さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

慈しみの冥想2

 引用はいつもの通り、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

imasmiṃ vihāre, imasmiṃ gocara-gāme,
イマスミン ウィハーレー イマスミン ゴーチャラガーメー
この精舎の、この町の、
imasmiṃ nagare, imasmiṃ raṭṭhe, imasmiṃ cakkavāle,
イマスミン ナガレー イマスミン ラッテー イマスミン チャッカワーレー
この都市の、この国の、この世界の
issara janā, sīmaṭṭhaka devatā, sabbe sattā
イッサラ ジャナー スィーマッタカ デーワター サッベー サッター
豊かな生命、守り神、すべての生命は
averā hontu,
アウェーラー ホントゥ
恨みのない生命になりますように
abyāpajjā hontu,
アッビャーパッジャー ホントゥ
怒りのない生命になりますように
anīghā hontu,
アニーガー ホントゥ
悩みのない生命になりますように
sukhī attānaṃ pariharantu, dukkhā pamuñcantu,
スキー アッターナン パリハラントゥ ドゥッカー パムンチャントゥ
安楽に過ごせますように、苦しみが無くなりますように、
yathā laddha-sampattito mā vigacchantu kammassakā.
ヤター ラッダサンパッティトー マー ウィガッチャントゥ カンマッサカー
業によって得た富が無くならないように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「imasmiṃ raṭṭhe」というところは、もともとは「imasmiṃ laṅkādīpe, imasmiṃ jambudīpe」だ。「スリランカの、インドの」となっている為、スリランカで作られた文言であることがわかる。それをスガタ精舎で唱えていたら、「う~ん、この国の、の方が良いですね」ということで、imasmiṃ raṭṭheとなった。

 

 経典、三蔵にあるものではないので、テーラワーダを理解している人が文を変える分には構わない。まあ構わないのだが、このくらいのそれなりに暗記している人が多い文章を変えるには、それなりの理由が要る。

 

 そうでない、慈悲の冥想の文言であれば、教義から外れていなければ自分が唱えやすいように文章を変えても構わない。

 

 実は私は「幸せでありますように」という言葉は最初からしっくり来ていなかった。そのため、それに代わる言葉を探すのに時間が掛かった経緯がある。慈がどういうものかよくわかっていなかったし。

 

 というわけで、もし他の慈悲の冥想の文言に多少なりとも違和感があったりした時に参考になったら、という思いでこれも書いている。

 


 で、この中で最初に出てくるのは「豊かな生命」だ。

 

 宗教をやっているとどうしても最初に「不幸な生命」に目が行きがちだが、まあ別にそれは悪いことでもないのだが、そればかりやっていると、自分もまきこまれることがある。慈悲喜捨のうちの悲の落とし穴でもある。最初はどうしてもそちらにばかり目が行く。

 

 このブログでは度々出てくる神々の話題だが、それも最初はやはり「正見の神々が」とやっていた方が安全だ。

 

 テーラワーダではどんな生命とも仲良く、とも言うが、自分の腕に合わせ、どこからどこまで仲良くするか、というのはきちんと中道で判断すべきことだ。距離を取った上で、「幸せでありますように」とやるのであって、とにもかくにもどんな生命とも距離を取るなんてとんでもない、という考え方はテーラワーダではしない。十分に腕が上がったら、憐れみをもって導くためにそういう生命と付き合えばそれで良い。


 私は、慈悲喜捨についても、多少バランスを考えた方が良いのではないか、と思っている。できるようになれば別に問題は無いと思うのだが、できるまでの段階では、ちょっと問題が起こることがあるのではないか、と。

 

 以前にも書いたように、慈悲喜捨も人によって得意不得意がある。だからどれもバランスよく育てよう、と思いすぎる必要はないのだが、それでも一応、全部をやっておいた方が良い気はする。

 


 「守り神」。日本でいうと氏神だ。そういうわけで、地元の神社には是非とも行っていただきたいわけである。


 この後には方角に従って色々な生命が、となるわけだが、今のこの文章では同心円的なやり方だ。

 

 やり方は何でも良い。とにかく自分と、他の生命(有情施設)に対して慈悲の冥想をするなら、自分の得意な他のやり方でも良い。ただ、方角であれば、それは「方角の冥想」ではない、ということだけはわかっておく必要がある。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

puratthimāya disāya, dakkhiṇāya disāya,
プラッティマーヤ ディサーヤ ダッキナーヤ ディサーヤ
東方の、南方の、
pacchimāya disāya, uttarāya disāya,
パッチマーヤ ディサーヤ ウッタラーヤ ディサーヤ
西方の、北方の、
puratthimāya anudisāya, dakkhiṇāya anudisāya,
プラッティマーヤ アヌディサーヤ ダッキナーヤ アヌディサーヤ
北東の、南東の、
pacchimāya anudisāya, uttarāya anudisāya,
パッチマーヤ アヌディサーヤ ウッタラーヤ アヌディサーヤ
南西の、北西の、
heṭṭhimāya disāya, uparimāya disāya,
ヘッティマーヤ ディサーヤ ウパリマーヤ ディサーヤ
下方の、上方の、
sabbe sattā, sabbe pāṇā,
サッベー サッター サッベー パーナー
すべての生き物、すべての生命あるもの、
sabbe bhūtā, sabbe puggalā,
サッベー ブーター サッベー プッガラー
すべての精霊、すべての人々、
sabbe attabhāva-pariyāpaṇṇā,
サッベー アッタバーワパリヤーパンナー
すべての生まれようとしている生命、
sabbā itthiyo, sabbe purisā,
サッバー イッティヨー サッベー プリサー
すべての女性、すべての男性、
sabbe ariyā, sabbe anariyā,
サッベー アリヤー サッベー アナリヤー
すべての聖者、すべての俗世間の人、
sabbe devā, sabbe manussa,
サッベー デーワー サッベー マヌッサー
すべての神々、すべての人間、
sabbe amanussā,
サッベー アマヌッサー
すべての(夜叉などの)人間ではないもの、
sabbe vinipātikā,
サッベー ウィニパーティカー
すべての地獄のものは、
averā hontu,
アウェーラー ホントゥ
恨みのない生命になりますように、
abyāpajjā hontu,
アッビャーパッジャー ホントゥ
怒りのない生命になりますように、
anīghā hontu,
アニーガー ホントゥ
悩みのない生命になりますように、
sukhī attānaṃ pariharantu, dukkhā pamuñcantu,
スキー アッターナン パリハラントゥ ドッカー パムンチャントゥ
安楽に過ごせますように、苦しみが無くなりますように、
yathā laddha-sampattito mā vigacchantu kammassakā.
ヤター ラッダサンパッティトー マー ウィガッチャントゥ カンマッサカー
業によって得た富が無くならないように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 方角については、文化によって吉凶が違ったりする。占いでも方法や、他の要素によって変わってくる。

 

 インド文化でも、方角は大事なものだったのだろう、この後の神々、四天王も方角は重要な要素だ。

 

 日本は南向きの家が重視されるが、そういったことも日本特有のものも多い。考え方としてはいろんな国にあるが、その方角についてはそれぞれ違ったりする。そもそも北半球と南半球ではまた色々違うだろう。

 

 まあ、これも私にはよくわからない。私は方向音痴ではないので、いつか方角の勉強もしようと思ってはいるのだが…。

 


 「sabbe bhūtā」。ここでは「すべての精霊」となっている。まあ別に「すべての悪霊」とか「すべての幽霊」でも構わない。しかし、テーラワーダとしても「慈悲の冥想は別に宗教関係ないでしょ?」とよく言うにも関わらず、こんなところで「悪霊」とか「幽霊」とか出てきたら、ねぇ。

 

 そういうわけで、なぜか「精霊」だと受け入れてもらえる感じがする。

 

 どうでもいい話だが、ムーミントロールだ。日本に来てずいぶんかわいらしくなってしまったが、もともとのトロールのイメージというのはそうではないだろう。

 

 しかし、だからといって、ではトロールが「悪霊」とか「幽霊」とか言うか、というと、そうでない気がする。やっぱり「精霊」だろう。

 

 ピクシーとか、ティンカー・ベルとかも入るのだろうか。あれは「妖精」か。

 

 ま、どうでもいいか。

 

 とにかく、色んな生命、すべての生命に対して、慈悲の冥想を、慈しみの念を送りましょう!