さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

四つの御守りの冥想~佛隨念1

 ブログのカテゴリーに、「冥想」を追加してみた。

 

 知識的な観点からの冥想の話題に興味のある方は、読んでみていただけると幸いだ。

 


 四つの御守りの冥想。

 

 テーラワーダ文化圏では、普通に御守りが売られている。ブッダや大阿羅漢から有名なお坊様まで、いろんなものがある。

 

 まあ聖糸聖水だってそういうものだといえばそういうものなのだから、まったく力が無いとは言い切れない。日本の御守りといっしょで、きちんと祈祷されているのかどうか、とかそういう話になってくる。

 

 しかし、一番力がある御守りがある。この四つの冥想だ。これだけは自分でやるものなのだから、確実に効果がある。

 

 が。

 


 以前名古屋でスマナサーラ長老がおっしゃっていた。

 

 「イエス様だって失敗したでしょ?」と。

 

 なにを言っているのかというと、結局自分は死んでしまったではないか、ということだ。この時私は、「とんでもないことを言う人だ!」と戦慄した。宗教的に、とかではない。「それじゃ意味ないでしょ?」と長老は言いたかったのだ。

 

 それからだいぶ経って、質問したことがある。「私は人の影響を受けすぎるような気がします。どうしたら良いですか?」と訊いたら、「この例えで覚えてください。大変な疫病などを治療する時、医者はどうしますか?自分は完全防備して治療するでしょ?そこで自分も病気になってしまったら人に余計な負担をかけるし、最悪でしょ?」と。

 

 やたらと逃げ道を探す私がその時ポンと頭に浮かんだのは、野口英世のことだった。しかし、それも「失敗でしょ?」と言いたかったのだ、長老は。

 

 業とかの話は今は置いておこう。

 

 飽くまで私個人的な感想だと思って聞いてほしいのだが、聖書を信じるとすると、イエス様は、最初の頃は非常に順調に活動をしていた。しかし、終わりに行くほど、「?」という発言が増えてくる。

 

 最初の頃、よく人に触れて病気を治していた。私は、あれは別に嘘だったとは思っていない。

 

 催眠術とか魔術とか調べていくと、「ロイヤル・タッチ」というのが出てくる。ヨーロッパ(イギリスだったか?)ではその昔民衆に触れるだけで病気を治す王が何人も出てくる。その為に地方から何百人も巡礼(?)に来るのだが、王が次々に触れていき病気が治ってしまったのだ。

 

 私が見た本では「瘰癧(るいれき)」という、私には何の病気だかさっぱりわからないものに限定されていた、などと書かれていたが、催眠術というか、信心というか、そういう心があると、実際にそういうことは起こる。

 

 さあ、怪しい話だろ(笑)?

 

 マイケル・ジャクソンの、ブカレストライブの映像を見たことがあるだろうか。最初に彼が出てきて、確か91秒近く、不動で立っている。ただ立っているだけだ!

 

 しかし、そこで次々と気絶する観客が現れる。あれと一緒だ。

 

 原理は、私は専門家でもないし説明してもどうせ間違っているだろうからしないが、そういうことは、決して起こらない、ということでもない。

 

 そして、イエス様がなぜそんなことができたのかというと、それは慈悲の心が本物だったからだ。しかし、キリスト教では、というかテーラワーダ以外で、慈悲喜捨についてきっちりと規定しているのは私は見たことがない。

 

 慈悲喜捨というのは、本来生命が生まれつきに持っているものでは「ない」。たまに業が良くて生まれつき持っている生命、人もいるが、基本的には強引に育てないと生まれないものだ、とテーラワーダではされる。

 

 なんとも規定しにくいところだが、慚愧から慈悲喜捨が生まれてくるところもあるし、だからテーラワーダ以外の社会で慈悲喜捨が完全に無いか、というとそういうわけでもない。宗教がある所にはある程度あるし、宗教など程遠い社会でも完全に無いのか、というとまたそれもそうとは言い切れない。しかし、大乗仏教で言う「仏性」と同じように、「生命に本来そなわっているもの」では、ない。

 

 だから、まず最初は「泣きながら」、慈悲の冥想はしなければならない。


 私はよく知らないのだが、新興宗教で、人に触れて癒す、なんてのもある。あれでは無理だろう、と思う。

 

 このブログでは、よく「腕が」なんて言い方をするが、一言で言うとこの「腕」というのは、慈悲の心、慈悲の念、さらに言うと慈悲の気分のことだ。

 

 で、上に書いたように、厳しい現場に行く人ほど、自分のことが守れないと、怪物の返り血を浴びて自分も怪物になってしまう。だからだ、テーラワーダを真剣に実践しようとすればするほど、「私が幸せでありますように」が大切になってくるのは。そこまで考えていない人ならば、正直な所、そこまで重要ではない。というわけで、「私が」と「生きとし生けるものが(他の生命が)」は同時に育てていくのが理想的ではある。

 


 さて、イエス様については、神に対する信心はほんものだったと思う。しかし、世の中は極楽浄土ではない。綺麗なことを言おうとすれば言おうとするほど、苛烈な抵抗に遭う。

 

 だから、イエス様に腕が無かったとか、修行が足りなかったとか、そういうことが言いたいわけではない。「自分を守る術をきちんと育てなかったでしょ?」と、長老は教えてくれたのだ。

 

 残念ながら、「自分のことは置いておいて」と言っていると、過酷な現場続きでは、いつか息切れしてしまう。ここがちょっと、テーラワーダが他の宗教とは違うところかなあ、と思う。

 


 また、四つの御守りの始めにある仏隨念も、そうだ。

 

 残念ながらこればっかりは、大乗仏教と混ぜてしまうと後々問題になる。

 

 超真剣に冥想実践をする、とかでなければ、別に問題にはならない。しかし、激烈に冥想したい人は、大乗仏教における仏陀の定義と、テーラワーダに於ける仏陀の定義は、きちんと分けておかないと、マズい。

 

 習い事などでもそうだと思うが、最初に、自分の学ぶスタイルは一つに絞った方が良い。大乗仏教をベースにするならそれも構わないし、しかしテーラワーダをベースにするのだと決めたのなら、大乗仏教とは教義は混ぜない方が良い。そしてある程度わかってきたら、「お、あっちにもいいとこあるじゃん」となれば、それで良い。でもそれまでは、スタイルは一つに絞った方が良い。日本には、大乗仏教の定義を「テーラワーダだ」と言っている人が多い。学者の影響かも知れない。今までの学者は大抵大乗仏教出身だ。興味が無い人にとっては些細な違いだが、テーラワーダを勉強してきた者から見ると、とんでもない違いだったりする。

 


 引用はいつもの如く、富士スガタ精舎(富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。

 

 以前にも書いたが、スリランカのお坊様はこの文章のまま覚えている方もいるし、そのバリエーションだったりもするし、まったく覚えていない方もいらっしゃる。そのくらいのものだが、冥想の文言としては、慈悲の冥想などと同じく、教義的になんの問題もないものだ。

 

 ということは、従って、パーリ語で書かれているからといって、これは三蔵にあるものでもない。注釈書でもない。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

四つの御守りの冥想

 

buddhānussati mettā ca
ブッダーヌッサティ メッター チャ
佛隨念、慈隨念、
asubhaṃ maraṇassati,
アスバン マラナッサティ
不浄隨念、死隨念、
iti imā caturārakkhā
イティ イマー チャトゥラーラッカー
この四つの冥想は、
bhikkhu bhāveyya sīlavā.
ビック バーウェイヤ スィーラワー
戒を守る佛弟子たちの御守りです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 もうお気づきだろうが、スガタ冥想センター関連の「仏」の字はすべて「佛」になっている。

 

 スダンマ長老が「「仏」だと死体のことも指すでしょ?」とおっしゃっていたが、私にはよくわからない。どっちでも良いような気がするが、ここは師匠に従っている。有行の善心(略)。

 

 ここでの不浄隨念は、以前このブログに出したことがあるものだ。

 

 この四つの冥想が、「戒を守る仏弟子たちの御守りです」とはっきり言っている。

 

 私自身、いわゆる「御守り」が全く効かないものだとは思っていない。しかし、「効く効かない」はあると思っている。結局は徳の高い人、神々が力を込めれば効く、という話になる。

 

 私だって、もともとあんなものに効果があるとは思っていなかった。しかし、今はあるかわからないが、仏教協会に入ると、ラミネートされたお釈迦様のカードがあって、あれに触れた瞬間とんでもないパワーを手から感じてびっくりしたことがある経験上、そういうことを言うようになった。しかしそこに誤字があったりしてな(愚痴)。

 

 怪しい話ついでに、自分の徳が高くなると、それなりに巡り合う御守りなども選別されてくる。な~んか気になるものが出てきたりするのだ。まあこれは御守りに限った話ではなく、進むべき道や、関係する人なども自然とそうなってくるのだろう。だとしたら、より自分は善行為をしておかないと、周りには徳の低いものが集まってくるようになる。ただでさえ、徳が高いからといって、徳の高い人ばかりが集まってくるわけではないのだから。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

佛隨念

 

ananta-vitthāra-guṇaṃ
アナンタウィッターラグナン
智慧のある比丘は、
guṇato'nussaraṃ muniṃ,
グナトーヌッサラン ムニン
無量の徳を持つという
bhāveyya buddhimā bhikkhū
バーウェイヤ ブッディマー ビックー
世尊の徳を観察して、
buddhānussatimādito.
ブッダーヌッサティマーディトー
佛隨念を実践します。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「無量の徳を持つという」。なかなかここまでのイメージにはいかなかった。

 

 以前も書いたように、正自覚者の徳を梵天が言おうとしても、その寿命が尽きても言い切ることはできない、とも言うし、例えば体育館を考えよう、そこを杖を突いて左から右に歩くとすると、智慧第一と言われたサーリプッタ尊者の智慧はその杖を突いたところの面積くらいだ、とも言われる。体育館がお釈迦様だ。

 

 まあたとえ話だからどのくらいのことかはよくわからないが、地球と宇宙全体、というほど絶望的な差ではないのかも知れない。

 

 仏教というのは、仏陀が説いた教えだから仏教という。その佛陀、正自覚者、お釈迦様を尊敬しないで、その仏教が身に付くはずがない。「仏陀を念じないのならば、法を念じないのならば~」というのは、そういう意味ではない。宗教として受け入れられないのであれば、「宗教は関係ないでしょ?」と言いながら、慈悲の冥想や、マインドフルネスをとりいれたヴィパッサナー冥想などだけを実践すればいいのであって、悟りを目指すのに佛陀を尊敬しない、とかはもうあり得ない。その悟りを規定された本元を否定して、なにが良いことがあろうか。

 

 インド等の大乗仏教がどう言うかはわからないが、日本の大乗仏教では、「声聞(乗)は地獄に落ちる」なんて言い方をするところもあるのではなかったか。なにも阿羅漢を崇拝する必要は無いが、そこまで貶めておいて、そんな境地に達することができるわけがない。まあそもそも「そんなの意味なく、正自覚者しか目指してませんから」と言うのだから、まあテーラワーダ的に言うと「そうですか。何百万劫も修行してまずは正自覚者の前で誓願することを目標に頑張ってください」としか言えない。そうならないとも限らない。

 

 テーラワーダでは極めて悪者扱いされるデーワダッタ長老も、お釈迦様には「次の生まれは地獄ですが、何百劫もの後に、今世で真理と縁ができた関係上、〇〇という独覚佛陀になります」と予言されている。テーラワーダ上、正自覚者の発言は絶対だ。でないと、正自覚者が嘘をついたことになってしまう。三蔵というのは、その覚悟の上に成り立ったものなのだ。ちょっと外部の人には、そこまでの情熱は理解してもらえないかも知れない。だからお釈迦様に対する信saddhāの無い人からは、いろいろ言われる。そういう人にこんなことを説明しても、分かってもらえるはずもない。

 

 だからだ、私が「大乗仏教の学者が訳したものは、どうにも」と感じるのは。この佛隨念の対象がどうしても違う。

 

 例によってまたいい加減なことを言うが、明治以前では「お釈迦様でもわかるめぇ」と言っていた(後代に作られたものだったら申し訳ない)。しかし廃仏毀釈以降なのだろうか、それとも高度経済成長以降なのだろうか、お釈迦様の影はずいぶんと薄くなってしまった。まあもともと日本にはお釈迦様の像自体が極めて少ないが。そこら辺はまったくわからない。

 

 大乗仏教で修行するなら、絶対に大乗仏教をベースにした方が良い。そちらの長年のノウハウもあるだろう。しかし、テーラワーダをやりたいと思うのなら、教義はきちんとテーラワーダに則ったものにしておかないと、冥想が進んで深いところに行ったときに、困ることになる。テーラワーダは、そういうところで、矛盾が無い。そういう矛盾だ、と思うところに突き当たって、考えて考えて、でも答えが出ない時、ふと経典を見たりしたら「あ!」と思ったりする。だから、悟りへの道も、確実に敷かれているのだろう、という確信が、私にはある。

 

 

 なんの関係もない話だが、思いついてしまったので。

 

 これはテーラワーダというよりアーユルヴェーダの話だが、もしかしたら以前書いただろうか、「鼻毛を抜くな。はげるから」ということから始まる本があるそうだ。

 

 それと同じ(?)で、アーユルヴェーダでは生理現象を否定しない。あくび、おなら、げっぷ等々。涙も決して我慢するな、とある。

 

 日本では、やたらとあくびは忌避されるし、おならなどは言語道断wだろう。

 

 以前お坊様が私の前でやたらとげっぷするので「さすがにどうか」と思っていたのだが、そういう意味だったとは。そういうわけで、スリランカ関係では、法要中にあくびしたって誰も気にしない。他のことはわからない。文化的に、日本ほどタブーでないことだけは確かだ。

 

 日本では、生理現象の逆=煩悩の滅尽、みたいなイメージがあるような気がするが、いや、私もそれがすべて間違いだとは言わない。しかし生理現象を否定したということは、それは身体が求めていることなのに無理に押さえこんでしまう、ということになってしまう。

 

 睡眠などはなかなか難しいところで、じゃあ眠たければいつでも寝れば良いのか、となると「う~ん」だが、テーラワーダ文化圏では、お坊様もよくお昼寝なさるのを知っている人も多いと思う。あれは怠けではない。

 

 自分から湧き上がってくる感情、気分などを否定しまくるのも、だから問題になる。「怒りが嫌だ」という気持ちは痛いほどよくわかる。私もそうだからだ。「欲が厄介だ」という人もいるだろう。

 

 しかし、それと「意欲」は違う。欲だと思ってももしかしたらそれは心の底では本当に求めているものかも知れない、怒りだと思っても、それはほんとうに心の底から嫌悪しているものなのかもしれない。しかし、それらはもしかしたトラウマかも知れない。

 

 だから、ヴィパッサナー冥想でも、感情を否定するのではなく、「気づいてください」と言う。思考の否定ではなく、どういう思考が生まれたのか「気づいてください」ということだ。でないと、モグラたたきのように、思考が現れるたびに怒りで潰す、結局それは怒りの冥想じゃん!ということになってしまう。

 

 また、現れてきた思考に意味付けをしてしまっても、道を見誤ることがある。だから「思考するな」なのだ。思考が現れたら「気づいてください」。それだけ。ある日突然その答えが見えることもあるし、見えないこともあるかも知れない。

 

 そういえば、私は冥想を始めて暫くしてから、色んなものが見えるようになってしまったが、もう何年も前、なんか見えるようになった最初の頃に見た、なんだか幾何学模様のようなものと数字、それが昨日「あ!」と思った。

 

 怪しい話(笑)なので信じていただかなくて結構だが、これはアビダンマで言う「業・業相・趣相」みたいなものかな、と思っている。最後にいつもの本(もう面倒だから書名は書かない…)の81頁を引用して終わりにしたい。

 

 

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業・業相・趣相 また、ここでは、この6種の所縁を論の用語を用いて、業・業相・趣相とも言うのである。現生の結生・有分・死は、前世における臨終の速行によって捉えられた業・業相・趣相の中のどれかを所縁とするのである。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 私が言いたいのは、そういう所で何か見えたところで、それはその対象そのものではなく、それに関連したものだったり、それに関連した環境だったりすることもある、ということだ。

 

 夢判断とは、ちょっと違うと思う。「象徴」というわけではないから。恐らく。よくは知らない。すまん。

 

 

 まあとにかくこういう話も、人によって見える見えないがあるし、そもそも興味があるかないかもまったく違う。

 

 経典にもあるではないか。最後まで引っかかる場所が、(恐らく業によって)人によってまったく違う。だから、悟りに至るまでの道筋も、人によってまったく違う。方向も違えば、順番も違う。

 

 今日の話を見て、「これはおかしい」と思った方もいるかも知れない。そういう人は、私の方向とはまったく違うのだろう。そっ閉じ願いたい。

 

 ただ、もし誰にも言えずに「こんなことがあったんだけど」という方がもしいるのなら、私にはこういうことがあった、という事実を披歴することによって、「あ、こういうこともあるんだ」とか「こういうことがあってもいいんだ」という気持ちになれるとしたならば、これ以上ない幸せだ。

 

 なぜかというと、私は長年これに悩まされてきたからだ。お坊様はヒントをくれるだけで、がっつり答えてはくれないことが多い。まだ日本ではそういう時期ではなかったのかも知れない。「お前なら自分で答えを見つけられるだろう」という期待だったのかもしれない。知ってはいるのだが、日本の文化背景に合わせて答えることはできなかっただけかもしれない。お坊様の中でも、「見える」人は少ないのかも知れない。そこら辺はまったくわからない。

 

 もうぶっちゃけるが、実は私は冥想を止められていた。私だって、皆さんのように激烈に冥想したかった。しかし、見えざる力wによって、いつも止められた。いつも、だ。いつもいつも。

 

 嫁さんの話によると、どうもお坊様にはタイを勧められたことがあったらしい。相当前、テーラワーダを知って結構間もなくの話だ。しかし嫁さんは外国には出たことがなく、恐らくそのお坊様もそちらは諦めたのかも知れない。

 

 最近は、前ほどは止められなくなった。「前ほどは」。以前は数秒で止められることもあった。

 

 これが何を意味するのか分からない。やっとこんなことをブログで書けるようになった、ということは、日本語環境でもこういうことを書いていい時期には来ている、ということだろう。

 

 

 ああ、やっと長い間ストレスだったことを発散することができたー!

 

 というわけで、神々を味方につけると、もしかしたらめんどくさいことがあるかも知れない、という話(笑)でした。

 

 ま、あまり社会的なことばかり気にかけていても、ね。