雨安居明け法要に参加してきました
昨日行われた富士スガタ冥想センターの雨安居明け・カティナ衣法要に参加してきた。
参加されたお坊様は、スリランカから5人、スダンマ長老、アミタサーラ・バンテー、冥想センターで雨安居に入られたチャンダウィマラ長老、そして日本の大乗仏教のお坊様2人。
夕方に、染めたカティナ衣をまずお釈迦様にお供え、その時にスリランカからいらしたお坊様のお一人が説法なさり、スダンマ長老が通訳してくださった。
アルボムッレ・ダンマーランカーラ長老というお坊様で、スダンマ長老のパーリ語とサンスクリット語の先生、ケラニヤ大学の准教授で、アルボムッレという名前からわかるとおり、スマナサーラ長老と同じ町の出身だ。
その大意をお伝えしたい。
カティナの法要ともなればいつも雨安居、カティナ衣の意味の法話があるが、これについてはスガタ冥想センターの施本に詳しいのでそちらを参照いただきたい。
テーラワーダ、仏法では三本の柱がある。pariyattiとpaṭipatti、paṭivedhaだ。
pariyattiは経典を勉強すること、法話を聴くこと。paṭipattiは実践、冥想のことだ。paṭivedhaは預流果、一来果、不還果、阿羅漢果のこと、その果を得ること。
日本ではとかく冥想ばかりに興味が向き、法話を聴くことにはあまり興味を持たれないが、冥想をしていて間違った方向に行ってしまったらどうするのか。これは法話を聴かないとわからない。
三つのうちの一つがpaṭipattiなので当然冥想が重要であることは間違いない。しかしそれだけではお釈迦様がおっしゃる仏法を実践しているとは言い難い。pariyatti教法を勉強しpaṭipattiその通りに実践してpaṭivedhaを得る。
これがお釈迦様が望まれたことだ。
スダンマ長老はいつも言う
スダンマ長老はいつもおっしゃる。日本人は冥想ばかりに興味があって、法話をしようと思っても「いいから冥想を」と言う。冥想「だけ」では先に進まないし、なにしろ仏教を実践していることにはならない、と。
私はこれは仕方がないかなあ、とも思う。
sakuragi-theravada.hatenablog.jp
ここにも書いたが、日本語でテーラワーダの教義が書かれているものは、個人的には皆無だと思っているし、そうだと思われているものにも多分に方便が含まれていて、いや、後でわかってみると「そういう意味なのか」ともわかるのだが、その方便にとらわれてしまうと、前に進まなくなってしまう。
かなり以前から気になっていた。なぜ仏教協会のページにある唯一のウィセッタ長老の法話が「丸太のたとえ」なのか、と。
私のイメージでは、丸太のたとえは、必要な時には必要だが、必要なくなった時には執着なく捨てなさい、ということになっている。そして、丸太が必要な時は、人によってまったく違う。
また、スマナサーラ長老が、どこで話したのか、またはどこで書いてあったのかはまったく忘れてしまったが、確か6歳くらいの子供に「あんたは嘘つきだと言われる」という話があった。
当時私は「何を言っているのか」と思ったが、今ならわかる。
ワンギーサ長老の話
スダンマ長老から聞いた話だ。
経典に出てくるワンギーサ長老は何人もいるが、そのうちのお一人。
この方は出家する前、人の頭蓋骨をたたいて、その人が死後どこに行ったのかがわかる人だった。で、この人がある亡くなった阿羅漢の方の頭蓋骨をたたいてみると、その人が死後どこに行ったのかわからない。
まずここで大事なことは、このワンギーサ長老(が在家の時)、いい加減なことをしていたわけではなく、きっちりとしたそういう能力があった、ということだ。なにしろ阿羅漢が死後どこに行ったのかわからない、と言い当てたのだから。
まあでも本人にとってはまったく意味がわからないので、お釈迦様に訊いた。「この人はどこに行ったのですか」と。
お釈迦様は、「では私の下で修業しなさい。そしたら教えてあげます。」。
彼は「わかりました。」と出家した。
で、オチは、阿羅漢果になりました、ということで、ワンギーサ長老も阿羅漢果を得たのだからその頭蓋骨の阿羅漢の方もどこに行ったのかはっかり分かった、ということだ。
この話のお釈迦様の発言は嘘とは言えないし、実際どこに行ったかも教え(体験させ)ている。
ここでのポイントは、まずお釈迦様もいきなり答えを言わない、ということだ。
スダンマ長老も言う。「言ってもわからない時は教えない」。ここは先ほどの私の記事のリンクにも書いてある通りだが、人はなかなか自分で体験しないと理解できない。いきなり答えを言われても身体の中に入らない。場合によっては「そんなバカな」となってしまって逆効果だ。
もう一つ。ではお釈迦様の教えは「頭蓋骨をたたいてその人が死後どこへ行ったのかを伝える教え」となるだろうか。いや、ならない。これはこのワンギーサ長老(が在家の時)を導くために言った、教えともいえるし、方便ともいえる。
しかし、これをではワンギーサ長老が他の人に「お釈迦様はすばらしい。なんと頭蓋骨をたたいてその人が死後どこへ行ったのかを完璧に教えてくれる」と言ってしまったら、どうだろう。
はっきり言って他のほとんどの人には何の関係もない話だ。
お釈迦様は別に頭蓋骨をたたかなくてもわかる。興味が向けば瞬時にわかる。そういう人をどうやって導くべきかも神通でわかる。だからといって、そこだけをクローズアップしてはもったいない、とは皆さんも思わないだろうか。
日本人に対して興味が向くように、スマナサーラ長老だって方便を使う。その方便は受ける人によって違うし、場合によっては同じことを言われたとしても受け取り方が違う。
経典の中に、ある王様が目の見えない人たちを大勢集め象を触らせ、その人たちに「では象はどういうものか」と議論させる、という話がある。
人によって言うことが違う。鼻だけを触った人は鼻だけの印象を語るし尻尾だけを触った人は尻尾だけの印象を語る。背に乗った人は背の感触だけを伝えるし、では議論させてみると「象とは一体何なんだ」とケンカになって大騒ぎ。それを王様が見て笑っている、という話だ。
どれも間違いではない。間違いではないが、残念ながら全体が見えているわけではない。全体が見えていれば「どれも正解だねぃ。なにもケンカすることないのに」となるが、本人たちにはわからないし、皆いたって大まじめだ。
これが仏教の難しいところだ。