さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

ラベリングは要るのか要らないのか

 結論から言おう。どっちでも良い。

 

 しかしそれぞれの師匠のやり方に沿って順序などもあるので、それに従ってほしい。そのことについてはこちら

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

とかこちら

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

に書いた。

 

 冥想の師匠は結構過激な言い方で他のやり方を非難することもあるが、それは他の方法に目が向いてしまうと、こちらに集中しなければいけない時期にそれができなくなってしまう、等の理由があってやっていたりする。他にもそれまで慣れていた冥想法を捨てさせなければいけない、ということも。

 

 これは五力、信、定、念、精進、慧のうちの信と慧のバランスに似ているかもしれない。信が強すぎるとなんでも信じてしまうし、慧が強すぎるとなんでも疑ってしまい先に進まなくなる。修行する時にはどちらかが強すぎるようになることなく、バランスよく、どちらも育てていかなくてはならない。これは個人によってもともと持っているバランスも違うし、時期によってまったく強さも異なってくることはわかってもらえるだろう。瞑想指導者はこのバランスを見ながら指導していく。これが冥想は師匠についてやってほしい、と私が強く願う理由だ。

 定と精進も同様だ。どちらかが強すぎても良くない。バランスよく育てていかなければならない。ただし念だけはどれだけ強くてもいいので、世の中で師匠なしで広まっているヴィパッサナー冥想は個人でやっても念だけ強く育てるように誘導されている。

 その結果、他の冥想法と違うではないか、という議論になるのだが、これでそれは当然の話なのだと分かってもらえたと思う。

 でないと、危ない。五力のうち四つのどれかが突出して強くなるのは大変危険だ。これはテーラワーダの知識のない、いや、知識があっても陥る罠なので、是非とも信頼のおける師匠の下で冥想に励んでいただきたい。

ラベリング

 伝統的には、サマタ冥想も言葉を使ってやる。これは無色界禅定においても同じだ。ヴィパッサナーにおけるラベリングというのはこの応用で、サマタは同じ文句を繰り返し唱えるわけだが、ヴィパッサナーに於いては違う文句を唱えることになる。これによってサマタに入ることを防ぐこともできる。これについては上記のリンクに書いた

 

1.ヴィパッサナーを先にやって後にサマタをやる。
2.サマタをやって後にヴィパッサナーをやる。
3.ヴィパッサナーもサマタも同時にやる。

 

の1.で伝えられるやり方だが、2.でも歩行冥想では同じではないだろうか。よく知らないが。

 さてこのやり方でも、kaṇika samādhiに入ることができる。本を読むのに夢中で人が声をかけても気づかなかった、みたいな集中のことだ。

 また、言葉を使ってラベリングすると、そちらに意識を向けることが容易となる。慣れてくると言葉は唱えているものの心はどっかに行ってしまう、ということもよく起こるが(笑)、それにしてもラベリングに対して意識を戻すことも容易だ。

 

 しかし私は!

 一番最初にスマナサーラ長老の冥想指導を受けた時からこのやり方に不満があった。身体に意識を向けるのか感覚に意識を向けるのか言葉に意識を向けるのか全く分からなくなってしまうからだ。

 しかしそのまま何年か一応やっていてウィセッタ長老の冥想会にも参加させてもらって、訊いたことがある。

 「ふくらみ、ちぢみと言いますが、そのタイミングと実際のお腹の実際のふくらみちぢみのタイミングはずれることがあります。どうすれば良いですか」と。

 答えは、「お前には集中力がない」だった。「え!?」と思ったので通訳さんの方を見ても「その通りだ」という顔をしていた。

 

 いや、実は私もそう思っていた(笑)。

 なので一度冥想をやめていた時期がある。今考えたら、もしかしたらそういう時期だったのかもしれない。

 その後スダンマ長老とご縁があり、今ではアナパナでやっている。

 で、最近やはり訊いた。「言葉なしでやっても良いですか?」と。

 スダンマ長老は「言葉で考えるんだから、言葉がないと意識をそちらに向けられないでしょう?」と。

 私は「いや、言葉がなくてもできると思います(私は実際やることがあった)。」

 長老は「じゃあそれでもいいです」と呆れながら、半笑いしながらおっしゃった。

 よし、許可は取った(笑)。

ヴィパッサナー冥想

 もう一つ、大事なことがある。アナパナでもヴィパッサナーはできる。実は慈悲の冥想でもヴィパッサナー的に冥想することができる。やり方は、例えば身受心法のうち心とか法を観察すれば良い。まああまり推奨することはできないが、実際のところはサマタをやっている、と思っていながら実はヴィパッサナー的に慈悲の冥想をしていた、というのはよくあることだ。あまりここを分析しながらやるとまたあらぬ方向へと行ってしまいかねないので注意が必要だが、原理としてはそういうことだ。

 アナパナで四界分別することもできる。単純に考えて風がやりやすいことはすぐにわかるだろう。

 

 というわけで、冥想のやり方というのは

 「どうとでもできる」

 ということがわかっていただけただろうか。それだけにそれをすべて考えていたら集中、定がなくなってしまって私のようにとっ散らかってしまうので、師匠のやり方をガイドとして誠実にその冥想のやり方に従ってほしい、と私が強く言う理由をご理解いただけたらこれほど嬉しいことはない。

 それぞれのやり方であっても危険な箇所は必ずある。それを冥想を師匠から受ける方は知らないのだから、そのことだけでも頭の片隅に置いておいていただければ幸いである。