さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文27

 今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 まだまだ数字が続く。

 

 もう嫌だよぅ…(涙)。

 

 私はアビダンマが好きだが、正直ここは頭に入ってこない。

 

 この相応の仕方と、このあとにある摂(おさ)め方については、西澤先生の本の18頁から21頁にわかりやすく表にしてくれてある。

 

 というか、結局、西澤先生の本の最後にあるチャートや、いつもの本の68、69頁にある表を随時見て確認していけばいいわけだが、硬派な人にそれは許されない。その場で突然言われたらなにも見ずにすぐに答える、それが本物のアビダンミストだ。

 

 私は別にそんな人にはならなくていいので、いちいち表を見る。てゆーか、そんなことも繰り返していくうちに、表を見ずにもなんとなく覚えてくる。しかしこうして数字で攻められると、なんとも…


 57頁。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

或る時 悲・喜は有情施設を所縁とする或る時に相応し、仏陀などを所縁とする或る時には相応しない。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 ん?仏陀は有情(施設)ではない、ということか?それとも、仏陀はもう涅槃に入られているから有情ではない、ということか?

 

 確か日本では、天皇には基本的人権がない。法律(憲法?)的に人間ではないからだ。そんな話でOK?よくわからない。

 

 まあ解脱に達した仏陀に対して「憐れむ」悲は必要ない。そちらから見れば、我々が不幸だ、ということだ。完全なる幸福を体現している人に向かってかわいそうもなにもない、というのはわかる。

 

 しかし喜はどうなのだろう。それこそ悟りを開いた方に対してそれを喜んでいれば非常に徳が高い気がするのだが。


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

別々 この様に或る時に相応しても、悲・喜が一緒になって相応することはできない。それは別々に相応するのである。例えば、不幸な有情を所縁として悲が起る時には、喜は相応しないし、幸福な有情を所縁として喜が起る時には、悲は相応しないのである。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 だよね?だよね?

 

 「幸福な有情を所縁として喜が起る」のだから、仏陀相手にも、悲は起こらなくても、喜は起こすことができるのではないか?もう生きていないから、ダメなのか?因みに慈悲喜捨は今現在生きている有情(施設)のみ対象だ。実は亡くなってしまっていたがまだ生きていると思っていた、という場合は全然OK。

 


 ちょっと長くなるが、大事な所なのですべて引用する。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

或る人々は言う 害(vihiṃsā)は他人を苦しめる瞋恚であり、悲はその害に対立するものである。また不楽(arati)は他人の栄誉を楽しまない憂であり、喜(muditā)はその不楽を滅するものである。即ちこれらの瞋・憂である害・不楽は、悲・喜の反対であるから、悲・喜は喜受のみに相応して、捨受とは相応しない、と或る人は考えるのである。その人々の説は、悲・喜の業処を修得して、まだ慣れない時及び悲・喜の禅心が起る時には適わしいが、業処を修習して慣れるとあまり注意しなくても業処の勢いがあるので、悲・喜の禅心が生じる前には、或る時には喜受と相応し、或る時には捨受と相応するので、この場合は適わしくない。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 こういう時だ、テーラワーダがこういう言い回しをするのは(注釈書以降。三蔵には無い。というかあり得ないだろう、聖典でそれは)。或る人々は言う、とか、〇〇長老はこう言うが、とか、そうやって、例えば「〇〇長老はこう言うが、それは明らかに間違いだ」と言いながら、そういう意見があることを紹介する。または、そういう事実があることを紹介する。

 

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 ここで言っているのはそういうことだ。普通に取れば、「なるほど、それは間違いなんだ」としか取れない。しかし例えば現代にはその〇〇長老の記録は残っていないのだから、結局残ったのは「(その長老が言ったとその書物が主張する)〇〇という事柄」だけだ。

 

 どうもテーラワーダというのは教義については一つの正統にこだわる傾向があるようで、「これもいいけど、こっちもいいよね」という曖昧な姿勢は受け入れないようだ。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 それはこういう姿勢にも現れている。

 

 だからだと思う。今日本で活動されているテーラワーダのお坊様があまり「伝統、伝統」言わないのは。

 


 あまり信用してもらえないかも知れないが、テーラワーダの国々に共通して、教義はまったく同じだ。ただ一つ、だ。これは間違いない。

 

 しかし、教えを伝える段階で方便が混ざってくるので、以前も書いたようにスリランカでも「あのお坊様とあのお坊様、言うことが違う」という問題が起こるのだが、そのお坊様方は、一度必ずその基礎となるテーラワーダの国々共通の、ただ一つの教え(の概要)を身に着けている。さすがに細かい所となると膨大になるのでそのすべてについて一字一句間違いなく身に着けているのかというと現実問題そうではないが、しかし概要がわかっているので、例えば他のお坊様が方便で言っていることについて耳にしても、「ああ、ではこういう相手がいるからそういうことを言っているのか」ということはすぐにわかる。それが分かった上で、それぞれの行動にうつされている。なぜそんなことが言えるのかというと、私もまだ概要を身に着けたとは言えないが、そんな段階にあっても「ああ」とすぐにわかるからだ。

 

 しかし、現実社会はなかなか困難で、お坊様もそれぞれぎりぎりのところを攻めていたりする。そういうところからもご苦労が偲ばれるわけだが、ではそれを見た時に「ん?どっちにとったらいいんだ?」とわからないことも多い。


 そして、伝統については、それぞれの国の文化的背景が大きく影響してくる。法要のやり方などはその最たるもので、スリランカでも宗派によってけっこう異なるところがある。前にも書いたかもしれないが、だから法要をやる時にはお坊様同士が「あなた、何派?」と訊いて初めて宗派を知るらしい。まあお寺であればそのお寺の(宗派の)やり方に則るに決まっているから問題にもならないが、以前アラナ精舎での法要の時、コーサッラ長老がスマナサーラ長老に訊いていた。「スリランカ式でやりますか?」と。そこでスマナサーラ長老が「はい」と言うので、まあ別に何の問題もなく法要は行われた。

 

 例えば、スリランカでは合掌の仕方は、蓮の花のように、といって日本のようにぴったりと両手は付けない。それについてお坊様が「お釈迦様に蓮の花をお供えするから(その形で合掌)」と法話したとしよう。スリランカ人は「おお、なるほど」と信が高まるかも知れないが、日本人にそれを言うと「え?この(日本の)やり方は間違っているの?」となってしまうかも知れない。

 

 伝統というのは、そういう危うさを秘めていることは確かだ。しかしそれを聴く我々在家は、教義的な話なのか文化的な話なのか、区別がつかない。もちろんお坊様だっていちいちそんなことを事細かに在家に話してはくれない。

 

 そして、テーラワーダの教義的には、どうしても現代の社会とはぶつかるところも、残念ながらある。そこを強調してしまうと、反社会的な教えになってしまうし、お釈迦様はそんなことはまったく言っていない。反社会的なのは、テーラワーダ的ではない。

 

 だから、戒律の専門家であるスダンマ長老も言っていた。「(日本でも頑なに出家の戒律を守ろうとする)ミャンマーのお坊様は大変素晴らしい。しかし現実問題、それでは教えは広まらない。現にクサラダンマ長老は帰られてしまった」と。

 

 出家は、パーティモッカを守るものだ。しかし現実問題、今の日本ではそのすべてを守りながら布教活動することは不可能だ。まず第一に在家の理解がない。在家の理解のある国々では、公共交通機関にもお坊様専用席があったりするが、日本でそれがあり得ないことはみなさん理解していただけるところだろう。


 そして、テーラワーダの伝統を守ろうとすると、それはまずどこの国の伝統か、という問題が起きる。

 

 ここで簡単に「じゃあ新しいものを作ったらいい」とは簡単に言わないでほしい。その伝統だって、教義と文化的背景に則って自然発生的に作り上げられた、大事な宝だ。それを今、この場で、作ることができる自信のある人だけが、そう言っていれば良い。日本の神社を見てみてもわかるだろう。儀式的な意味というのは、即宗教的な意味、そして霊的な意味までも包括する。


 極個人的な意見だが、日本では、テーラワーダとも親和性が高い大乗仏教のやり方や、神社のやり方に則っても別に問題ないと思っている。しかし、教義的にはどうしてもぶつかるところが出てくる。テーラワーダとしては、そこだけはどうしてもゆずれない。

 

 

 スダンマ長老に聞いたのだが、チベット仏教は、テーラワーダとも大乗ともいえない、という。それとは別だが、ベトナムにもそんな教えがあるらしい。長老はティク・ナット・ハンの本で大好きなものがあるという。日本語訳ではないと思うが。私は正直言うと彼(の教え)が好きではないのだが、

youtu.be

 彼がベトナムに帰還した時の映像。これを見ると、やはり本物の仏教者なのだ、と仏に礼拝する姿を見て思った。

 


 西洋では、仏教といえばBuddhism、かなりマニアックな人でないとTheravadaかMahayanaかは気にしない。逆に気にしなさすぎて、日本の怪しい宗教がBuddhismだ、と言って入り込んでいたりするが、それは日本における「仏教」という軽さが、西洋社会での宗教観とまったく相容れないことだからなのかもしれない。

 


 すみません、今日はまったく適当なことを言ってしまいました。申し訳ありません。

 

 一応今日以外は、それなりの責任をもって書いているつもりではあるんですよ。「つもり」では。