さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

四つの御守りの冥想~佛隨念3

 引用はいつものように、富士スガタ精舎(富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

sammāgato subhaṃ ṭhānaṃ
サンマーガトー スバン ターナン
世尊は涅槃に達しました。
amogha-vacano ca so,
アモーガワチャノー チャ ソー
意味のない、間違えた言葉は話さず、
tividhassāpi lokassa
ティウィダッサーピ ローカッサ
三世界を
ñātā niravasesato.
ニャーター ニラワセーサトー
理解しています(世間解(せけんげ))。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「世尊は涅槃に達しました」。テーラワーダをやっていると、「ん?当たり前じゃね?」と思うが、まだ馴染みが薄かったりすると、そもそもお釈迦様は存在したのか、という話になってしまう。

 

 後の世代の、では例えば阿羅漢方が作ってきたもの、としてもまあ文句は言わないが、私としては、とても大阿羅漢方が束になっても絶対に出てこない言葉が経典にはある、と感じている。

 

 しかし、前にも書いた通り、後に作られた経典はあるかも知れない。しかしそれであっても、やはりこの佛隨念があったればこそ出てくるものであって、それ無しには絶対に出てこないクオリティのものだろう、という確信はある。

 

 これこそ信が無いとそうは思えないものなのだから、やっぱり佛隨念はやりましょうね、という話になって終わる。

 

 そもそもお釈迦様が涅槃に達していなかったとしたら、テーラワーダそのものが成り立たなくなる。しかしそれにしては、首尾一貫しすぎている。というわけで、お釈迦様もいたし、涅槃に達したことも当然だろう、との確信に至る。

 

 他の宗教を例えに出して申し訳ないが、他の宗教は、深く知れば知るほど、疑問が増えるのが普通だ。しかしテーラワーダは、深く知れば知るほど確信が増えていくばかりだ。文句を言っている人は「ああ、この壁に跳ね返されたな」とわかったりするが、説明したところでわかってはもらえないだろうし、私だって全部わかるわけでもない。問題なのは、結局こういう所は「信saddhā」の問題になってくるからだ。

 

 私の前の宗教でよく言われた。悩みを相談しようが、最後は結局「そうですか。信心が足りませんね」。

 

 結論が一緒になってしまうのは、なんとも、なんとも、だが、仕方がない。テーラワーダにだって、そういう部分は、残念ながら、ある。

 


 「意味のない、間違えた言葉は話さず」。まあ経典を読んでも、はっきり言ってわからないとこだらけだ。しかし、誰かには突き刺さっているはずだ。いつかは突き刺さるのかも知れない。

 

 だから経典については、微に入り細に入り分解して解説されたりもする。それだけの要求に耐え得るスペックを持っている、ということだ。

 

 私も初めの頃は「それはどうだろう?」と思ったものだが、やっていくと、なんとなくわかってくる。それでも成立してしまうのだ。だから以前にも書いた通り、三蔵と注釈書では決定的にレベルが違う。そこが、訳す恐怖でもある。そこまでの責任が持てるのか。


 経典では、後にお釈迦様が判断を変えた発言、というものもある。ではあれは間違えた発言だったのだろうか。

 

 いや違う。方便ととってもいいし、そう言わないと事態が進行しなかったのだ。

 

 こういう所から、お坊様もテクニックを身に付けていき、在家にも実践なさる。ここはちょっと、発言がすべてとは言わないがネットに残るような現代では、時代に合わせてテクニックを変える必要のある部分なのかもしれない。

 

 まだ、デジタルネイティブの出家が大活躍、という段階では無いだろう。しかしネットで活動なさるお坊様方も出てきた。あれは素晴らしい!

 

 本来テーラワーダの国では、出家がいて寺があって、そこに村があるのだからその村のことについては出家が詳しく、だから問題が起こっても、決してすべて解決できるわけではないだろうが、出家が出て対処することができる。

 

 しかし今の日本では、そういうことはできない。ではどうするのか。日本各地にいる人たちに、ネットを通して何らかの働きかけをすることかできる。これこそが、慈悲の活動だ。

 

 どうもテーラワーダの出家、というと「修行だけしてろや」と言う人がいるが、いや勿論それは大事だ、テーラワーダの柱なのだから。しかし、柱はもう一本ある。慈悲、だ。解脱に向けての修行が出世間への面、慈悲の実践が俗世間への面、その二つの修行があるからこそのテーラワーダだ。

 

 以前にも書いた通り、今まではそこを強調しにくかった。どうしても、新興宗教の活動みたいになってしまうからだ。お坊様がきめ細かく、それに対応することも現実的にできなかった。

 

 しかし、今は曙だ。現代ならではの、アドバンテージもあると思う。

 


 実は、私にはもう一つ、夢がある。テーラワーダの村ができたら、と。

 

 いや、あまりに宗教都市になると危険視されるから外部排除だとかそういうことではなく、地元にもお金が落ちれば必ず歓迎される。逆に言えば、お金が落ちなければ危険視されるだけで終わる。

 

 スガタ冥想センターは、地元のスリランカの人も来るが、非常に遠くからも来る。まあなかなか現地で仕事を作り出すのは難しいだろう。

 

 しかしお食事のお布施は、地理的に近いところに住んでいないと、継続的には難しい。が、子供もよく来れるようになれば、なかなか地域社会が働きにくい現代において、お互い助け合って色々なことができるのではないか、と思う。

 

 これはなにもテーラワーダという宗教に限る必要もないのだが、まず最初は、テーラワーダの教えに則ってやりやすい人たちが集まって、とやる方が格段に進むような気がするのだ。そして、それが軌道に乗ってきてノウハウもできてきたら、その時こそテーラワーダに限らず、運営できるモデルになり得るのではないか、と思うのだ。

 

 まあしかし、じゃあテーラワーダの国でそういう村がうまくいっているのか、というと、全肯定は難しいだろう。この夢が一つだけそれと違うとしたら、それは「新しい」というただ一点のみだ。そこに賭けるしか、ないのかも知れない。まあ、全然わからんけど。

 


 「三世界を理解しています(世間解)」。これが昨日言った、世間法も理解していますよ、ということだ。三世界というのは、欲界と色界、それになんと無色界も、だ。「完全に理解している」。完全に理解したうえで、おっしゃっているのだ。我々がわからないのも、当たり前と言えば当たり前だ。適当に解釈してはならない。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

anekehi guṇoghehi
アネーケーヒ グノーゲーヒ
世尊は色々な徳を持つ、
sabbasattuttamo ahu,
サツバサットゥッタモー アフ
優秀な方です。
anekehi upāyehi
アネーケーヒ ウパーイェーヒ
暴れている生命を、
nara-damme damesi ca.
ナラダンメー ダメースィ チャ
聖なる道へと導くことの出来る方です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「世尊は色々な徳を持つ、優秀な方です」。これまでも説明してきたように、数えきれない徳を持つ方だ。こんなものではない。勉強すれば勉強するほど、驚くべき徳が次から次へと見えてくる。目指すべき師匠がいる、しかも有情であれば、誰がどこまで精進しようが、絶対に適わない師匠がいる。これがどれだけ幸せなことか。

 


 「暴れている生命を、聖なる道へと導くことの出来る方です」。結局、これだ。これが有情の中で最大限、というか、お釈迦様ができない、ということはイコール受ける側の業が良くない、ということになる。そればかりはどうしようもない。

 

 冥想の説明でも聞いたことがあるだろう。牛だか羊だか忘れてしまったが、首に紐をつけて杭を打ちそこに繋げると、最初は暴れまわるが、しかしそのうちだんだん(諦めて?)大人しくなる。心というのはそういうものだ、と。

 

 本当の民主主義というのは、激烈に難しい。皆勝手に暴れ出すからだ。それを恐怖で統制する方がよっぽど簡単だが、それは歴史から見ても、長続きはしないし、結果も良くならない。

 

 その次だ、皆を統一して管理しよう、というのは。軍隊などは部署によってはそうでないと機能しないし、それが一概に悪い、とは言わない。しかしテーラワーダというのは、それとは超対極にある。

 

 これを管理しよう、というのは、不可能に近い。もしかしたら、「管理」という言葉が良くない、合わないかも知れない。ではどうすればいいのか。「慈悲」しか無い。残念ながら(笑)。

 

 それぞれの専門分野ではきっちりと能力を発揮して、しかし問題が起こった時には、というか、問題が起こった時にはすでに手遅れなのだ。それなりの専門家でないともう対処はできない。なのでどうするのかというと、問題が起こる前から、慈悲で対処していく、慈悲で生活していくと、問題が起こらない。

 

 問題は、そんなことをしているとなにも問題が起こらないのだから、そもそも話題にも上らない。「なぜ問題が起こらないのか」なんて、あまり議論しないだろう。普通は、「なぜそんな問題が起こったのか」だ。ほんとうは「なぜそんな問題が起こらない状態ではなくなるのか」なのだが、まあそんなこと言っていてもしょうがない。しかも、これはインパクトがないから、なにより商売にならない。現実的に、これが一番の問題とも言える。

 

 「はやぶさ」は大変話題になったが、まあこんなことを言っては失礼千万だが、あれだけの情熱を持った人たちが話題になるためにはああなるしかなかったのか、とも思うが、ではまったく問題を起こしていない「イカロス」の名前を知っている人がどれだけいるだろうか。問題が起こるとインパクトがあるが、問題がないと、なかなか話題には上りにくい。

 

 以前にも書いたことがあるからもう書いていいと思うが、世界中で問題を起こしているのはイスラム教徒だ。中には勿論まじめな人たちも多い。みんながみんなそうだ、とは決して言うつもりはない。しかし、なぜなのだ、仏教徒と衝突を起こすと必ず「仏教徒が悪い」という話になるのは。

 

 何度も言うように、仏教徒が一切悪いことをしていない、とまで言うつもりはない。しかし、大概一方的にいつも「仏教徒が悪い」で終わる。

 

 そういったニュースだけではなく、世の中にはそういった面もある、という考えを持つと、もうどう判断して良いのやらまったくわからなくなる(笑)。恐らく、当事者だってわかってないだろう。周りが、「どちらかが悪い」として決着を付けたいだけだ。

 

 じゃあどうすれば良いのか。慈悲だ。

 

 これは、「どちらも悪くないですね」とは全く違う。その場その場に合わせた智慧、だ。だから慈経にもそう書いてある。

 

 慈経には、最後には梵天だとか邪見だとか涅槃だとか出てくるが、そこだって当時のインド社会からすれば別に「うわ、宗教だがや」とか思うレベルの話ではなかった。

 

 慈悲、慈悲喜捨、そうでなくても、慈だけでも、これだけは宗教に関係なく、是非とも多くの人が実践してもらえたらなあ、と思うもので、もし少しでも多くの時間、少しでも多くの人が実践してもらえたのなら、確実にその分だけ社会は良くなる。それだけは断言できる。

 

 しかしそれだけに、慈悲の冥想「だけ」では、実は悟りに至ることはできない。ヴィパッサナーを実践していれば、たまたま慈悲の冥想をしている時に悟りに至ることはあるかも知れないが、慈悲の冥想「だけ」をしているだけでは、悟りに至ることはできない。

 

 これは何を意味するのかと言うと、逆に言えば、慈悲の冥想「だけ」をしていれば、世間の問題は解決してしまう、ということだ。理想論だが。

 

 現実は、有情の中で慈悲が一番ずばぬけてあるお釈迦様が、では社会の問題をすべて解決できたのか、というと、そうではないことは皆さんもうご存知だろう。しかし、ご自分の問題はすべて解決された。その上で、皆に憐れみを持って教えを伝えて下さった。これは慈悲意外のなにものでもない。

 

 つまり最初の時点で、仏教は慈悲がないと成り立っていないのだ。自分で解決、自分を解決するのが悟りで、外、社会に働きかけるのが慈悲。

 

 ここが理解されていないので、「小乗は自分の悟りばかり」と言われてしまうのだろう。なぜそう言われてしまうのかは、これでわかっていただけただろうか。問題を起こさないのだから、外部からは「無い」と同じになってしまう。