さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

宝経の読書感想文1(注意事項あり)

 いつもは、一応皆さんの参考になったら嬉しい、という気持ちで書いている。

 

 それは今日も変わらないが、これから書く話については、「これがテーラワーダの考え方です」とはまったく思ってほしくない。言うなれば、私個人の考えだ。

 

 しかし、個人の考えなりに、責任をもって書いているつもりではある。

 

 こんなブログを読んでいただいている方で「宗教」であるテーラワーダに興味の無い人はもうあまりいないとは思うが、スピリチュアル、霊などには拒否反応がある方もいると思う。そういう方はそっ閉じ願いしたい。

 


 しかしではなぜ書くのか、というと、テーラワーダをやっていても、実はこれ関係に悩まされている人を、私も含め、何人も見てきたからだ。

 

 前にも書いたように、大阿羅漢であろうとも、見えない人には見えない。だから、まったく縁が無い人には完全に縁のない話なのだ。だから話はより難しいのだが、中にはこの関係で問題を抱えている人もいると私は考えているので、その方たちの参考になれば、ということで、勇気をもって書かせていただこうと思った。

 

 だからと言って、私はとても「私に相談して下さい」とは言えない。はっきり言ってなにもわかっていない。しかし、もし縁があるのなら、いつか実際に皆さんとお会いすることはあるかも知れない。

 


 私は、全てを「心」で説明するのは、無理があると思っている。

 

 「いや、アビダンマではそうではなかったですか?」と言うかも知れない。

 

 違う。業や縁の話があるではないか。見えない生命の話もわんさか出てくるではないか。

 

 スピリチュアルの世界では、「中途半端な気持ちで霊などに興味を持つな」と言われる。やはり霊としても、まったく興味の無い人より、近づける可能性のある人に近づくに決まっている。だから危ない、というのだ。

 

 先日無宗教の悪魔祓いがあるのだろうか、なんて書いたが、実はある。「霊なんかまったくいない」と信じていることだ。霊なんかまったく信じない人には、霊は憑かない(正確には憑き「にくい」)。なので、悪魔祓いするには、霊なんかいるわけないだろう、と信じさせればいいわけだ。むちゃくちゃ難しいが。

 

 だから、テーラワーダでも、あまりその話を強調するわけにはいかない、ということがこれでわかっていただけたと思う。

 

 そういうわけで、「テーラワーダではこういうことを言うよ~」とは、大っぴらには言えないこともご理解いただきたい。

 

 その上で、覚悟の上で、これから書くことは読んでいただきたい。

 


 皆さん、冥想なんて超スピリチュアルなことをしておきながら、「テーラワーダは「宗教」ではない」とか、よく言うなあ、と思う。

 

 今では科学の方面からも冥想を解明しようとしているが、私は当面無理だと思っている。測定するパラメーター

 

 いや、今では何を測定するのかのパラメーターも自動生成できるのか。もしそうだとしたら、できないことはないかも知れないが、以前も書いたように、要素(ここでは略すが、結局施設)というのは無限にある。まずはその無限の中からどの測定要素を抽出すればある程度以上の信頼度が得られるのか、ということから始めなければならない。AIならできるのかなぁ。詳しくないからまったくわからない。

 

 しかし、前も脳に刺激を与えて、とかいう記事を紹介したと思う。あれも無理ではないかなあ、と思う。脳を刺激してピアノを劇的に上手くする、とかいったら、「それはなんか無理そうだ」とか思わないだろうか。悟りなんて、ピアノとは比べ物にならないくらい難しい。

 


 さて、やっと宝経の話だ。

 

 なぜ宝経が誕生したのかという話は日本語でもいくらも出てくると思うのでそちらを調べてもらうことにして、結局はある街が疫病やら悪い生命やらに悩まされ、お釈迦様に助けを求めたところ、お釈迦様はアーナンダ尊者に「こちらを唱えながら聖水をまきながら街をぐるっと回ってきてください」と任せたお経だ。

 

 ここからわかるとおり、以降の大乗仏教でもお経が霊に効くとされる元祖は、この宝経だ。それ以前にそういう考えがあったかどうかは私は知らないが、仏教に於いてはこれが最初だ。これは学者が(略)スッタニパータにあるものだ。

 

 しかし多分誤解があると思うので書いてみるのだが、憑いている霊を払えたとしてでは全てが解決するのか、というと、残念ながらそうではない。飽くまで霊の「悪い影響」が無くなるだけで、やはりテーラワーダは「自力」の教え、自分でやらなければ結果は出ない。

 

 「宗教」というと、どうしても「他力」という印象があるかも知れない。テーラワーダは「すがる」わけではないのだが、やはり仏陀、独覚佛陀、阿羅漢を念じるとそれなりの力がある、というので「自力」で仏法僧を念じる。

 

 

 引用はいつも通り、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

sabbe buddhā balappattā
サッベー ブッダー バラッパッター
すべての佛陀の力によって、
paccekānañca yaṃ balaṃ,
パッチェーカーナンチャ ヤン バラン
独覚佛陀の力によって、
arahantānañca tejena
アラハンターナンチャ テージェーナ
阿羅漢たちの力によって、
rakkhaṃ bandhāmi sabbaso.
ラッカン バンダーミ サッバソー
いつでも守られますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 誰も言ってくれないので自分で言うが、ここまでパーリ語とリズムを合わせたのは凄いと思う(笑)。

 

 坪内逍遥訳のシェイクスピアを読んだことがあるだろうか。あれは凄い。ほんとに凄まじい!

 

 今あるかは知らないが、英語の原文といっしょに訳文が載せてある本がある。原文にだじゃれがある部分には、日本語にもだじゃれがあるのだ!もちろんどうしても原文通りとはいかないが、できるだけ近づけたりしてある。そのくせ、いかにも訳文ですっ、といった感じではないのだ。あれを目の当たりにしたとき、私は確か数日間呆然としていた。「そんなことができるのか…」と。

 

 あれもそうだが、以前にも信saddhāの話でも書いた通り、坪内逍遥も演劇に関わっていたし、その情熱がそうさせるのだ。なにごとにもテクニックは勿論要るが、それだけでは乗り越えられない壁がある。

 

 浦沢直樹が漫勉で言っていた。「奇跡よ、起これ!と思って書いてるよね」と。自分が思った通りではつまらない、とまで断言していた。とんでもない人だと思った。さすが、書くもの書くもの大ヒット連発という人は言うことが違う。

 

 欽ちゃんも、全盛期は視聴率を事前にすべて言い当てていたという。

 

 こういうのを、日本語では「神がかっている」とか言う。

 

 宗教とは、そういうことだ。だから、他の宗教にも力がある、と断言できる。が、「テーラワーダは宗教ではない教」では、ここまでの力は出ない。普通には起こらないような力は、肯定できないだろう。

 

 テーラワーダが他の宗教と違うのは、最後までの方向性をしっかりと示してくれてある、ということだ。最終地点が解脱、つまり無常・苦・無我の理解と体験。はっきり言って、テーラワーダが他の宗教と違うことは、この三法印、無常・苦・無我だけだ。なのでテーラワーダから見ると、他の宗教は最終地点まではいくことが出来ない、と言うことが出来る。

 

 では、他の宗教と変わらないのだからテーラワーダも別にあんまり変わり映えしねぇなあ、ということか、というとそれはそうではない。全てをその最終地点に至るために考えられているから、というかゴールを知っているからこそ、そこへ至る方向性がきちんとしている、という点で、他の宗教とは決定的に違う。

 

 そう考えると、他の宗教は回り道をしてしまう可能性がある、ということだ。逆に考えると、テーラワーダだからと言って、簡単に真理に到達することが出来るような、チートが存在する訳ではない、ということでもある。輪廻システムは誰にも平等だ。残念ながら、テーラワーダ仏教徒だけを贔屓してはくれない。

 


 さて引用文に戻ると、この偈は聖糸を巻いてもらう時に聴いたことがないだろうか。テーラワーダが「科学的」だと言うなら、テーラワーダの教えに従って至ることが出来る最終的な境地を存在証明するsacca kiriyaによって、「宗教」のテーラワーダを信じるなら、最終的な境地に至った方々の力を念じることによって力を得よう、となる。難しいところなのだが、これは「他力」なのではなく、「自力」によって念じる、という、外部の人からすると「苦しいんじゃないの~?」という言い方をするしかないのだが、信saddhāによって実践していくと、この意味が分かっていただけるのではないかと思う。

 


 では、宝経。

 

 実はお釈迦様がアーナンダ尊者に伝えた偈は、ここで言う3番、4番、それに14番のものだけだ。それに、預流果であるアーナンダ尊者が解説を加えた、言わば「注釈」だ。

 

 アーナンダ尊者に文句を言うのは大変気が引けるのだが、だからだろうか、宝経はむちゃくちゃ暗記しにくい、というか、ループしてしまう…。

 

 暗記して最初は、ただただ必死なので気にならないのだが、「あ、そろそろ暗記出来て来たかな」と思った頃に、罠にはまる。偈自体は暗記出来ていても、順番がもう…。

 

 大きな声では言えないが、お坊様でもよくこの現象は起こる。


 しかし、護経の中では恐らく最も力があるお経、と言ってしまって良いだろうことは変わらない事実だが、以前にも書いた通り、吉祥経、慈経等とは違い、はっきり言って実践の参考にはならないお経でもある。純粋な護経、だ。

 

 なぜ最強の護経なのかというと、まず預流果の方が唱えると力が最大限になるようにお釈迦様が配慮されている、という点、そして預流果という境地をよく知るアーナンダ尊者が注釈を加えることによって祝福の力が増すように初めからお釈迦様が考慮されている点、そして聖者の中で、我々から一番立場が近いのは預流果だ、という三点による。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

1.
yānīdha bhūtāni samāgatāni
ヤーニーダ ブーターニ サマーガターニ
地上、空に悪霊たちよ、
bhummāni vā yāni va antalikkhe,
ブンマーニ ワー ヤーニ ワ アンタリッケー
集まっていますか?
sabbeva bhūtā sumanā bhavantu
サッベーワ ブーター スマナー バワントゥ
その悪霊たちが喜びの心を持ちますように。
atho'pi sakkacca suṇantu bhāsitaṃ.
アトーピ サッカッチャ スナントゥ バースィタン
また、私の言う言葉をよく聴きなさい。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 bhūtaというのは、神々のことではない。明らかに訳としておかしい。

 

 おかしいのだが、これこそが仏教の力だろう。

 

 上に書いた通り、初めから「悪霊たちよ」なんて言ってしまうと、そういうのが集まってきてしまう。

 

 そして、聖なる教えを聴く我々は、テーラワーダに於いて神々より立場が上だ。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 

 何も知らない頃は「神々に対してこの口調はどうだろう」などと思っていたのだが、信saddhāが無い頃、または弱い頃には、この方が適している。でないと、変なのにやられかねない。

 

 仏教協会のものも、「精霊」として、言わば逃げている。精霊というと、妖精みたいなイメージも入ってくると思う。これも、実に適しているなあ、と思う。

 

 しかし、このお経の成り立ちからして、その訳はおかしい。完全に、このお経はお祓いのお経だ。見えない生命から護られるから、護経。

 

 だから、テーラワーダを宗教だと思えない人には、「悪霊」とはやらない方が良いに決まっている。そういうわけで、文句を言いたいわけではない、ということはわかっていただけたら、と思う。

 

 結局、bhūtaというのは、霊、悪霊、怨霊、幽霊、妖怪、怪異、餓鬼、そういったものだ。

 

 そういえばネットのスピリチュアル関連のところに、面白いことが書いてあった。霊とか言うと特別に思ってしまうが、人間が肉体をもつ霊体なのだ、と。

 


 「地上、空に悪霊たちよ」。以前には神々について書いたが、bhūtaにも、地上に住むものと空にいるものとがいるのだろう、ということがここからわかる。

 

 経典にも、モッガッラーナ尊者が見たとか、お釈迦様が見たとか、やたら出てくる。地上にいるのも、飛んでいるのも出てくる。

 

 日本でテーラワーダがあまりこういう生命について声高に言えない理由は、ここを理由に怪しい人たちがまた商売を始めてしまう恐れもあるからだ。商売するだけならまだいいが、それを信じて心が変な方向へ行ってしまったらもう目も当てられない。

 

 吉祥経の時に書いたように、徳が高い人と巡り合うには、自分が徳が高い人になる必要がある。怪しい人たちは、残念ながら徳の低い人たちを標的にする。まあ当たり前と言えば当たり前で、人を騙そうとする人は徳が低いに決まっている。ということは、徳が高い人になると、少なくとも怪しい人に騙される確率は格段に減る、ということは確実に言える。そもそも怪しいものが目に入らなくなる、縁がまったく無くなる。憐れみをもってそこから切り離そうと活動している人は除くが。

 


 「集まっていますか?」。いますか?ではない。「集まっていますか?」だ。怖くなって来ないだろうか(笑)。そういう覚悟のある者だけが、宝経を唱えるが良い。

 


 「その悪霊たちが喜びの心を持ちますように」。このお経を聴いて、または話の内容を理解して、喜びなさい。または、私が来ましたよ、喜んでください、かも知れない。

 

 ベルリン・フィルティンパニ奏者だったテーリヒェンが書いた本の中に、こうある。ティンパニははっきり言って暇だ。だからオケの練習中スコアを読んでいたのだが、突然音が良くなった。その日の練習は凡庸な指揮者がやっていたのだが、いきなり音が変わったので何事かと目を上げると、ホールの入り口にフルトヴェングラーが立っていた、というのだ。

 

 皆さんもこういう経験はしたことがあるのではないだろうか。その人がいるだけで、場の雰囲気が良くなってしまう人。その人は、徳の高い人だ。

 

 だから、悪霊たちにとっても、預流果であるアーナンダ尊者が来たというのは、喜ばしいことであることには違いない。我々も、早くそうなりたいものだ。

 


 「また、私の言う言葉をよく聴きなさい」。よく聴いて下さいね!

 

 

 最後にもう一度言うが、この話に関しては、遍くテーラワーダに興味のある方々皆に知ってほしい、ということではない、ということだけはわかっていただけたら幸いです。