さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

楽劇~吉祥経の読書感想文7

 私の大好きな楽劇(作曲者本人曰く、「オペラ」とは違うらしいので)に、ワーグナーの「ニュルンベルグマイスタージンガー」がある。

 

 彼の主要10作品のうち唯一の喜劇で、例にもれずむちゃくちゃ長いのだが(それでもモーツァルトよりは短い。長いやつは長いぞ~)、バッハ以来の対位法の大家としての能力をいかんなく発揮している名曲中の名曲なので、もし興味があれば聴いていただけたら嬉しい。

 

 さて、話が長くなってしまうのでかいつまんで説明すると、主人公のおっさん(ギルドの親方)が、よそからきた素直な青年(騎士)に歌(の規則)を教え歌合戦に勝たせる、というものだ。

 

 ここで悪役(こちらもギルドの親方)が、そんなぽっと出の若者に栄冠をくれてやれるか、というわけで(すまん、話が長くなるのでかなり端折っている)おっさんが青年に歌を教えているところを盗み聞きし、その後おっさんの了承を得て、結局この悪役もそのおっさんと青年が共同で作った歌を本番で歌うことになる。

 

 本番、悪役は緊張しまくりで、メモがあるものの口から出てくるのはなぜか「鼻血の池」とかになってしまう。

 

 会場騒然。なんだあれは、と。

 

 悪役は、いやいや違うんだ、これはあのおっさんが作った曲なのだ、とばらしてしまう。

 

 会場超騒然。

 

 おっさん、「その通りだ。これは私とあの青年とで共同で作った歌であるが、ほんとうに作った曲はこうである。青年はもう暗記している。では歌ってもらおうではないか」。

 

 青年が歌うと、もう上手すぎて美しすぎて、会場騒然。

 

 当然のこと青年が歌合戦に勝ち、おっさんが「では栄誉ある、伝統ある栄冠を受け取ってください」と。

 

 しかし青年は、「そんなものはいらない!ただ私は愛を歌い上げたかっただけなのだ(結局、歌合戦に勝ったら一目ぼれした女の子と結婚できる、という話だったのだ)!」と断り、会場は「なんて謙虚な青年なんだ!」と四度会場騒然。

 

 しかしすこし喧騒が収まると、そのおっさん、やおらに立ち上がり、「伝統をバカにしないでください!」とたしなめる。

 

 会場厳粛なムードとなり、一転「おっさんの言う通りだ!おっさん万歳!伝統万歳!」となり、終了。


 歌詞には出てこないので、この悪役とおっさん、青年とは最後どうなるのかは描かれていない。大概の演出では仲直りしたことにすることが多いが、中には最後まで悪役であったり、ただ静かに出ていくだけだったりすることもある。


 問題なのは、ヒトラーがこの曲が大好きだったこともあって、国威発揚に使ったものだから、いまだにワーグナーイスラエルで演奏すると物議をかもすことがある。イスラエル・フィル、ワーグナー上手いんだが…

 

 また最後の方の歌詞も、政治的に問題になることもあるが、西洋の国歌の歌詞も結局はそういうものが多い。今はどうなったか知らないが、ドイツも一番を歌わないとか、まあいろいろある。作曲(国歌としてではないが)はハイドン


 先日俳優が逮捕された関係上、出演していたドラマ等が配信停止になったが、名作も多く、すぐに「作品に罪はない」という声が出てきた。

 

 真田丸はそこに出てきた新説を歴史家も支持を示したりと大変話題になった作品で、私も大いに政治についてなど勉強になった。


 ワーグナーも、はっきり言って発言にはいろいろと問題があった人だ。しかし、私も思う。作品に罪はない。政治的に封印してしまうには、もったいなさすぎる、と思うのだ。

 

 真田丸もそうだ。昔ながらの大河ドラマファンには「50秒関ヶ原」などと揶揄されそうとうな批判を浴びたが、脚本家が密室劇が得意なのだから「らしいなあ」と大笑いしながら見ていた。

 


 さて、引用はいつも通り、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

phuṭṭhassa lokadhammehi
プッタッサ ローカダンメーヒ
世間法という自然に起こることに
cittaṃ yassa na kampati,
チッタン ヤッサ ナ カンパティ
揺れないこと、
asokaṃ virajaṃ khemaṃ
アソーカン ウィラジャン ケーマン
悩まないこと、煩悩を無くすこと、恐怖がないこと、
etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
エータン マンガラムッタマン
これらが最高の吉祥です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 ここから不可能なこと(笑)が出てくる。

 

 「世間法という自然に起こることに揺れないこと」。自然災害から、毀誉褒貶まで、なにからなにまでに対して「揺れない」。それが阿羅漢。

 

 「悩まないこと」。それが阿羅漢。

 

 「煩悩を無くすこと」。それが阿羅漢。

 

 「恐怖がないこと」。あまり日本では言われないような気がするが、テーラワーダの国ではここがかなり重要なようで、abhayaというのはお坊様の名前でもよく聞く。まあ結局それが安穏、というわけだが、「恐怖がないこと」。それが阿羅漢。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

etādisāni katvāna
エーターディサーニ カットゥワーナ
この吉祥のことを
sabbatthamaparājitā,
サッバッタマパラージター
しっかりと実践する人は、
sabbattha sotthiṃ gacchanti
サッバッタ ソッティン ガッチャンティ
煩悩に負けないですべての幸福が得られる、
taṃ tesaṃ maṅgalamuttamaṃti.
タン テーサン マンガラムッタマンティ
これらが最高の吉祥です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 言うことはなにも無い。読んで字の通り。

 


 護経の後には、大抵

 

etena saccavajjena~

 

と、祝福の文句が付く。「この真実の力によって」。sacca kiriya。これは以前に書いたような気がする。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 これだこれだ。

 

 この~の部分には、loko hotu sukhī sadāとかciraṃ tiṭṭhatu sāsanaṃとかpātu tvaṃ ratanattayaṃとかbhayā vūpasamentu teとか、なんでも入る。なんでも入るが、この書き方でわかるだろうか、リズムは一致している。

 

 また、なんとなくではあるが、このお経だとこれは言わないかなあ、みたいなものはある。まあ別に間違いというわけでもないし、テーラワーダは日本の大乗仏教と違い打ち合わせというのをほとんどしないので(大きい法要などの場合は勿論それなりにはするが、我々のイメージからすると結構「それなり」だ)、祝福のお経を唱えていても、ここら辺では「すっ」とお坊様方が落ちる。

 

 経典部分では、スリランカ国内で違う、ということはあり得ないが、経典でない部分は、結構違ったりする。回向の偈も、単語が違ったりして、やっぱり「すっ」と落ちる。

 

 テーラワーダでは、比較的、「即興」というのを重視するような気がしている。「その場その場に合わせた智慧」だ。

 

 カヴィ・バナという、歌う説法、というのもある。今では実は覚えてしまってから歌うお坊様もいるらしいのだが、本来はその場で即興で詩を作る。しかも内容は説法だ。他にも、パーリ語で即興で詩を作り、祝福下さるお坊様もいらっしゃる。

 

 そういえば、スリランカは長い間、歌といえば仏教の歌以外禁止されていたことがある。歌=仏教の歌。いくらなんでもやりすぎじゃないか、と私などは思うのだが…。

 

 前にも書いたかもしれないが、シンハラ語の文法、というか詩の規則は、死ぬほど難しい。

 

 上に書いたマイスタージンガーでも、1幕で「これこれの規則、あの規則、この規則、規則、規則、ああ規則」なんて歌っていたりする。

 

 青年は、「そんな規則なんてどうでも良い!」と気にしないが、後に主人公のおっさんは「規則はきちんと学ばねばダメだ」とたしなめる。

 

 しかし、最後に青年とおっさんで作った歌は、その規則からは外れる部分もあり、おっさん自身も「新しすぎるかも」と迷った。

 

 でも本番で歌ってみたら、伝統を大事にする親方方も大絶賛。

 

 一度は伝統をきちんと学ばないと、糸の切れた凧のように、どこにでも行ってしまう。しかし一度伝統をきっちり学んでしまったら、あとは自由に羽ばたける

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 

 スダンマ長老に言われたことがある。「嫌になるほど法(ダンマ)について考えことがありますか?」と。

 

 私は震え上がってしまった。それなりに法については詳しいほうだと勝手に自負していたが、「お前、全然足りねーんじゃね~の?」と言われてしまったのだ。

 

 こういう時、お坊様はいつも笑顔だ。

 

 

 そういえばマイスタージンガーの悪役は大概ベテランがやる役柄で、むちゃくちゃ腕がある人がちょっと余裕をもってやるのが適している役だ。

 

 歴代の名歌手(バリトン)が当たり役としてきたもので、主人公役を喰ってしまう場合も多い。

 

 演出家によるのかも知れないが、この悪役はほんとうに歌手によって作り方が変わってくる。私が生で見た公演などは、2幕の最後でくちゃくちゃにやられるこの悪役を見せられ、思わず涙してしまったこともあるくらいのものまである。あれはほんとうにこの悪役が好きになってしまった。

 

 それに比べ、主人公像はかなり固まっている。あまり遊べる要素が無いと言えば無い。

 

 こういう、幅のある役というか、自分の発想が試される役というのは、百戦錬磨の歌手にとって、意欲を掻き立てられるものなのかも知れない。一生懸命やってはいるのだが、意識してちょっと肩の力を抜いて、しかし自由に演じる。

 

 私としても、もうおっさん。ああいうのには、憧れますな。

 

 そういえばこの楽劇、ヒロインはいるが、他はおっさんだらけ。おっさん好きの向きには、たまらないものがあると思う。

 

 またなぜか知らないが、このワーグナーという作曲家、すげえちょい役にものすごい良いメロディーが割り振られていたりする。ちょい役といっても歌う箇所が少ないだけで、舞台には長い間出て演技しなければならない。そのモチベーションに配慮したのかも知れない。

 

 私はワーグナーが好きすぎて、独語もこの歌詞から学んでいたりしたが、古語というか雅語というか、が多いらしい。また、日常生活では決して使わない言い回しだったり。

 

 だから、たまに外国人にはわからない、独語ネイティブにしかわからないギャグになっていたようで、日本語で言うと「かんばせに虫がついておじゃる」みたいな感じだったのかも知れない。大笑いされたのは一度や二度ではない。もう今はそれすら忘れてしまったが。

 

 

 吉祥経はこれで終了。