さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

性格、性carita

 なぜかアビダンマ(ッタサンガハ)の話題になってしまう。

 以前にも書いたが、スダンマ長老はアビダンマを教えてはくれない。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 法話の中で参考になるので折に触れておっしゃることはあるが、「だからアビダンマは嫌いなんだ」という言葉を何度か聞いている。

 

 アビダンマといえば「論」の国、ミャンマーだ。アビダンマを用いての説法の仕方は、スリランカのそれとは雰囲気からしてまったく違う。

 スリランカのお坊様だって一通りはアビダンマを勉強している。しかしあのミャンマーのやり方を前にしてしまうと、「我々は専門ではない」となってしまうのかも知れない。もちろんスリランカにもアビダンマが専門のお坊様もいるが、私が聞いた話ではそのお坊様はミャンマーに留学しているらしい。


 さて、私はアビダンマを名古屋でコーサッラ長老から習った。しかし、わからない。まるでわからない。

 私は一度キレたことがある。「今まで一度も出てきたことのない用語を使って説明されたって、我々にわかるわけがない」と。

 そうしたらコーサッラ長老は穏やかにこうおっしゃった。「それはアビダンマ(ッタサンガハ)の教え方が悪いんです。アビダンマは三回やれ、と言われます。三回やればわかるようになります」。

 どうも現代の勉強の仕方とは大きく違うようだ。

 

 また、こうも言われた。「伝統的なやり方では、とにかく全部丸暗記。アビダンマッタサンガハ、丸暗記。」

 丸暗記などとは前時代的な、と正直思った。日本でも詰め込み教育は良くない、と言われて久しい。しかし後にスダンマ長老の所に行っても、こう言われた。「テーラワーダは丸暗記。まず丸暗記。話はそれから。」

 うわ。これはどうやら丸暗記しかないようだ、と思ってお経なども暗記を始めたのはそれからだいぶ経ってからのことだ。

 今でも日常読誦経典すらおぼつかないが、確かに説法で慈経の一節などが出てくると、「おお、あそこだ」とすぐに頭の中に浮かんできて、体の中に入ってきやすい。暇なときに心の中で唱えてみてもなんだか心が穏やかになるのを感じる。まだまだ完全丸暗記でなくても、それなりの効果はあるようだ。

 

 アビダンマ三回の話に戻ろう。コーサッラ長老がそうまでおっしゃるのだから、当然名古屋でも三回やってくれるのだろうと期待していた。しかし、結局名古屋で教えていただけたのは一回だけで、長老はその後ミャンマーに行き、還俗されてしまった。

 

 おい(笑)。

 

 コーサッラ長老が還俗されて、その後名古屋でアビダンマの勉強会が開かれたときに何度かお邪魔したが、変わったのは服と髪だけで、安心した。しかしその頃には私はスガタ精舎に通っていたので、スダンマ長老がいらっしゃらない時に数回行けただけだった。結局一回と、ちょっと。

ameblo.jp ちなみに西澤卓美先生は今もアビダンマを教えていらっしゃるようで、お近くの方はぜひ参加してみてはいかがだろうか。

 

 さてさてその一回とちょっとの間、やはりわからない。まったくわからない。あまりにわからないので参加している時には私ばかりしつこく質問していたが、それでもわからない。

 後で参加されていた方に聞いた。コーサッラ長老は単元が終わるごとに「いいですか?なにか質問ありますか?」と聞いていたが、大概誰も質問しなかった。私は何もわかっていなかったのに、ほかの人たちはなにも問題がないのだろうか、と内心冷や汗をかいていた。しかし参加されていた(その)人は、「実はどこがわからないのかもわかっていなかった。さくらぎさんが質問してくれて、おかげでよくわかった」と言っていた。社交辞令ではあるだろうが、なんだかひどく救われた気がしたのをよく覚えている。

 しかしそれでもまだわからないものはわからない。しょうがないのでその時に買ったウェープッラ長老のアビダンマッタサンガハ・南方仏教哲学教義概説を読んだが、残念ながら日本語がよくわからない。う~ん、私は日本人だったはずだが、日本語が母語のはずだが、ちんぷんかんぷんだ。

 コーサッラ長老が作ったアビダンマ基礎講座用テキストは、基本箇条書きしかない。「はじめに」に「最終的には本だけで自習し理解できるようなものを目指したい」とあったので大変期待していたのだが、残念ながらその後そういった情報には触れていない。

 仕方がない。今日は気合を入れて、ウェープッラ長老の本を読んでみようではないか。前と違って、少しはわかるようになっているかも知れない。

carita性格、性

 ここからが本題だ。

 テーラワーダでは生まれつきの性格を6つに分ける。これはスマナサーラ長老のアビダンマの本に実に詳しく書いてあるのでぜひ参照していただきたいのだが、そこには方便も含まれているので、金科玉条のごとく「スマナサーラ長老はこう言った」としがみつくのはやめていただきたい。

 さてその6つとは、貪性、瞋性、痴性、信性、覚性、尋性だ。

 貪性は欲の方向に向きやすく、瞋性は怒りの方向に、痴性は無知の方向に。ここまではわかりやすい。

 信性は、傾向としては貪性で人を信じやすい、覚性は傾向は瞋性で、智慧は出やすいが批判的、尋性は傾向は痴性で考え事ばかり。

 どれが良いか悪いかではなく、人(恐らくほかの生命も)には生まれつきこういった性格がありますよ、ということだ。そして、これは業処(ごっしょ)、40のサマタ冥想を授けるkammaṭṭhāna acchariya業処師、冥想指導のプロにとって大事なものだ。どのサマタを授けるのか見極めなければならない。

 

 最近の話だ。富士スガタ冥想センターにいた時、シンハラ語の話の中でkammaṭṭhāna acchariyaという言葉が聞こえたので後で聞いてみたら、やはり冥想指導のプロであるという、もう一人(というかまだまだ何人もいらっしゃるだろう。お坊様は同じ名前の方が多い)の年配のスダンマ長老というお坊様がいらした時に聞いてみた。

 

 長老「あなたは4つの冥想(お守りの冥想。仏隨念、慈隨念、不浄隨念、死隨念)の他になにをやっていますか?」

 私「アナパナです。」

 長老「ではそれでいいです。」

 

 普通この答えだと「いい加減に答えたんだろう」と思うだろう。しかしこの時は、このもう一人のスダンマ長老はスリランカから来たばかりの日で、しかも法要を取り仕切り、その後日本人に冥想指導をされ、そして一度部屋に帰られたのだがまたいらっしゃってもう一度冥想指導をされた。こういう時にお坊様はいい加減なことは言わない。いくらお坊様といえども、普段はめんどくさいからいい加減に答える、ということはあるが(笑)、こういう時は絶対にいい加減なことは言わない。


 スダンマ長老と大変仲の良いお坊様で、ウィバーイ長老というお坊様がいらっしゃる。冥想に長けたお坊様で、いろんな所で修行されたそうだ。そのウィバーイ長老に、我々夫婦だけで冥想指導をいただける機会があった。

 その時に、ウィバーイ長老が何の前触れもなく(お坊様はいつも大概そうだ)「あなたはスリランカでも数人いるかいないかというくらい深く考える性質だ」と笑いながらおっしゃった。

 

 やはりそうだ。昔からよく「さくらぎさんは細かい」と言われるが、そんなの私が一番よくわかっている。そんなのはやめたい。そんな自分の性格が嫌でたまらないのだが、どうやら無理そうだ。

 vitakka尋で、副がbuddhi覚だ。どうでもいいことを考えまくらないと答えが出ず、納得できないと頑として動けない。私は昔から人より理解が極端に遅く、なんとか必死に頭を使って人の言うことを理解しようとしてきたが、残念ながらこれは一生続きそうだ(涙)。