ることができないから憂と相応することもない。

 

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 なるほど、痴根心は好所縁、不好所縁に接しても反応しにくいわけですな。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

尋性も、そういう傾向だということだ。

 

 以前スダンマ長老に、どの冥想が向いているのか、とお聞きしたところ、その時々の心の状態に合わせて、例えば怒りが出ているなあと感じたら慈悲の冥想をするとか、欲が出ているなあと感じたら不浄隨念をするとか、そういうやり方でも良い、とおっしゃっていた。専門的にサマタを修習しようとする人はそれでは「ちょっと」かも知れないが、我々は別にそれで良い。

 6つの性格に合わせた冥想、業処については、これまただいぶ後、最後の方に出てくる。

 

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極愚心は、所縁を確定しない疑及び散乱する掉挙と相応するから、所縁に対する味を明瞭に感受することができない。例えば、走りながら食べる食物は、坐って食べる時のように味がはっきりしない。このように好所縁・不好所縁に対する二つの味をはっきり受け取ることがない

 

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 なるほど、これもわかりやすい。私も子供の時から落ち着きがない、と言われていた。


 当然だが、疑相応の痴根心は、預流果になると起こらなくなる。預流果で疑がなくなるからだ。疑とは、お釈迦様、またはお釈迦様の教えに対する疑い。預流果になると、完全たる確信に変わる。「お釈迦様の言っていることは間違っていなかった。」なにしろ、お釈迦様の言う、預流果、という最初の聖者の段階、真実に達してしまった、体験してしまったのだから。

 信仰する必要もなくなる、とも言えるが、逆に言えば、信仰を捨てる必要がどこにあるのか、とも言える。そんなにパワフルな真実の力を持つ仏陀に対して、預流果になったからといって信仰を捨てる理由を、私は見いだせない。真実を体験したうえに、その真実を齎したお釈迦様に対して、さらに信仰という力を上乗せして、どこに悪いことがあるというのか。いや、ない。


 これで、不善心は終了。