さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

吉祥経の読書感想文5

 引用は、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

ārati virati pāpā
アーラティ ウィラティ パーパー
悪行為から離れること、
majjapānā ca saññamo,
マッジャパーナー チャ サンニャモー
酒を飲まないこと、
appamādo ca dhammesu
アッパマードー チャ ダンメース
怠けないで法(ダンマ)を実践すること
etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
エータン マンガラムッタマン
これらが最高の吉祥です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 吉祥経で言っている吉祥のことは、後になるほど難しくなるような気がするのだが、必ずしも順番通りで難しくなっていく、というわけではないのは、ここら辺を見ていくとわかるだろう。

 

 いや、「酒を飲まないこと」が極端に難しい人たちは勿論いる。もちろんいるが、普通に五戒を守っている人からしたら、別に難しくもなんともない。

 

 それよりも、「悪行為から離れること」、こちらの方が難しい、と思う。

 

 pāpa。akusalaとは違う。pāpaというのはそれこそ悪業になるような悪行為のことで、akusalaというと、解脱への妨害にはなるが、悪業にはならないこと。所謂悪い結果を受ける、というわけではない、ということだ。

 

 宗教界隈、仏教界隈にいると、どうしても性関係については自粛というか、必要以上に嫌悪される傾向にあるが、不倫をせずにであれば、子供を作るためのことなのだから、どちらかというと良いことではないか、とも思う。

 

 まあしかし、だからといって「性行為は良いことですよ!」なんて言ったら大問題になりそうなので(笑)、不倫をせずの性行為はakusala、即ち解脱への妨害にはなるが、pāpa、いわゆる悪業にはならない、ということははっきりとさせておきたい。

 

 当たり前ではあるが、気分の良い性行為限定の話だ。和姦であっても無理やり、とかは話にならん。それはpāpaだ。念のため。法律的にどうとかではなく、意、心がどうか、という話。

 

 当然のことながら、出家は性行為禁止。吉祥経でもあとで出てくるが、吉祥経にあるからといって在家が皆それを守らなければならないのか、というとそれは違う、と言っておかなければならない。

 

 というわけで、pāpaというのは、世間でも普通に言われるような悪いこと。悪いことはやめましょう。


 「怠けないで法(ダンマ)を実践すること」。結局これが難しい気がするが、後ではこれより難しいことが出てくる。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

gāravo ca nivāto ca
ガーラウォー チャ ニワートー チャ
尊敬すること、謙遜、
santuṭṭhī ca kataññutā,
サントゥッティー チャ カタンニュター
満足すること、恩返しをすること、
lena dhammasavaṇaṃ
カーレーナ ダンマサワナン
良いときに法話を聞くこと、
etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
エータン マンガラムッタマン
これらが最高の吉祥です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで


 「尊敬すること」。これが難しいことは以前書いた。

 


 「謙遜」。日本人は自分を下げることが美徳とされているため、やたらと自分を下げる。

 

 実は慢全開なのに表面は「私は自分を下げています。」という人も多いが、まあ見る分には気持ち悪いが、別に仏教的に問題にはならない。

 

 問題なのは、本気で自分を下げている人だ。よく言うだろう、「自分のことは置いておいて」と。

 

 あまりに自分勝手な人たちに言ったり、世間的にはそういう場面があることもあるので、そういう時に言う分には構わないのだが、本気でそんなことを思っていると、大問題になってしまう。

 

 自分のうちは糞尿だらけ、ひとのうちは掃除のプロ、なんて、どうだろう。その人に自分のうちをピカピカにされたところで、「いや、あんたのうち、まず掃除しろよ」と突っ込みたくはならないだろうか。

 

 なぜそんなことを言うのかというと、新興宗教を信じる人で、本当にそんなことを実践している人たちを何人も知っているからだ。自分のうちが大変なことになっているのに、「あなたのことを考えています」とか言われて、正直気持ち悪い。「自分のうちをなんとかしろ」といっても、必ずしも解決できることばかりではないとは思うが、「まずは自分のうちをなんとかしろ」とは言いたくなる。

 

 こういう人たちだって、「自分の幸せは置いておいて」なんて言いながら、実は「自分の幸せは置いておいて人の幸せを考えていたら結局は自分が幸せになると思う」からやっているのであって、だから「私は幸せでありますように」は大事なのだ。

 

 しかしこれは、「自分のことを解決してから他人のことに関わりましょう」ということとは、また違う。そんなこと言ってしまうと、今度はテーラワーダ的には少なくとも阿羅漢にならないと人に教えてはならない、ということになってしまう。

 

 だから、「自分のことは置いておいて」という言葉も、完全に否定するつもりはないのだが、すべての場面に適用できるわけではない、というか、正直に言ってしまうと現代の日本には合わない気がする。

 

 とにかくここは中道、バランスが必要なところであることは以前も書いた。

 


 「満足すること」。これが私には以前まったくわからなかった。例えば少ない給料で満足していたらいいようにこき使われるような気がするし、少ないもので満足していたら欲が無くなりどんどん貧乏になっていってしまう気がする。

 

 しかし違うのだ。やっと、ほんの少し、今日分かった(笑)。

 

 喜、ムディターは嫉妬に対して大変有効だということはもう皆さんご存知だと思うが、これは不満に対しても大変有効な手段だ。結局嫉妬、不満、慳などは複雑に絡みついてくる。

 

 以前怒りについてスダンマ長老に訊いたことがあるのだが、開口一番「怒りは難しい…」とおっしゃった。その時一応一通りは教えてくれたのだが、その後も実践を続けていて、「これが怒りなのか!」と気付いてハッとさせられる。

 

 これはなにを意味するのかというと、自分で怒り、アビダンマ的に言うと瞋恚相応心だと気が付いていないのだ。怒りの種類は心所で出てくるだけでも瞋、嫉、慳、悪作がある。これだけでも、自分で気付けないのだ。だから、瞋恚相応心に限定しただけでも、気付いていないこれらの怒りの心をもとにvañcaka dhammaが発動、自分でわからないうちに悪行為を働いてしまう。

 

 まわりから見ていると、たまにわからないだろうか。有名な人を攻撃しているが、はたから見ると「あ、それ嫉妬だ」と。本人は善行為だと思ってやっている。こういう人は注意したところで絶対に聞かないから、スルーに限る。でないと、こちらが危ない。相当腕に自信があるなら話は別だが。


 「恩返しをすること」。「恩返しできない」と悔いることも悪行為。「恩返しできなかった」と後悔することも悪行為。それはわかっておいてほしいのだが、テーラワーダに於いて恩返しは大変大切な道徳だ。「恩返ししたい!」というのは大変良い心だが、現実的にはもしかしたらできないこともあるかも知れない。そういう時に「ああー!」と思ってしまったら、そこも悪行為。

 


 「良いときに法話を聞くこと」。「とにかく法話を聞くこと」ではないことに注意。「良いとき」でないと意味がない。

 

 現状、日本ではほとんど「法話」を聴く機会は、無い。
fujisugatavihara.blogspot.com

 便宜上スマナサーラ長老がお話しになったりすると「法話」となっていたりするが、正式な法話はあれとは違う。

 

 私などは、日本の現状から見て、今までは「日本人は法話を聴く徳が無かったんじゃないかなあ」とか思ったりするが、最近のネットを見るにつけ、実は機が熟して来ているのではないか、とも勝手に期待し始めている。

 

 本当の、本気の法話、というのは、難しい。このブログにも何度も書かせていただいているレーワタ長老のお話など、ほんとうに難しかった。言葉的に難しい、というのではない。テーラワーダの考え方に馴染んでいないと、何を言っているのかさっぱりわからないのだ。

 

 だから、スマナサーラ長老がおっしゃることが日本人にはわかりやすい、ということは、テーラワーダ的に見て小学校レベルのことだ、ということは以前にも書いた。まずは基礎を学ばないと、応用は効かない。この日本にテーラワーダの基礎を叩き込んでしまったスマナサーラ長老は、ほんとうにとんでもない方だ、とつくづく思う。

 

 しかし、スマナサーラ長老がおっしゃることが「絶対だ」と思うと、先に進めなくなってしまう。日本人に向けて、正直方便が多い。伝統的な解釈からするとかなり拡大解釈だったりする。

 

 しかしそれは仕方がないことなのだ。伝統的な解釈でいくと今の日本ではとても受け入れられない定義があることは、アビダンマ(略)の感想文でも話してきた。長老がまったく意味なく、方便を使われているわけではない。それは勉強していくと痛いほどよくわかる。そのご苦労が大変偲ばれる。

 

 まあしかし恐ろしいことに、更に実践が進むと一周回ってとんでもない真理を言っていたりするから気が抜けないのだが…

 

 因みにこの方便の話は冥想指導の時(他のお坊様でも)もそうで、冥想の仕方、進度に従ってアビダンマの用語なども適宜当てはめて使われたりする。だから「これこそが正解だ!」とか言われてしまうと、正直困ってしまう。アビダンマでは比較的意味がはっきりと固定されているが、それでもその適用できる範囲は結構広かったりする。その適用できる範囲の隅っこの方のものを適用させていたりするのだが、だから私としても「それは間違い」とはまったく言えないのだが、それを聴いた人が「これこそが正解です!」とか言っているのを見てしまうと、正直いたたまれない。違いますよ、とも言えないし、細かく説明しても、恐らく聞いてくれないだろうし。そもそも細かい話をすると、このブログみたいに長くなってしまう。

 

 だから、「私はこう言われました」なら全然OK。

 

 どうでもいい話だが、「私はこう言われました」というのを聴くと、だいたいその人がどういう人かもバレてしまう。なぜお坊様はその人にそういうことをその時に言ったのか、というのがだいたいわかるからだ。

 

 しかし仏教徒というのは、別に心の中を他の人に見られても気にしない。預流果になったら「身口意で悪行為をしても、隠しておくことはできません」と、宝経にもあるではないか。

 

 ここで、「やべえ、心の中なんてのぞかれたらたまったものではない」と思った人は、意、心を隠そうとしている人だ。

 

 堂々と生きようではないか!

 


 さて、「良いとき」とはなんなのか。良いタイミング、だ(笑)。まあこればっかりはその時になってみないと分からない。前にも書いたと思うが、お釈迦様だって、その人の準備が整わないと、法話はしない(出家に対してはちょっと違う、とも言えるかも知れない)。言ってもわからないことは、言わない。

 

 しかし逆に、言わなければならないことは必ず言う。どんなに相手の心が痛くなろうが、言うべきことは言う。それが優しさ、ほんものの慈悲というものだ。だから決して「黙っとけ」一辺倒でもない。

 

 世の中にはどうしても反対の声を上げなければならない時もある。ここら辺は本当に判断が難しいところなので、ではどうすればいいのかというと、結局慈悲喜捨の冥想と、慈悲喜捨の実践に尽きる。実践に於いては、さまざまなことに迷いながら、やるしかないのだと思う。

 


 そういえば、どうも皆さん冥想「だけ」していれば悟りが開けると思っているようだが、とんでもない。法話は重要な要素だが、今までは現実的に、日本では法話という法話が出来る状態ではなかった。

 

 今までは、「法話は大事だ」なんて言ってしまったら、「では私が法話します」といって、とんでもないことを言う人たちが出てきた。だからなかなか強調するわけにもいかなかったわけだが、そろそろ大丈夫だろう。法話は大事だ。というか、断言する、法話を聞かなかったら、冥想は進まない。

 

 禅定なんて、お釈迦様の時代は他の宗教の人たちだって非想非非想処定にまで入っていた。では彼らが悟っていたのか、というと、預流果にもなれていない。大変重要な要素であることは間違いないが、たとえそれだけの腕があっても、法話を聴かないことには悟りを開くこと、即ち正見を得ることはかなわない。経典に「冥想だけしていなさい」なんて、お釈迦様がおっしゃっている個所があっただろうか?お釈迦様はよくご法話なさる。

 

 リンク先にもあるように、正見はむちゃくちゃ難しい。正しくものごとを見ることが出来れば、もう預流果なのだ。だからスマナサーラ長老も「話を聞くだけで預流果になる人はいる」と断言するのだ。経典にもよく出てくるではないか、お釈迦様の話を聞いただけで悟った、という方々の話は。話を聞いて、それまでの考え方を変えて、正見を得てしまう人はいる。しかし、それには勿論、「前世行った徳を持っていること」が必要だし、今世口を開けてボーッと生きてきた人が、話を聞くだけでいきなり目覚めるとは思えない。


 前にも書いたかもしれないが、これまでの人生で間違っていたことなど、なにも気にする必要はない。テーラワーダ的に言ってしまうと、もしそれが悪業だとしたらその結果を受けることはもう避けることはできないが、小さな悪いことなら、善いことばかりしているとその結果が出てくる機会を失って、ahosiになる。大きなものなら、どうしても避けられない。

 

 どうせ結果が出てしまうのは避けられないのだから、もうそんなことは考えないで、善いことばかりしていれば良い。もしまた悪いことをしてしまいそうなら、悪いことをしないように努力すれば良い。

 

 テーラワーダで言う四つの精進、努力とは、今までしてきた善いことを続ける、増大させる、今までしてこなかった善いことをする、今までしてきた悪いことをやめる、今までしてこなかった悪いことをこれからもしない。これが四正勤だ。冥想ばかりが精進ではない。冥想「も」精進だけどね。

 

 

 ネットを見るにつけまあとにかく最近は日本にも正しいテーラワーダの知識が敷衍してきたように見える。

 

 ここからは私の勝手な妄想だが、dhammadīpa法の島といえばスリランカのことだが、お釈迦様は「将来dhammadīpaという所で法が栄える」とおっしゃっている。ここに、日本を加えてしまっても良いのではないか、とか言ったらスダンマ長老に激怒されそうだ(笑)。

 

 教義と違うことを適当に言ってはならない(←私がね)。