さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

無色界、vibhavataṇhā、ākāsakasiṇa虚空遍

  私は一時期、自殺のことしか考えていない頃があった。理由はわからないが、なんかおかしい。別に何がおかしい、というわけではないが全てがおかしい。自分の何かがおかしいのだろうから自分の何かを変えなきゃと思いながら、何を変えるべきなのかもわからず、ただ日々を生きていた。


 テーラワーダに行き着いたのはやはり救いを求めてだった。スマナサーラというとんでもない人物がいるらしい、会えば何か変わるかもしれないと思い、名古屋で開かれた法話会に参加した。


 実際、すさまじい方だった。この人は私の心が読める、と確信した。これだけ大人数の中でなぜ私だけの心が読めるのか、いや、この人はこの大人数をおそらくそうやってさばききっているのだろう、と感じたのはだいぶ後のことだったが。


 これから何をやっていいのかわからなかったので実は一度、無謀にもスマナサーラ長老に出家を願い出たことがある。スマナサーラ長老と面と向かって話したのは後にも先にもこの一度だけだが、この時には「出家する時が来れば出家することになります」という、私としては中途半端な答えをもらっただけだった。


 実はこの時出家を断られたら、在家で成功してお布施しまくって生活しようと考えていたのだが、今思えばその当時の私には危険な考えだったのだろう、それを知恵を使って中途半端な答えで返してくださったスマナサーラ長老には本当に感謝の念に堪えない。その後何度も「このクソジジイが!」とはらわた煮えくり返ったことは内緒だが(笑)。


 さて、そのたった一度面と向かって話をしてくださったときに、印象的だったことがある。スマナサーラ長老が「組織がでかくなったら、一時出家をやりたい」とおっしゃっていた。どういう話の流れかは忘れたが、当時の私としてはひどく意外に感じたのでよく覚えている。もう何年も前の話だ。


 そしてつい先日、いよいよその一時出家会が現実となった。準備の時の写真がマーヤーデーヴィー精舎のfacebookにあがっていた。十戒のスライドをご覧になる後ろ姿のスマナサーラ長老に、「長老の長年の夢が叶ったんだ…」と一人泣いてしまった。


 ちなみに今の私は、テーラワーダの教えのおかげで特に何にも困らなくなった。お金以外には(滂沱)。


 vibhavataṇhā

 さて話は最初に戻る。自殺の話だ。もうテーラワーダを勉強して十年ほどになるだろうか、その中でvibhavataṇhā(ウィバワタンハー)無有愛、非有愛という言葉に出会った。dhammacakkappavattanasuttaṃ初転法輪経、転法輪経にあるkāmataṇhā,、bhavataṇhā,、vibhavataṇhāのあれだ。


 非存在欲、タナトスというのだろうか、断見を伴う死への欲望だと私は思っていたし、一般にはその理解で間違いないと思う。私の持つ自殺への願望はvibhavataṇhāなのだとばかり思っていた。


 しかしある時、我が師匠であるスダンマ長老がおっしゃった、「vibhavataṇhāというのは無色界への欲です」と。


 え!?それでは私のこの気持ちはどうすればいいの??


 それまでvibhavataṇhāというのは自殺衝動のことで、だから私の中にあってもさもありなん、と納得していたのに、それが取り上げられてしまった気分だった。


無色界禅定

 ここからが本題である。まず無色界禅定について説明しておこう。


 無色界禅定は40種類ある色界禅定と違い、禅定は4つあるが方法は一つ、一本の道だけだ。


1.ākāsānañcāyatana空無辺処
2.viññāṇañcāyatana識無辺処
3.ākiñcaññāyatana無処有処
4.nevasaññānāsaññāyatana非想非非想処


 まず、無色界禅定は色界第4禅定(アビダンマでは第5禅定)をマスターしてからでないと入ることができない。


 1.ākāsānañcāyatana空無辺処では、今までの色界禅定は色(しき)に頼っていた、その色の無い空間(無限の空間)を対象にすれば色の無い禅定に達するんじゃね?ということ。


 2.viññāṇañcāyatana識無辺処。いやいや、その色の無い空間を認識しているviññāṇa識も色の世界の範疇から脱してなくね?ということで、その識は色に縛られず無限、無辺であると。


 3.ākiñcaññāyatana無処有処。あいや待たれい、そもそもここまでの1.と2.は色界がある、という前提で「色界が無い」という認識を生んでいたよね、これじゃあまだ色界に依存してんじゃん気持ち悪いよ、ということでなにも無い、と認識する。


 4.nevasaññānāsaññāyatana非想非非想処。3.の「なにも無い」と知覚しているsañña想があってもまずいよね(非想)、その想がない、と想が知覚してもまずいよね(非非想)ということで、非想でもなく非非想でもないところまで、言わば心を止めてしまうようなところまで行くこと。なので原理上これ以上の禅定は無い、ということになる。想が無くなってしまうわけではないが(無くなってしまったらそれはもう(無余)涅槃)ほぼ無いような状態になってしまい、もう禅定のしようがない。しかし禅定から出ると普通に想は復活。だからお釈迦様(当時は菩薩)は「これは解脱ではない」と他の道を探し始めた。


 もともと無色界禅定は、我らがお釈迦様が現れる前から、インドで仙人たちが涅槃、解脱というものがどうやらあるらしいという認識のもと発見していったものなので、なにやら心というものがあって、その停止、滅尽の方向に禅定が発展していった。これだけでもやはりインドというところはとんでもないところだったんだなあと思わざるを得ないが、やはりそういった地盤があったからこそ我らがお釈迦様はその地に出現されたのだろう。


vibhavataṇhāは無色界への欲?

 vibhavataṇhāに話は戻る。


 スダンマ長老から「vibhavataṇhāは無色界への欲」と聞いてしばらくして、思い当たったことがある。


 今は富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)にお布施してしまって手元にないので何巻に書いてあったかは忘れてしまったが、スマナサーラ長老のアビダンマの本を最初に読んだ時、他はほとんどわからずじまいでありながら、なぜか無色界禅定の話は「はあ」と腑に落ちたのだ。「他はよくわからんかったが、これはわかりやすく書いてあるなあ」と。


 (色界)禅定に達することができるとは思ってないし、正直なところ禅定にはあまり興味はない。神通には大いに興味があったりするのだが(一度は空飛んでみたい!)、禅定に達することにあまりモチベーションがわかない、というのが正直なところなのだ。


 ところが、である。無色界禅定には大いに興味がある。というか行きたい。色界禅定に至ってもいないやつが何を言うかと自分でも呆れるのだが、無色界禅定を習得しようとしたらすんげぇ早い気がする。根拠はなにも無い。


ākāsakasiṇa

 さて第1無色界禅定に至るにはkasiṇa遍10をもとに「無」色へと至るわけだが、このkasiṇaから、ākāsa空、虚空のkasiṇaは除外される。第1無色界禅定の名前に同じākāsaが入っていることからもわかるとおり、非常に似ている、というか認識としてどうしても混乱してしまうのだ。日常生活なら区別できないことも無いような気がするが、禅定に至っているような、しかも色界最高位禅定にまで達しているほどの強烈な心の力で認識しているのだから、双神変ができるお釈迦様ならともかくも、その他の人には恐らく相当難しいのか、不可能なのだろう。そんなとこまで行ったことないのでわからんが。


 スダンマ長老に訊いたことがある。「阿羅漢になられた方が遊びで無色界禅定をやることは」と。この時「遊びで」と言うや否やものすごい勢いで「阿羅漢は遊ばない!」ときっぱりかぶせられたことがある。


 ākāsaのkasiṇaについても、「(色は)地水火風が基本だが、ここに空が加わる経典もある」とも言われたことがある。


 他のスリランカのお坊様に、何の前触れもなく「でっかい雲だねぇ(恐らく。シンハラ語だったのでまったくわからないはずだが、この時はなぜかそう思った)」と言われたり、前世が星占い師だった人は空ばかり見ている、とか。


 アビダンマ(スダンマ長老はアビダンマは教えてくれない)では「ākāsaのkasiṇaは経典には無い」と聞いた気がするが、この時「経典には無いんだけどね」と言ってしまったら私にはインパクトに欠けたのかもしれないし、本当にそういう経典があるのかも知れない。


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 先日のこのスマナサーラ長老の経典解説の動画を見ていたら、ākāsaの話が出てきた。1:24:27から。


 普通この話を聞くと「ākāsaはいらないでしょ」となる。しかしここがお坊様のテクニックで、これは「絶対に押すなよ!いいか、絶対にだ!」というフリだ(笑)。でなきゃ結局こんなに詳しくākāsaのkasiṇaの原理を説明したりはしない。


 いや、人によっては本当に絶対にやるべきでないこともあるだろうし、フリに見えて実は本当に「絶対にやるな!」だったりするから判断は自己責任でお願いしたいのだが、今回のこれについては、私にはフリにしか思えなかった。なぜかというと、無色界禅定に入ってしまう危険性が格段に減るからだ。そもそも色界禅定に入ってないけど。


 こうまで言われたら(この動画に関しては別に私のために言ったわけではないだろうが(恐らく。スマナサーラ長老のことだから誰が動画見てるかなんてわかってるような気がしてならない)、vibhavataṇhā気味の人には早いうちにくぎを刺しておく必要があるのだろう)、ākāsaのkasiṇaをやるしかないではないか。道具いらないし。


 というわけで、無色界と、お坊様のテクニックについての話でした。


坊さんをナメるな!

 スマナサーラ長老は勿論、スダンマ長老も、日本にいらしたばかりの頃を知っている東京の方などはちょっと想像しにくいかもしれないが、実にとんでもない方だ。というか私がお会いしたことがあるテーラワーダのお坊様方は、ほぼ皆それぞれにとんでもないものを持っていらっしゃる。一度、お坊様を我々と同じ人間だとは思わないで別のとんでもない生き物だと思って先入観無く見てみることをお勧めする。なにかすごいものが見えること請け合いである。