さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

対機説法について

 今日は大変難しい話を書こうと思う。対機説法の話だ。

 内容的にも難しいが、社会的にも難しい(笑)。

 実はスリランカでの方が「このお坊様はこう言った、あのお坊様はこう言った。言うことが違うではないか」という問題が多く起こるらしい。まあ当然と言えば当然かもしれない。なにしろテーラワーダのお坊様が何万人もいる国なのだから。

 前回施設(せせつ)の話で、情報は固定化する、ということを話した。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 その関係もあって、もちろん勉強というのは施設を用いなければすることができないので当たり前なのだが、固定された情報が人と人の間で錯綜してしまうのはどうしても避けられないことだ。

 しかし仏教、テーラワーダでは、対機説法を重視する。聞く人の状況にあわせた説法、ということだ。これがどうにもやっかいな話で、世間で悪い意味で言われる時の「教科書的」な固定された知識と混同してしまうと、実に意味の分からないものとなってしまう。

 経典を読めばわかるが、お釈迦様が同じことを言っているように見えてその実項目の数は違っていたりするのはよくあることだ。これはお釈迦様がその説法している相手に一番しっくりくるように、インパクトを持って伝えられるように最適化されている、ということだ。

 三蔵のうちの「経」は、基本対機説法だ。スリランカは「経」の国だ。他のテーラワーダの国々についてはあまり詳しくないので比較できるだけのデータは持ち合わせていないのだが、もしかしたら他の国よりも対機説法ということに関してはより先鋭的なのかもしれない。

 そういうこともあって、対機説法に関して私なりに見えてきたことがある。

 まず、衝撃的なことを書こう。インパクトを持って伝えるためには、お坊様は経典の中身すら平気で変える(笑)。伝える相手に合わせることの方が重要だからだ。

 こんなことがあった。スリランカにおけるサンスクリットの権威であるレーワタ長老がスガタ精舎で説法された時のこと。法話会では法話なさるお坊様が一人で白い布をかけた法座に座られて説法することが多いのだが、この時はスガタ精舎にいらっしゃるお坊様全員が法堂に会して法話会が行われた。

 そこでレーワタ長老がされた話の中に、私も知っている経典の話があったのだが、どうも途中から私が知っている話と違う。しかし話はどんどん盛り上がっていき、しまいにはそこにいらっしゃったお坊様方も全員大笑いしていた。いや、れっきとした法話でふざけているわけではまったくないのだが、中途半端に経典を知っている私なんかより、きっちり経典を勉強されているお坊様方だからこそよりおかしかったのかも知れない。

 その時にはたまに来られる日本人の方もいらしていたので、私は「ああ、この人に対して言っているんだな」というのはすぐにわかった。お寺によくいるとお坊様の振る舞いを見せてもらえるので実に勉強になる。お坊様が「ん?」という行動をとられているのを見ると、ああ、この人(寺にその時に来ている在家)はこんな問題を抱えているんだろうな、というのが見える時がある。見えない時もある。

 こういう時、テーラワーダにおける師匠と弟子の関係というのは、教えというものは、こういうことを見せることによって伝えられていくんだなあ、と実感する。このようなことはなんとも書面化しては伝えきれない。

 それと同じで、用語についても、まったく間違いというわけではないが、「教科書的」に捉えると相当な拡大解釈、ととられてしまう言い方をすることも多い。例えば「人は死ぬと色rūpaは無くなるが名nāmaは残る」と言ったりする。文字通り、名は残る、だから名を残せ、というわけだ。これを名蘊と取ってしまうと「は?魂でも残んの?」となってしまうが、相手によっては別に魂があるかどうかもどうでもいい場合もあるわけだし、そこを突っ込むのは野暮だし、そもそももしお坊様がそういうことを言っているところに在家が「いや違う」とかいうのは失礼だ。

 またお坊様同士で、「あのお坊様はどうのこうの」というのを聞いたことがないだろうか。あれも在家同士の社会的な関係があって、このお坊様とこのお坊様がつるんでいるということは私はあのお坊様に取り入ればあちらのお坊様の勢力にも取り入ることができる、なんて考えを持つ人がいたりしてめんどくさいことになるからそういう手法をとったりもする。

 他にも要素はあるだろうが、一言でいうと、お坊様の言うことは信用できない、ということだ(笑)。

 この話は、冥想にかかわってくるとより顕著になる。サンブッダローカ寺にいらした、先述のレーワタ長老のお弟子さんでスリランカでは冥想指導で有名なダンマラタナ長老は、「ふくらみ、ちぢみは間違い」と断言されていた。

 冥想はお坊様それぞれのやり方を持っていて、そのやり方に従わずにいろんなものを混ぜると実は危ないので、そういう方法を取っている。

 ニャーナーランカーラ長老がおっしゃっていた。「冥想だけは師匠につかなければだめだ。冥想で頭がおかしくなってしまった人を見たことがある。」

 スダンマ長老はおっしゃった。「法話はいろんなお坊様の話を聴いた方が良い。しかし冥想については師匠は一人に決めて、自分で決めてその師匠について冥想をしなさい。」

 決して弟子を囲うためではなく、冥想に関して色んな所で試してみてもいいのだが、最終的には師匠は一人に決めて、そのやり方に従って冥想は進めていかなくてはいけないので、師匠は弟子のためを思ってそういう方便を使っているのだ。

 とか言いながら、次回はその冥想について、だ。