さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アーユルヴェーダとの関係

 アーユルヴェーダでは、相手の性質を見て、薬なり対処法を処方する。漢方もそうだ。

 西洋医学では、万人に適用できるように、薬も有効成分を重視する。

 

 どちらが良い、どちらが悪い、ということではない。一般に西洋医学の恩恵を受けている我々は、どれだけ西洋医学のおかげで健康な生活が送れているかよく知っている。

 

 しかし、アーユルヴェーダでは、ある人には薬になるものも、正常な人にはまったく影響がないものもあれば、毒になってしまうものもある。健康な人には毒になってしまうことがあるのは西洋医学も一緒だ。

 これが、テーラワーダでも適用される。カウンセリングなどされている方はよくご存じではないだろうか。相手によって、たとえ同じことを伝えるとしても言い方は変えるし、アドバイスもまったく変わる。

 どうも日本のテーラワーダ界隈では、これが理解されていないような気がする。まあ仕方がないといえば仕方がないかも知れない。これだけテーラワーダが日本に浸透したのはスマナサーラ長老が活躍されてからだから、まだほんの十年くらいだ。


 まず、文化的背景が違う。

 実は、スガタ精舎でお坊様の話を聴いていても、お坊様が「なぜこれがわからないんだ?」という顔をされる時がある。私からすると、「なぜその言い方で私がわかるんだ?」だが、しばらく経ってからその意味を理解することがある。

 文化、習慣というのは、なかなか説明しづらいものだ。

 今は大学などがあるのでわからないが、伝統的にアーユルヴェーダは、サンスクリットの本を暗記し、家に代々伝わる秘術をそれぞれが持っている。インド文化では夏休みなどに師匠の家に一か月とか滞在して、ともに生活をする。

 西洋化された現代だと、なにごとも座学をしてから実地だが、アーユルヴェーダは座学と同時にいきなり臨床だ。これなどは実にテーラワーダのやり方と同じだ。西洋だって、例えばヨーロッパでは、運転免許の取得のためにいきなり公道に出す。日本では教習所内のコースが走れてから仮免許だが、ヨーロッパでは「公道もまともに走れないやつに免許なんて出せるか」だ。だからドイツでは年に数回必ずアウトバーンで死亡事故が起こるが、誰も気にしない。

 

 rūpaは地水火風と言われても、日本では占いや魔術の知識のある人でないとほぼわからないだろう。しかしインド文化では、「あ、地水火風ね」とすぐわかる。それを説明してよ、といっても、なかなか難しいのかも知れない。

 いやいや、それでも説明してよ、わかんないじゃん、と私などは思うのだが、考えてみれば日本人でも、では「お辞儀」について外人に説明せよ、となったらどうだろうか。論文一つ、本一冊書くのもいいが、普通に考えても、恐らく日本人一人一人によって説明が変わるだろう。しかし、どれも恐らく間違いではない。

 外国人が、そうとう日本に詳しい人でも、その人のお辞儀の説明には我々日本人は何か違和感を感じてしまうだろう。小泉八雲くらいになると違うかもしれないが、これが語法の違いだ。母国語並みに外国語がしゃべれても、最終的に何かが違和感がある、あれといっしょで、テーラワーダをよく知らない人がテーラワーダについて語っていても、なにかおかしい、と私が感じてしまう理由だ。


 さてスマナサーラ長老は、ここら辺を極力排除して、日本でテーラワーダを布教してきた。しかし、ネットで検索してみるにせよ、それもそろそろ限界のような気がする。


 ここらで、スマナサーラ長老の正体をバラそうと思う。

 スマナサーラ長老は、魔術師だ。それも「稀代の」魔術師だ。

 

 現代の教科書で数学家と紹介されるピタゴラスは、数秘術家で宗教家、魔術師だった。前世を記憶していた話は有名だ。

 

 私がなぜテーラワーダに興味を持ったかと言うと、実は霊障に悩まされていたからだ。いや、これはだいぶ後から知ったことだが。

 名古屋の法話会での話だ。子供に虐待をしてしまう親戚を見てられない、という質問で、その方がいる時であればなんとかして子供を守ってもいいが、「一回だけだぞ」と子供に言って、という話があった。

 この「一回だけだ」という言葉が妙に印象に残っていた。それでだいぶ経ってから気が付いた。その後、しばらく霊障が楽になっていた。

 

 私の一家は親戚一同含め〇う〇がっ〇いだ。大乗仏教の宗派でも霊の存在を認めないところがあるように、そ〇か〇っか〇は、霊がどうのこうのとは言わない宗教だ。その関係で、それまで霊能力とかスピリチュアルとはまったく縁のない生活をしていた。そんなのに興味を持ちだしたのは、実はテーラワーダを始めてからだ。

 なぜか。スマナサーラ長老がヒントを次々に出してきたからだ。スダンマ長老も、そういった類の話をする。ウィセッタ長老にもいろいろ教えていただいた。

 

 ここで誤解しないでいただきたいのだが、私が思うに、スマナサーラ長老は恐らく「見えない」。なぜかというと、見えるとすれば、いわゆる「さぐり」はないはずだからだ。「さぐり」なく、突然答えを言うはずだ。

 スダンマ長老は、そういった素養が無いように見受けられる。こういった能力は風土にも影響を受けるので、日本のネイティブではない、という要素もあるのかも知れないが、だから私がスダンマ長老の弟子だからと言って、こういうことを師匠から教えてもらったわけではない、ということは今のうちにお断りしておきたい。

 

 神社の神職の方で「見える」人は、実はごく少数らしい。ほとんどの人は見えないが、しかし日本人ならお祓いの力をなんとなく信じているし、実際、力がある。なぜかというと、何千年続いている(正確には「とされる」)伝統儀式を大事にし、それを連綿と伝え今も絶やさず続けているからだ。その力によって、なんらかの力を得ている。

 仏教も同じだ。大乗仏教のお寺のお祓いでも、力を感じる方はいるだろう。同じ原理だ。もともと日本の神社とお寺は同じところにあった。

 テーラワーダでも、伝統儀式を続けることによって得られる力は確実にある。信、saddhāの力、早い話が信仰、宗教心だ。そういう意味でも、お坊様の読経、祝福を受けることには意味がある。日本の神社、お寺でも、あまり宗教は関係ないだろう。中には「ああいうところでお祓いを受けてはいけない」、ひどいところでは「ああいうところに行ってはいけない」とまで言う偏屈なところもあるが。

 

 で、わかっていただけただろうか。「一回だけ」の意味が。祓ってもらっていたのだ。

 

 私の望みはただ一つ。ただ、スマナサーラ長老に楽になってもらいたいのだ。問題を起こす在家をかかえ、孤軍奮闘なさっている。日本人が受け入れやすいように、宗教色を極力排除し、ここまで教義の基礎を我々に叩き込むことに成功した。

 しかし、もういいだろう。大乗仏教の学者がテーラワーダについてとんちんかんなことを言うのはそういった素養がないからだし、そうでなければ、スマナサーラ長老が言うことの焼き直しだ。まったくおもしろくない。

 

 お釈迦様は、比丘たちに「旅をせよ。二人として同じ道を歩んではならない」とおっしゃった。師匠のコピーになってどうすんだ、ということだ。ちなみにお釈迦様のコピーであれば大変ありがたいが、生命には、無理だ。


 話を戻そう。

 いやいやいやいや、そんなことはないだろう、テーラワーダとスピリチュアルは関係ない、と皆さん思うだろう。なので、ここで証拠を出そう。

 

 何日間かの冥想会に行って家に帰ると、ご近所さんが荒れていた、という経験をお持ちではないか。あれは、強烈に明るいものを突然見ると「目ガー、目ガー」となる現象と同じだ。

 yānīdha bhūtāni samāgatāni、bhūtaというのは、幽霊のことだ。「神々」とは変な訳だな、と思っていた。

 護経、parittaというのは、見えない生命から護る、から護経、だ。正確に言うとお釈迦様が直接「護経」と言ったわけではないが、ナーガセーナ尊者がまず護経を規定している。それはsuttaの中から出ているので、そのお経自体はお釈迦様の言葉で間違いない。護経の種類については国によって変わったりするが、スリランカ式での終夜読経の最後(といってもこれより後にも護経はあるが、いわゆるセットでの護経の最後)のアーターナーティヤ経は、修行する比丘、比丘尼、在家男性、在家女性は、見えない生命から護られるために、まず五戒を守り、そしてこのお経を覚え、使い、自分のものにしなさい、とお釈迦様が間違いなくおっしゃっている。

 伝統的な、いわゆるsuttaではない護経もたくさんある。


 「魔術」と聞いて、いかがわしい思いを抱く方もいるかも知れない。二十世紀最大の魔術師、または詐欺師と謳われたアレイスター・クロウリーが敬愛した、師匠ともいえる人は、実はミャンマーで出家なさっている。その後彼が教えを受けているので、知らない人がほとんどだろうが、近代魔術にはサマタが入っている。


 アビダンマ、というと、どうも日本では、対機説法ではない、何か絶対的な、科学的な知識の集成、みたいなイメージが持たれがちだが、とんでもない、あれは占いとかスピリチュアルの知識、素養がないと、まったくなにを言っているかわからない。

 その上で、スマナサーラ長老がたたきこんでくれた、テーラワーダの小学校程度の基礎知識がないと、まったくちんぷんかんぷんだ。

 いや、スダンマ長老は佛道実践会で断言されていた。「まだ幼稚園も卒業してないんですからね」と。実はスマナサーラ長老にも言われたことがある。「そんなことは幼稚園レベルだ」。

 私は早く小学校に登りたい(笑)。


 テーラワーダでは、「テーラワーダは科学的だ」とよく言う。その通りだ。私には現代の科学の方がよっぽど宗教的に見えることがあるが、まあ世間で言ういわゆる「科学的」であることも確かだ。

 しかし、cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi、この中のvijjā udapādi、これがいわゆる「科学」だ。他に四種類もある。

 

 「いやいや占いだと?お釈迦様は禁止されているんじゃないのか?」。その通りだ。実は悪魔祓いについても、畜生の道、といって「低俗だ」とおっしゃっている。

 しかし、星占いに関しては別だ。律には、一通り勉強しておきなさい、と書かれている。今でも本国ではveda聖典を勉強する。

 なぜか。暦そのものだからだ。当時も今も、暦がわからないと農業ができない。そういうアドバイスもできずに、出家として尊敬されることはできなかった。そもそも他の宗教の出家はそんなことはできて当たり前だった。仏教の出家だけそれができないのですかそうですかはいさようなら、となってしまう。日本の大乗仏教にも、宿曜がある。あれはインド占星術だ。

 そもそも天文学と言ったら、占星術だった。物理的(?)な天文研究が切り離されたのは人類史上、つい最近のことだ。

 スリランカ人の子供が生まれると、最初に文字を書く日はいつが良いとか、名前はなにが良いとか、お寺に聞きに来るし祝福もするので、スダンマ長老も一通りは身に着けている。が、「専門家ではありません」とおっしゃる。まあアビダンマについても「嫌いだ」とか言いながら実は詳しいので、ほんとにそうかどうかは怪しいが(笑)。本当の専門家、というのは実際もっととんでもない、のかも知れない。


 スマナサーラ長老が、「スピリチュアルには意味がない」とおっしゃるのを聞いたことがある人もいるかも知れない。早い段階でスピリチュアルと混ぜたくなかったからだ。世の中のスピリチュアルで言われる事柄も、別に間違ってはいない、と私は思う(まあこれも9割正しくて1割どうかなあ、とは思うが)。しかし、用語が違う。テーラワーダにおいてはこのことだ、と思っても、それに変換できるかどうかは、まずテーラワーダの基礎知識がないとできない。そのために、アビダンマッタサンガハで、とりあえず用語の名前だけでも覚えようよ、という話だ。アビダンマッタサンガハのパーリ語の本文は実はただの用語の羅列、目次みたいなもので、その解説は一切入っていない。

 

 そういった点、対機説法である「経」の方が、現代の科学的、というニーズにマッチしているような気がするのだが、この「言われる人によって言われ方、言われる内容が違う」ということを理解しておかないと、なんともややこしい話になってしまうので、そこだけ理解すれば、「経」の勉強の方が現代人には楽な気がする。


 クロウリーは、魔術の定義を、「意志に応じて変化を起こす科学にして技芸である」と言った。決意、誓願によって神通(禅定を伴おうが伴わまいが)を起こすことと、何が違おうか。

 これが、私が、スマナサーラ長老が稀代の魔術師だ、と断言する所以だ。考えてもみてほしい、この国で、小乗仏教と言われ存在は知られていたが、それをこの情報社会の中にあってここまでの地位にしてしまったのは、たった一人の、学者崩れの坊さんが成し遂げてしまった、偉大なる意志の技芸と言わずしてなんと言おう。


 スマナサーラ長老には、そろそろ正体を隠さずに、力いっぱいあらん限りの能力で、リミッターを外して活躍していただきたい。

 

 そのために、もう一つだけ、証拠を出そう。スマナサーラ長老は、「スピリチュアルには意味がない」と言いながら、その実見えない生命だとか意志の力だとか、そんな話をほんとーーーに詳しく詳しく説明しているのをご存じだろうか。まずこういう時は「そんなことに意味はありませんけどね」とか、否定的な言葉を必ず近くに入れる。

 実はこれは清浄道論には既にある手法だ。それを気にしてもう一度読んでみてほしい。必ず新しい発見があるはずだ。

 
 タロットにおいて、私は「魔術師」だ。これは「詐欺師」ともとれる。さて、真相やいかに。

 ちなみに〈物語〉シリーズで一番私が好きなキャラクターは、貝木泥舟だ。