さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文36

 今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 隨念10。

 

 まずこのうち、信性の人に向いている6つの隨念。

 

 以前にも書いた通り、信性の人には受難の時代だ。こういう人には、「いいから信じなさい」が向いている。世間一般で言われる、いわゆる「宗教」だ。

 

 結局テーラワーダはここだって「科学的」なのだが、普通に言われる科学ではない。テーラワーダは「宗教」だ。

 

 もう何度も書いているが、どうも世間は遍く誰にでも全部適用できるような簡単な公式を求める傾向にあるが、アビダンマはそうではないよ、と言っている。性格に合わせて得意な業処もあれば不得意な業処もある。その関係もあって、お坊様が相手によって正反対のことを言っていたりするのを、もうご存知だろう。

 

 この信性の人には「いいから信じなさい」、覚性の人には「なぜそうなのか、疑いなさい」と言った方が早い。ここら辺が、「社会的に」難しい所だ。教義的には別に難しくもなんともない。

 


 実は私は、長い間「なぜあのうちに生まれたのか」と考えていた。最近は、日本においてあそこまで宗教に対して熱心な家庭、親類環境はなかなかなかったのだろうから、そこに縁があったのではないか、と考えている。

 

 で、結局今も私は宗教に夢中だ。

 

 ミャンマーのお坊様の説法で、「龍を拝んでいたから死後龍になってしまって泣いた」という話があった。拝む対象は選んだ方が良いよ、ということだ。

 


 277頁。

 

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くり返し生じる念であるから隨念という。

 

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 繰り返すから「隨念」。

 

 テーラワーダ的には教義からは外れるが、南無阿弥陀仏とか南妙法蓮華経とか繰り返すのもそうだ。

 

 わたしのうちの宗教も、実はやり方というか修行方法というか、あれはことごとく合っている。正解だ、ということだ。あれがほんものの信心の力だ。

 

 信じる力というのは、別に対象が正しかろうが正しくなかろうが関係ない。だから対象が正しければいいが、対象が正しくなかったら、大変なことになる。信性の人には、それを判断する力はあまり無い。

 


 これはあまり書かない方が良いと思って書かなかったのだが、最近のイスラム教については実は気になっている。何十年も前はそんなことはなかったのだが、最近はこの信じる力によって、しかもどんどん過激化していっていることに対して、危惧を抱いている。

 

 前も書いたように、戒律は誰にでもわかりやすいから、人を戒律で縛ろうとする。それこそ正しいことだ、と思ってしまうし、恐らく教義的にもそう書いてある。

 

 あのうちにいたからわかるのだが、信心に対しては、理屈は通用しない。だから、この日本においてに限定しての話だが、イスラム教の戒律に配慮するのには私は反対だ。申し訳ないが、これ以後とてもわかりあえるとは思えない。経済的な関係にはなにも文句はないが、経済ではうまくやり、宗教では注意深くしないと、スリランカのように食べ物がすべてイスラム教に配慮したものだらけ、ということになってしまう。

 

 「え?それの何が問題なの?」と思うだろうか。

 

eka nāma kiṃ? sabbe sattā āhāraṭṭhitikā.

 

 「一」は食べ物だ。食べ物を握られてしまうと、もうどうにもならなくなる。

 

 以前の反イスラムの衝突はなぜ起こったのかというと、現実的ではないほど不可能なくらい出生率が高いからだ。教えに従って。

 

 仏教でだって、人がたくさんいる社会は豊かだとは言う。しかし中道は必要だ。とにかくどうでもいい、子供を産みまくれ、は現実的ではない。それで場所もなくなり、次々と異教徒の地に移住せざるを得なくなり、衝突が起こる。熱心な、敬虔なイスラム教徒ほど教えを守ろうとするから、まじめな人ほどあおりを食う。

 

 解決法としては、現代に合わせて教えを変えればいいのだが、より原理主義的な考えが刺激的なのだからどうにもならないし、私も詳しく知らないがイスラム教には本山的なものはないだろう。出家もいないし。現状、内部から「教えを変える」なんて言い出したら、とんでもないことになるだろう。


 私は何も、日本にいるイスラム教の人々は国に帰れ、と言いたいわけではない。できれば仲良くしたい。スガタ精舎にだってイスラム教の人は来たが、建てるときなどは一番熱心に手伝ってくれたそうだ。

 

 しかし教えにそうある以上、日本でもいつか必ず衝突が起こる。そうなる前に、なぜそういう問題が起こるのかは先にわかっておいていただけると、ありがたい。何度も言うが、イスラム教徒を差別したいわけではない。

 


 そういえばああいう問題が起こると、いつも仏教徒が悪い、ということで決着がつく。私だってさすがに、仏教徒がなにもしていない、と主張する気はない。衝突とはそういうものだ。どちらが悪い、どちらが正しい、と主張したところで、なにも解決しない。そういう問題が起こる前に手を打つのが最善策だ。

 

 

 あるお坊様に訊いた。「なぜいつも仏教徒が悪いことになるのですか?」と。そうしたら、ニュースのコメンテーターがこう言っていた、という。「白い布に少し黒いシミがあると目立つでしょう?黒い布に黒いシミがあったって誰も気にしない」と。私はなるほど、と思った。

 


 さて、危ない話題はこのくらいにしておいて、隨念の話だ。

 

 というわけで、結局テーラワーダでも繰り返す。慈悲の冥想なんか、くり返しくり返し念じてください、と言うだろう。途中真言のようになってしまっても構わない、と。

 

 こう言うと拒否反応が出るかも知れないが、結局テーラワーダのサマタ冥想はできるだけ短い簡単な言葉を繰り返して行うのだから、そういうことだ。しかしその対象は選びなさいよ、ということで40の業処が指定されている。

 


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仏隨念 応供などの仏徳を所縁としてくり返し念じること。

 

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 ちょっと話は違うが、お釈迦様にお供えするのは、この意味もある。広義では仏隨念と言える。お供えについては、布施にならない(まったくならないのか、というとそうではないのだろうが、cāgānussatiの対象になるのか、というと「違う」ということだ)。尊敬の念を込めて。

 

 あまりに布施に縁のない人には、「お釈迦様にお布施ですよ」と言うことも勿論ある。別に「間違い」というわけではない。まずはそこから、ということで。

 

fujisugatavihara.blogspot.com

 応供、arahaṃのaggadakhhiṇeyyaについてはこちらに詳しい。

 


 西澤先生の本。71頁。

 

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仏隨念 buddhānussati 阿羅漢などの仏徳を所縁として繰り返し念じること。

 

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 この隨念は近行まで、つまり禅定、初禅には達しないが、サマタ冥想としてやるには、「阿羅漢」と念じる。ま、どの徳でも、自分で好きなものを選べばいいんだけどね。

 

 つまりやり方は、「arahaṃ, arahaṃ, arahaṃ, arahaṃ, arahaṃ…」、または「阿羅漢、阿羅漢、阿羅漢…」と。

 

 そういえば、マンガラ長老に訊いたことがある。「では仏隨念はどうやればいいのですか?bhagavā, bhagavā, bhagavā…とやればいいのですか?」と。

 

 「違う」と言下に否定なさる。

 

 「だって、bhagavāの意味、わかってないでしょ?」と。あまりにもぐうのねも出なさ過ぎて笑ってしまった。

 

 「しかし、二、三ヶ月そうやっていると、どんどん意味が広くなってくる。」

 

 これがテーラワーダのお坊様のやり方(やり口)だ。

 


 スリランカでも、仏隨念だけは、108の数珠を使ってやったりする。右手で数珠を数えながらやる。詳しくは知らないが、日本の大乗仏教でもそのやり方をする宗派はあるのではないだろうか。

 

 この場合、

 

itipi so bhagavā arahaṃ, sammā sambuddho, vijjā-caraṇa sampanno, sugato, lokavidū, anuttaro purisa-damma-sārathi, satthā deva-manussānaṃ, buddho, bhagavāti.

 

 で一回だ。

 

 もうわかるだろう。かなり速くやらないと、108回なんて、相当な時間がかかってしまう。本当は詳しくわかれば力も違うのだろうが、ありがたいことにそれぞれの徳についての簡単な説明は、仏教協会の日常読誦経典に書かれている。あれでも十分だ。

 

 そういえばスリランカでは、どの徳か忘れたが、有名なお坊様が書いた、一つの徳それだけで一冊の分厚い本があるそうだ。

 

 というか、教義的には、(正自覚者について完璧に能力がわかるのは唯一正自覚者だけだから)正自覚者が正自覚者の徳を説明しようとしたら、梵天の寿命が尽きても終わらない。

 

 私も初めてそんなことを聞いた時には「そんなことあるかい!」と思ったものだが、勉強すればするほど、ほんとなのだと実感する。

 

 そして、そんな徳を持つお釈迦様を念じるのだから、どれだけ念じても念じ尽くす(?)心配は無い。

 

 

 お坊様から聞いた話だから間違いないのだが、仏隨念をかなりやっていると、本当に目の前にお釈迦様が現れる。法話も聴き教学も勉強していると、色々と指示してくれることもあるらしい。

 

 キリスト教でも、イエス様が現れたとか、マリア様が現れたとか、または十字架の痣が浮かび上がったとか、聞いたことがあるだろう。信心とはそういうものだ。

 

 もしかしたら中には嘘を言っている人もいるかも知れないが、有名になるくらいだから、それだけの力、信じるパワーがあるから話が広まるのだと思う。

 

 だから「危ない」のだ。キリスト教大乗仏教であれば社会的には問題にならないが、信じる心は、対象がなにであっても構わない(まあそもそもそれだけ「信じられる(受動態)」パワーのあるものなのだろう)。だから、テーラワーダでは「対象には気をつけましょう」と言う。

 

 また、伝統的にも、仏像を見る冥想もやる。kasiṇaみたいとも言えるが、kasiṇaと違い、別に師匠と一緒に住んでなくたってできる。

 

 実はアビダンマでは、仏像を見たら異教徒ですら、その見た瞬間には善心が生じているのだ、という。さすがにそれはどうか、と私などは思うのだが、まあそれが事実だとすると、意味が分からなくてもitipi so~とか仏像を見て冥想するとかしても、効果はあるのかも知れない。

 

 理屈として考えると、そうでないと確かにいつの時点で善心に切り替わったのか、という問題が起こる。だからアビダンマが言うことの方が正しいのだろうが…。

 


 やばい、隨念一つで終わってしまった。

 

 まあそれだけ、仏隨念は大事な冥想だよ、ということですな。