さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

吉祥経の読書感想文2

 なんか、急に思い出したので(なんかこればっか)。

 

 スリランカには、いわゆる食事の冥想、というのは無い(冥想センターによってはあるのかも知れない)。テーラワーダに結構詳しい人に訊いても、「聞いたことがない」という。

 

 だから、食事のお布施の時は、無言というのはちょっと考えにくい。べらべらしゃべれ、ってわけでもないけどね。

 

 

 食事の前に言う、

 

paṭisaṅkhā yoniso piṇḍapātaṃ paṭisevāmi,

パティサンカー ヨーニソー ピンダパータン パティセーワーミ

n'eva davāya, na madāya, na maṇḍanāya,

ネーワ ダワーヤ ナ マンダーヤ ナ マンダナーヤ

 na vibhūsanāya, yāvad-eva imassa kāyassa

ナ ウィブーサナーヤ ヤーワデーワ イマッサ カーヤッサ

ṭhitiyā yāpanāya, vihiṃsūparatiyā

ティティヤー ヤーパナーヤ ウィヒンスーパラティヤー

brahmacariyānuggahāya,

ブラフマチャリヤーヌッガハーヤ

iti purāṇañ-ca vedanaṃ paṭihankhāmi,

イティ プラーナンチャ ウェーダナン パティハンカーミ

navañ-ca vedanaṃ na uppādessāmi,

ナワンチャ ウェーダナン ナ ウッパーデッサーミ

yātrā ca me bhavissati,

ヤートゥラー チャ メー バウィッサティ

(こういう時にはバヴィッサティ気味になるような気がする)

anavajjatā ca phāsuvihāro cā-ti.

アナワッジャター チャ パースウィハーロー チャーティ

 

というのは食事の観察で、祝福のお経ではない。だから、礼拝したり手を合わせるのは、なんか変な感じだ。別に「ダメだ」というわけではないが。

 

 逆(?)に、

 

icchitaṃ patthitaṃ tuyhaṃ

イッチタン パッティタン トゥイハン

khippameva samijjhatu,

キッパメーワ サミッジャトゥ

sabbe pūrentu citta saṅkappā

サッベー プーレントゥ チッタ サンカッパー

cando pannarasī yathā.

チャンドー パンナラスィー ヤター

 

 は、祝福の偈だ。

fujisugatavihara.blogspot.com

 

 

 さて、引用は、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

bahū devā manussā ca
バフー デーワー マヌッサー チャ
幸福を願うたくさんの神々と人間が
maṅgalāni acintayuṃ,
マンガラーニ アチンタユン
吉祥のこととはどういうものかと考えています。
ākaṅkhamānā sotthānaṃ
アーカンカマーナー ソッターナン
最高の吉祥のことを
brūhi maṅgalamuttamaṃ.
ブルーヒ マンガラムッタマン
教えてください。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 大事なのは、神々も考えたがわかりませんでした、というところだ。


 結局のところ吉祥とは何なのか。

 

 今のところ私はわかっていないが、幸運の兆しともいえるし、道とも言えるし、それが実践できることが吉祥そのものとも言える。前にも言ったが、正しい教えに接するためには、それなりの徳が要る。後で出てくる「前世行った徳を持っていること」というのは、こういうことだ。道ととれば、八正道とも言えるのか。対照できるかどうかまではまったく知らないが。

 

 テーラワーダ的に言えば、やはり人間に生まれないと聖なる教えは聴けないし、人間の中でもそんなものに興味を持つ人は一握りだし、興味を持ったところでほんとうにそれが正しい教えかどうか判断できる材料を持つ人など、ほとんどいない。

 

 以前dhajagga suttaでも言ったが、他の宗教でも、テーラワーダの教えと照らし合わせて、正しい!と思えるところは意外に多い。キリスト教史などを見ていても、スピリチュアルと混ぜてみると、「ああ、やっぱり権威側も色々と苦労してるんだなあ」と思い知らされる。はっきり言って、ここら辺はテーラワーダもまったく変わらない。問題を起こす在家もいれば、問題を起こす出家だっている。そういえばスリランカにも今は正自覚者が結構いるそうだ(笑)。在家でももしかしたら言っている人がいるのかも知れないが、まあああいう国では在家ではなかなかそういうことは言いにくいだろう。当然そういうことを言っているのは、出家だ。

 

 教義を学んでいれば、すぐにそれはおかしい、とわかるのだが、たとえ数千年間テーラワーダの国だったといっても、在家で教義に詳しい人はほとんどいない。

 

 逆に、教義については今では日本人の方が多いのではないだろうか、と私などは思っている。ここが伝統的なテーラワーダの国々と日本が決定的に違う点だ。あちらは、在家はāmisapūjāが好きだが、教義や冥想は、そこまで、ねぇ、という感じで、日本は完全にpaṭipattipūjāだ。教義や、特に冥想が大好きで、逆にāmisapūjāについては、ちょっと、ねぇ、という感じだ。

 

 なにが原因なのかはわからないが、

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 「日本は寒いからじゃないですか」というのは、なるほど、と思わされる。

 

 「もったいない」という精神は良い。節約、倹約だ。しかしそれとケチ、物惜しみの境界線は非常に難しい。

 

 まあここは今日は本題ではないのでここら辺にしたいが、本当にここら辺は「真ん中がいいのになあ」と思う。日本人は修行が大好きだ。テーラワーダの国々の人々は、修行する人たちをサポートするのが大好きだ。需要と供給はマッチしてると思うんだけどなあ。

 


 さて、名古屋でスマナサーラ長老が面白いことを言っていた。

 

 「あんたらのとこの梵天、いるでしょ?あれに頼まれたからしょうがなく教えてるんですけど。」

 

 言うまでもなく、梵天勧請のことだ。まだテーラワーダを知って間もない頃だったから、「この人、凄い!」と、その方便力に舌を巻いた。


 サーリプッタ尊者は言うまでもなく、智慧第一と称される大阿羅漢だったが、お母さんとは断絶していて、尊者が亡くなる時まで会うことが出来なかった。

 

 テーラワーダでは親は大切にしなさい、と説かれるが、社会の現実として、親といえども距離を置かざるを得ない場面は往々にしてある。そしてそれは、智慧第一の大阿羅漢であっても例外ではなかった。

 

 そしてこのお母さんは、異教徒だった。日本にもハードな新興宗教を信仰する人たちがいるが、残念ながら距離を置かざるを得ない場合があるかも知れない。

 

 で、超久しぶりに家に帰ってきたサーリプッタ尊者は亡くなりそうだが、違う宗教で出家なんかしやがった息子に対しては、別に抵抗はしないが、世話もしなかった。

 

 そこで、お母さんが信仰している梵天がやってきて、サーリプッタ尊者を介抱しはじめる。お母さんは、信仰する梵天がいきなり現れたことにも驚いたが、こともあろうにその梵天が違う宗教で出家なんかしやがった息子に対して恭しく世話をしているのだから、二重にびっくりした。

 

 とまあ、そういうことで、サーリプッタ尊者が亡くなる前にお母さんも仏教に帰依し大阿羅漢を礼拝し、という話だ。

 

 サーリプッタ尊者としてはなによりの親孝行であるわけだが、この話、極めて宗教的だ。


 私も親と距離を置く寸前、実は一緒に仏塔に行った。あるお坊様からそんなヒントが出ていたからだったが、ほんとうに楽しかった。私としては、親孝行できたと思っているのだが、宗教的な気持ちがないと、そうは思えないし、そういうことついて他人にとやかく言うつもりもまったく無い。

 

 ただ、宗教は、楽しい(笑)。

 

 私としては、実はこの宗教的な部分を皆と語らい合いたいのだが、まあなかなか日本では環境的に難しいですわなぁ。

 

 また、宗教は、人間の心の根幹まで浸透してくるものなので、深い宗教の話というのは、やばいといえばやばい。それだけに、楽しいんだけどね。伝統宗教は、やっぱりどれも深い。


 以前は、非常に似ている関係であまり大乗仏教には意図的に関わらないようにしていたのだが、やはり大乗仏教とて千年を超える伝統を持つもの、私としては「教義的にちょっと」と言わざるを得ない、とか言っとかないといつ自分がそっちに傾いてしまうかわからない怖さがあるwのでとりあえずそうは言っておくが、それにしても、密教修験道など、スピリチュアル的に見るとおもしろすぎる。おもしろい、なんていうと当事者には怒られてしまうかも知れないが。


 私はもとの宗教にいる時から、中から外から「変わってるね」と言われてきた。皆さんよくご存じのあの宗教、一般的なイメージでは、皆同じようなことを言う、という感じではないだろうか。

 

 実は私は、内部でも浮いた存在だった。教義について納得がいかないと、幹部に平気で食ってかかっていたからだ。

 

 以前、聖歌隊他でよく演奏していたなんて書いたが、そこで会う人たちにもそう言われた。宗教の話をすると、一般に思われる、あの宗教のイメージとは全然違ったらしい。聖歌隊なんかでやるのだから、キリスト教にも相当詳しい人は結構いた。中には牧師さんまでいた。

 

 宗教の話をするのは楽しかった。そりゃ、伝統的なキリスト教の人でも、正直「どうか」という人たちもいた。こんなの、テーラワーダだって変わらないだろう。どこに行っても、恐らく変わらない。

 

 しかし、私は真理が知りたかった。議論することによって真理が見える、と思っていた部分も、今思えばあったのかも知れない。

 

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 この時、実は私は、「あ、もう南妙法蓮華経でいいや」と、もとの宗教というか、まあ違うんだがまあいいや、そっちに戻ろうという気持ちになった。やはり寺というのは、どの宗教でも力がある。そういう自分の経験からも、宗教というのは間違いなく力を持つものだと言えるのだが、まあそこもいいや。

 

 私としては、別に宗教としてのテーラワーダを広めたいわけではないが、宗教としてのテーラワーダを語り合える仲間は欲しいと思っている。

 

 

 いや、それが宗教としてのテーラワーダを広めたい、と言うのか(笑)。