さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

paññatti施設(せせつ)、なぜ「我」があると思ってしまうのか

 (テーラワーダ)仏教が根本的にほかの宗教と違うところは、「無常、苦、無我」の三法印だ。厳密に言えば滅尽定があるが、正直在家の修行には全く関係ないと言い切っても良いでしょう。


 というか、色界禅定には興味のない私であるが、実は滅尽定については興味がある。なにやら神通っぽい。滅尽定に入っていれば銃で撃たれても平気だ。デモンストレーションでもすれば一儲けできそうだ。


 あ、いや、銃はさすがに無理か。いくら何でも物質的に無理そうだ。火が大丈夫なのは確かなんだが、それももしかしたら燃え盛る火の中に一週間ぶち込んでおいても大丈夫、ということではないかも知れない。滅尽定ができる在家の方がいたら是非私に相談していただけると幸いである。


 ちなみにお釈迦様は、出家に対しては神通を決して人(在家)に見せてはならない、とおっしゃっているが、在家に対しては何も言っていない。つまり、在家であれば神通を人に見せることはなんら戒律違反にはならないということだ。もし在家で神通を身につけている人がいたら、是非とも見せてほしい。公にすると信者が寄ってきてうざくなるからやはりはばかられる、という方であれば私にだけでいいから是非とも見せてもらいたい。というか習いたい。


 といっても、神通も、もちろん滅尽定も、まずは色界禅定に達しなければ話にならないんだけどね…


 余談ではあるが、出家はuttarimanussadhamma、自分が最終解脱に達したとかそういうことを人(こういう場合は師匠以外に、となるのだろうか)に言うことは戒律違反になるが、人が「あのお坊様は」と言うのは実は全然かまわない。アーチャン・チャー長老が阿羅漢だったであるとか、アリヤダンマ長老は正自覚者になる誓願をしているから兜率天に行ったとかいう話を聞くのはこのためだ。


 「(今生きている)あのお坊様は神通ができて」という話はあまり聞かないが、個人、またはまったく縁が遠すぎてどのお坊様かわからないような、誰なのか特定できない形での神通の話を聞いたことはないだろうか。


 お坊様がこういう話をなさるときは、聞いている側に何か得るものがあるという意図で話されているのでそれが本筋ではないと思うのだが、そういう話を私のようなものがこういう場でブログのネタにしてしまう(笑)。


三法印「無常、苦、無我」

 さて三法印の話に戻ろう。


 私には無常も苦も、よくわからない。なぜに無常がわかると楽になるのか、苦とはなんぞや、まったくわからない。


 しかし無我は、なんか我というものがなくなれば何かから解放されるような気がする。


 sabbe saṅkhārā aniccāti、日本でも馴染みのある、諸行無常だ。


 sabbe saṅkārā dukkhāti、一切皆苦パーリ語と比べてみればわかるが、諸行無常というのなら諸行苦となるし、一切行苦となれば一切行無常、だ。まあこの辺は「厳密に言えば」というレベルなので目くじら立てて言うほどのものではなく、どちらかというと三法印インパクトを持って皆に知ってほしいから「一切皆苦」の方がわかりやすくて良いとさえ思うが、残念ながら今回はここを突っ込んでいくことになる。そもそも「諸行無常、諸行苦」ではちょーゴロ悪いし。


 sabbe dhammā anattāti、諸法無我。そろそろ突っ込んでいこう。これは一切皆無我、一切無我でOKだ。すべてのものは無我である。


 さて、お判りいただけただろうか。「すべての行は無常である、すべての行は苦である、すべての法は無我である。」ということだ。


 行についてはおいておこう。ものすごくややこしい話になるし、おそらく私も理解できていない。以前十二縁起の法話でスダンマ長老に二度ばかし教えてもらったことがあるが、結局さっぱりわからなかった。


 今回問題にしたいのは「法」である。法といっても、お釈迦様のdhamma法とは違う。色声香味触法の法とも違う。いや、これは一緒でもいいのか??


 まあそこは置いておいて(汗)、すべての事物、現象ということでsabbe dhammaだ。ここがsabbe saṅkhāraとは違うところだ。ということは、sabbe dhammā anattāすべてのものは無我であるが、sabbe saṅkārā aniccā、sabbe saṅkhārā dukkhā、すべてのものが無常であるわけではない、すべてのものが苦であるわけではない、ということである。


 ではここで無常、苦から除かれているものとはなんなのだろうか。


 それは、「涅槃」と「施設(せせつ)」だ。


 涅槃と施設は無常でもないし、苦でもない。


涅槃と施設は無常ではない、苦ではない

 涅槃が苦でないというのはわかるだろう。なにしろテーラワーダも究極的な楽を求めている。テーラワーダの最終目的地、涅槃が苦であるのなら、果たしてなんのための修行なのかわからなくなってしまう。


 テーラワーダが最終的に求めるものが「無常、苦、無我」であるが、これはこの三法印を理解して解脱に達しなさい、ということだ。決して最後まで苦であるよ、ということではない。このことからも「一切皆苦」というのが厳密に言うとまずい、ということが分かってもらえると思う。飽くまで「厳密に言えば」だが。


 書いていて今気づいた。「無我を理解すると我があるよ」というのも違う、ということがsabbe dhammā anattaからわかる。「無常と苦は理解して乗り越えよう。乗り越えてから得る(?)ものは結局無我だけどね」ということだ。


 さてもう一つ、涅槃が無常でないのもわかってもらえるだろう。涅槃が無常であるなら、その無常の舞台である輪廻から脱出するのが解脱であるのに、最終目的地がまた無常、って、それではまったく意味が分からない。涅槃は常、常住、(始点はあるが)永遠だ。


 ここまでは大丈夫だろう。問題は施設だ。これが無常でもなく苦でもない。そしてこれこそが、生命が「我」があると思ってしまう原因だ。


施設paññatti

 施設は大きく分けて二つある。その二つをさらにわけてなんやかんや色々あるが、それは冥想に関わってきたりインド文化や占いを知らないとよくわからなかったりするので、ここでは取り扱わない。というか私が取り扱うのは不安だ(笑)。施設(せせつ)と調べればネットで出てくるのでそちらをご覧いただきたい。


 さて大きく分けての二つの施設とは、義attha施設と声sadda施設だ。


 そもそも施設とはなんだろう。簡単にいうと概念のことだ。なにらやよくわからない概念の元みたいなものを義施設、それを名指す何かを声(しょう)施設という。


 声saddaというくらいだから音とか声なのだろうが、めんどくさいのでここでは便宜上声施設にあたる部分の文字のことも声施設とさせてほしい。アビダンマにおいて本当にそうなのかどうかは保証できない。


 義atthaとは意味。


 車を例に出して説明してみよう。「車」と聞いてイメージする車っぽい概念(これは人によって違う)、「車」とはなんぞや、と考えて出てくる意味、これらひっくるめて義施設だ。


 声施設は、「く・る・ま」という声。音。文字。上にあげたなにやら「車」というイメージ、概念を指すために必要な言葉(等)。「愛」となれば、「愛」と聞いてイメージする何かが義施設、それを指す「あ・い」という言葉は声施設だ。


 この説明で分かってもらえるだろうか?わかってもらえないと次に進めないので、わかってもらえた、ということにしておこう。うん。


 さてこのことは、「我」にも当てはまる。「我」と聞いてイメージする何か(めんどくさい話になるが、厳密に言うとこれも人によって違うのでまた問題が起こる)は義施設、「が」という音(これについてはなんとなく皆で共有されている「言語」というものがあるのでそこまではちゃめちゃに人によって違う、とは言い難い)は声施設。


 で、先ほど言ったように、施設は常住。ということは、この「我」という概念は永遠不滅で間違いない。それゆえに生命は永遠に変わらない我(テーラワーダ的にはātman)がある、と思ってしまう。


 Q.E.D.


 養老孟司さんの言う、「情報は固定化される」というのはこの意味だ。その情報の概念自体も施設だし、その情報の概念を指す名も施設。故に情報は固定化されてしまう。


 テーラワーダとして言うと、サマタ冥想の対象も施設。だから禅定だけでは解脱に達することはできませんよ、ヴィパッサナー冥想が必要ですよ、という所以だ。前回の無色界禅定であってすら、冥想対象は飽くまで施設だ。ヴィパッサナー冥想を「ありのままに見る冥想」とも言う理由はここにある。


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