さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文37

 このブログの一日のアクセス数が、なんと100を超える日が出てきた。

 

 「おい、アビダンマだぞ!正気か!?」と思うのだが、もう日本の未来は明るいとしか思えない(笑)。

 


 さて今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 法隨念。

 

 277頁。

 

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法隨念 経典を初めとする道・果・涅槃などの法徳を所縁として繰り返し念じること。

 

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 ん?

 

 西澤先生の本の71頁。

 

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法隨念 dhammānussati 教法、道、果、涅槃の法の徳を所縁として繰り返し念じること。

 

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 むむむ?

 

 これでは結局、いつも我々がやっている、テーラワーダを学ぶことはすべて法隨念に入ってしまうではないか。

 

 まあサマタとしてやるのだから、結局短い言葉で繰り返すのだろうが、仏隨念と違い、sandiṭṭhiko, sandiṭṭhiko, sandiṭṭhiko…とやる、というのは聞いたことが無い。

 

 別にやっても問題はないのだろうが、こちらは仏隨念以上に、法に対して理解が無いと意味がない気がする。ただ私が「気がする」だけだが。

 

 なので私としては、業処とは言い難いが、もう少し範囲を狭くして、教法を学ぶこと、経典を読誦、暗記、意味を理解することなどあたりまでにしたいと思うのだが。法話を聴く、も法隨念に入れていいのかなぁ。まったくわからない。

 

 結局、サマタとして法隨念をやるには、どうしたらいいのだろう…


 というわけで、広義には経典を読誦、暗記は法隨念に入る。立派な冥想、と言ってもいいのだが、「読経も冥想ですよ」とお坊様が言ってしまうと、また問題が起こるような気がする。なにも意味を理解せず、呪文になってしまっては意味が無いからだ。

 

 しかし、最初は意味が分からなくて当然だ。だから日本語でも良いのだが、私としては、どの日本語訳も暗記して大丈夫ですよ、とはちょっと言えない。

 

 具体的に言ってしまうと、ウェープッラ長老のものとか、仏教協会のもの、もちろんスガタ精舎のもの、そこは推奨できる。

 

 しかし基本は、やはりパーリ語で暗記してほしい。間違えまくるよりは、いい加減な発音でやり続けるよりは、日本語の方が良い、というわけで、しかも意味が分かった方が良いし。

 

 そういえば、慈悲の冥想や、不浄隨念の文句などは、日本語でやった方が効果的だ。慈経、勝利の経はスッタニパータなので歴としたお経だが、他のものはあとから作られたものが多い。

 

 それで思い出した。勝利の経も、通常お坊様が暗記している経典ではない。

 


 やはり経典の読誦はした方が良い。理想としては、朝晩時間を決めて、お供えをして、日常読誦経典の中から、例えば曜日を決めて「この経典」などとやる方が良い。これは大乗仏教と同じだ。

 

 もしやれるようになったとしても、戒律の話と同じで、「ああ~、できなかった」と後悔すると逆効果、悪行為だ。「ああ~、今日もできたー!」と喜ぶのは大変良いことだ。


 私は以前にも書いたように、冥想が嫌いだw。しかし、結局このブログを書くのにいつも2時間くらいかかってしまっている。まあこれを法隨念だと思ってしまっても、誰にも責められることはないだろう。うん。そういうことにしよう。

 


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僧隨念 聖僧伽の徳を所縁としてくり返し念じること。

 

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 聖僧伽。

 

 実はサンガというくくりは、いくつかある。ここを行ったり来たりして、お坊様は、私からすると「方便」というような使い方をしていたりする。

 

 ariya saṅghaは聖者達、即ちcattāri purisayugāni aṭṭhapurisa-puggala四双八輩を指す。まあここら辺、どうなのだろうなあ。なんか私が触れると危なそうなので、ここら辺にしておく。

 

 そういえば、皆さんスマナサーラ長老のことはよく思い起こすだろう。あれは自信をもって僧隨念と言っていい。他にもアチャン・チャー長老や、マハーシ長老、パオ・セヤドー、アチャン・ブラーム長老、アリヤダンマ長老、等々。しかし気を付けてほしいのは、お坊様は信仰の対象ではない、ということだ。僧隨念は良いが、信saddhāの対象は、テーラワーダに於いては飽くまでお釈迦様一人だ、ということをどうか忘れないでおいてほしい。

 


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戒隨念 自己の戒徳を所縁としてくり返し念じること。

 

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 五戒に慣れてくると、お酒とも縁遠いし、殺生もまったくしなくなる。なんかもの足りない。ではどうすればいいのか。

 

 「私は今日も五戒を守っています」と繰り返し念じ、喜ぶのだ。もう何年も守っている人は、「もう何年も守っています」と、喜んで欲しい。

 

 まあこれはすさまじい力を持つ。戒律の専門家、スダンマ長老が言っていた。「五戒を守っていると堂々と人前に出ることが出来る」と。緊張するとかそういうのとはちょっと違って、人前に出るのに後ろめたさが無い、ということだ。

 


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捨隨念 自己の施捨の徳を所縁としてくり返し念じること。

 

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 自分がしたお布施を思い出して、喜ぶこと。私もよくやるが、まあ楽しいですよ。

 


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天隨念 「信などを有することによって天に生まれた諸天と同じ信を、私も持っている」などと、自己に備わっている信などの徳を所縁としてくり返し念じること。

 

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 なんだかこの説明だとキリスト教の天国と同じような気がしてしまうので、ここは「五戒」でも良いのだが、これが清浄道論にも書いてある伝統的な説明だ。

 

 


 これ以降は私の完全オリジナルだ。テーラワーダがそう教えている、ということでないことだけは先にご了承いただきたい。

 

 私はこの説明ではまったくつまらない。信でも良いが、五戒でも、「それじゃ戒隨念じゃん」と思うし、そのわりにテーラワーダでは神々の話が多い。

 

 伝統的には、護経を唱える前には神々を呼ぶ。意味を全く知らなかった頃から、

 

samantā cakkavālesu
atrāgacchantu devatā,


全世界にいる神々は集まってきて下さい

 

 この偈が大好きだった。

 

 仏教協会のものには無いが、慈悲の冥想もかなり神々に対してやるし、回向もやたらと神々に対してする。

 

 昨日私は「仏隨念をやっているとお釈迦様が目の前に現れる」と書いたが、「うんうん」とそう思える理由は、実は私は神々が見えたり声が聞こえたりするからだ。

 

 スマナサーラ長老の、確か施本だったと思うが、「神々は堂々と、「でんっ!」と現れるんです」みたいなことが書いてあった気がする。また、「(でも)勝手な連中ですよ」とも。

 

 その通りだ。テーラワーダの神々、正見の神々は、スパルタだ(笑)。私としては、「お金下さい」と言うのだが、反応は、無い。

 

 しかし冥想していたりすると、「今度はこの冥想をしなさい」とか、「次はここへ行きなさい」とか、こちらのまったく理由がわからないことを指示してきたりする。

 

 昔、そんなことは全く分からない頃、なぜか「そっちに行ってはダメだ」という空気を感じたのだが、構わずそちらに行っていると「絶対ダメだ」と。私も意味が分からないので意地でそちらに行こうとしたのだが、まあなぜか押し返してくる。あの時はそうとう頭にきたもんだが、結局根負けし、引き返した。あの時の意味はまだわかっていない。

 

 初めて見た(?)時は、スマナサーラ長老の姿に見えた。まあ私だってスマナサーラ長老の言うことなら聞く。しかし時間がたつと、今度はスマナサーラ長老のお面をかぶった比丘(袈裟を来た人)に見え、そのうち姿はあまり見なくなった。


 こういう天隨念の危ないところは、スピリチュアルの話によくあるように、実は低級霊が神々とみせかけることもあることだ。私も何度か騙されそうになったことがある。非常に判断に迷うこともある。あまりにそればかりに依存していると、「そうじゃねえだろ?」と言っているのかも知れない。そこら辺はまったくわからない。

 

 私は別に、最初から自分に天隨念が向いていると思っていたわけではない。テーラワーダをやるまで、そんなものに縁があるとは全く思っていなかった。しかし最初に好きになったお経は宝経だったし、護経の中で好きなものと言えば、他にもisigili sutta、mahāsamaya sutta、āṭānāṭiya suttaなど、正直法話するには内容に困るようなものばかりだ。初転法輪も、どちらかというと好きなのは後半の、神々が、というところだ。皆好きなようだが、四聖諦とか、八正道とか、よくわからん。

 

 なので、他にも方法はあるのかも知れないが、少なくともお経が効果的である、ということは間違いなく言える。今はあまりできていないが、以前はよく護経(4法門と、後に付け加えられた1法門)全部唱えていた。

 

 というわけで、神々を個別に隨念しても、例えば毘沙門天とか、悪くはないのかも知れないが、テーラワーダの教義をきちんと勉強しておかないと、テーラワーダでない、正見ではない神々に取り憑かれてしまう。邪見の神々はいる。というか、そちらの方が圧倒的に多いだろう。

 

 しかし私は、キリスト教の神々(こんなこと言ったら、キリスト教の人には殺されそうだが…)や、大乗仏教の神々、うちのもとの宗教の神々とは仲が良い。色々教えてくれる。しかし、もとの宗教の神々(神々ではないのかも知れない。そこまではわからない)には、強硬派もいる。とにかく神々といえども、人間と同じで、色々なのがいる、ということだ。だから、念じる対象は相当気を付けた方が良いわけで、私個人としては、「この神!」と限定しない方が吉ではないか、と思っている。だからこその、伝統的な天隨念のやり方なのかもしれない。「あんたらと立場的には同じなんですけど?」くらいの自信がないと、下手するとやられてしまう。


 結局慈悲の冥想で神々に対してやるのだって、天隨念とも言える。そういう所に喜びを感じたりするのなら、もしかしたらあなたも天隨念に向いている人なのかもしれない。

 

 まあこれ以上は細かく言っても仕方が無いのでここまでにするが、このブログ全体で結局は天隨念の注意事項に関して書いていることが多いので(黙っていましたが)、興味のある方はまた読み返してみて下さい。

 

 これはマンガラ長老から聞いたから間違いないのだが、神々というのは、大きな樹や、大きな石、神社等にいる、とのこと。マンガラ長老は日本語がしゃべれなかったから、日本に詳しいというわけではなかったので、これは日本でも変わらない、ということだ。これらは転法輪経の神々の段で最初に出てくる、bhummā deva、地の神、地上に住む神々だ。基本移動ができない(任地変更などはあるようだ)。だから私としては、神社が大変おすすめだ。スマナサーラ長老も、神社の話はよくするだろう。

 

 神社の礼儀はそちらのものに従い、二礼二拍手一礼した後には、仏法僧の二十四徳を唱える。人がいれば心の中でもいいし、実は私は夜中によく神社を巡回していた時期がある。転法輪経全部唱えてたこともある。それも指示されたからだが、これは決して人には勧められない。大概監視カメラはあるよ。

 

 そして、大事なのは、以前にも書いた通り、神々より出家の方が立場が上だ、ということだ。たとえ阿羅漢の神々であっても。出家が生で言うことの方が、力がある。神々だって完璧ではない。出家が絶対、と言う気も無いが、ここはご留意いただきたい。

 


 そういうわけで、業処(?)には向き不向きがある、というのは私の実体験からしてわかることである。これがテーラワーダの教えだとは、別に思う必要はない。「こいつ、バカじゃねーの?」と思っていただいて、というか、思っていただいた方が幸いだ。


 でわ。