アビダンマ(略)の読書感想文32
いつものようにこの2冊にお世話になります。
・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
アビダンマッタサンガハ刊行会
・アビダンマ基礎講座用テキスト
ウ・コーサッラ西澤
西澤先生の本の71頁。
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性6
貪性 渇愛、貪などが生じやすい気質
瞋性 瞋恚が生じやすい気質
痴性 無知が生じやすい気質
尋性 考え事が多く落ち着かない気質
信性 信が生じやすい気質
覚性 知恵が生じやすく、批判的な気質
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まずこちらに端的に書かれている。
そして、こちらも大変参考になるので、引用させていただく。
「怒り」は正しさの主張ゆえに「智慧」に似てる。「欲望」は対象に関与していく「慈悲」に似てる。「無関心」は対象へのこだわりがなく「悟り」に似てる。その違いを明確に見分ける目が必要である。そしてそれらを「智慧」「慈悲」「悟り」へと健全に育てていくことは可能であることは覚えておくといい
— プラユキ・ナラテボー(公式) (@phrayuki) January 11, 2019
💞【四無量心(四梵住)】
— プラユキ・ナラテボー(公式) (@phrayuki) January 11, 2019
「慈」…相手の幸せを願う心
「悲」…相手の痛みや苦しみが和らぐように願う心
「喜」…相手の成功や幸せを共に喜ぶ心
「捨」…相手の状態や言動に対して、平静に動揺せずに見守れる心
※四無量心と逆の「未熟な心」と「似て非なる心(迷い道)」についてまとめておきますね pic.twitter.com/U04JTRn2tk
こちらも大変端的に書かれていて、ありがたい。
そして、身体の振る舞い等に関しては信性は貪性と同じ、覚性は瞋性と同じ、尋性は痴性と同じ、ということを先に覚えておこう。
このcaritaについては、スマナサーラ長老の本にも大変詳しく書かれている。是非参考していただきたい。
この性を見分けることによって、冥想指導者、kammaṭṭhāna acchariya業処師は業処を授けることができる、ということだ。
業処師になるにはどうすれば良いのだろうと思ってお坊様に訊いたことがあるのだが、さすがにこれは「経験」だそうだ。そのお坊様は「やはり50歳は超えないと」とおっしゃっていた。当たり前の話だが、ただ年齢を経ていれば良い、ということでは勿論無い。
いつもの本の275頁。
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〈性質の見分け方〉人間の性質を見分けるには、通常5種の法がある。すなわち、歩き方などの威儀より、掃除・洗濯などの作業より、嗜好としての食より、見方・聞き方などより、善・不善などの法の生起より、その人がどのような性質のものかを判断する。以上の5種法によって6種の性質者の一々を分別すれば次のとおりである。
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こうして、経験を積んだお坊様方は我々在家を見て判断され、法話、冥想指導、その他雑談に見せかけて法を教えてくれたりする。こういうプロを養成する機関が比丘僧伽だ。だからテーラワーダ仏教徒は仏法僧のうちの僧、つまりお釈迦様の在世から続く現在の、またこれより以前の正自覚者の比丘僧伽、未来にも現れる正自覚者の比丘僧伽にも礼拝する。ここは、それを信じれば、の話だが。
そういうこともあって、寺に通うことは良いことだとされている。やはり一発で見極める、なんてなかなかできるものではないし、そういうことを狙おうとすると、失敗しがちだ。なにかアクションを起こしてみて、経過を見て判断する、ということも必要になってくる。
だから、我々からすると「突然」、何の脈絡もなくとんでもないことを言われたりするのだが、まあこういうことは尊敬の気持ちが無いと受け入れることができない。私だって、これまでに相当カチンと来たもんだ(笑)。恐らくこれはこれからも続くのだろうが、私もテーラワーダの世界に入るまでには経験したことが無かったことなので、皆さんもこれから実践していくにおいて、びっくりされることもあるかと思う。
そして、これは以前に書いた、心の読み方ではなく、「性質の見分け方」であることに注意したい。それとはまた別である、ということだ。オーバーラップしている部分はあるにせよ。
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貪性者の場合、歩き方・坐り方などの威儀が優美であり、掃除・洗濯などの作業が丁寧である。また食物なら、甘い物・香りの良いものを好み、僅かばかりの喜ばしい色・声などの所縁に対しても執して離さない。そしてこのような人には、特に諂・誑などの法が多く生じる。
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私が貪性者でないことだけは確かだ、とここを読んで言える。私がここで当てはまるのは「甘い物・香りの良いものを好み」くらいだ。こちらはgandhabbaの
いやいや、それは今関係なかった。
赤ちゃんが最初に覚える言葉がmineだ、なんて言う。「俺のもんだ」ってわけだ。しかしあれが私にはよく理解できない。
当たり前だが、貪性者には、欲に対抗する業処、不浄10と身起念(身体を32にわけて観察する)が向いている。間違っても、瞋性者にこの業処を積極的に勧めてはならない。
瞋性者とはいえ欲が出ないわけではないから、一般的な範囲でする分には全然構わないのだが、専門的に勧めてしまったら、結果は言わなくてもわかるだろう。良いことはなにも無い。
ネットでは、asubhaと入れれば、制限を外してあればたくさん不浄の画像が出てくる。私も最初に見たときは一週間完全に性欲が吹っ飛んだが、慣れてくると、見るだけではどうということもなくなってしまう。勇気のある方は、是非。
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瞋性者の場合、威儀は粗野であり、作業は乱暴である。また食物は酸い物を好み、不快な色・声などを所縁とすれば、すぐ腹を立てる。そして恨み・嫉・覆・慳などの法が特に生じる。
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この二つを読んだだけでも、「ああ、こういう人、いるいる」とか、「ああ、自分がこうだ」とか思い当たることがあるだろう。
ここら辺をアーユルヴェーダと結び付けて考えたら面白いのだろうが、残念ながら私はそこまで詳しくない。占いに興味のある方は、そちらとも結び付けてみても面白いだろう。
そして、瞋性者には当然無量4、慈悲喜捨の業処が合っている。それと色(いろ)のkasiṇa遍。
慈悲喜捨の冥想は誰でもやるべきものではあるが、専門的に貪性者がやろうとすると、慈では悪い意味での「愛」になってしまうし、喜は悪い意味での「楽」になりやすい。なにごとも程度というのは重要だ。
因みにこの色(いろ)のkasiṇa、青と黄色と赤と白の4つしかない。どこで聞いたのか忘れてしまったが、昔はこの程度しかはっきりと違いが出せなかったかららしい。テーラワーダの国の冥想センターにあるkasiṇaの修行場にあるもので、日本人が「青」と聞いて抱くイメージとは違う色が描いてあったりするのを見たことのある方もいるだろう。結構場所によって色も違っていたりする。ああいう所は日本人的感覚からすると、そうとうユルい。
現代では色相の研究も進んでいて、素人目から見たらどんな色でも出せる。その4つのkasiṇaであるからこそ深い意味があるのかも知れないし、現代においては文明の利器を用いて好きな色でやれば良いのかも知れないし、もしかしたら色が違うと瞋性者意外にも合うのかも知れないし、それでもやはり色のkasiṇaは瞋性者に最も合うのかも知れないし、そこらへんはまったくわからない。チャレンジャーでなければ、おとなしくこの4つのどれかを選んでおこう。
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痴性捨の場合、威儀は乱れ、作業の時は無気力であり、食にも一定の嗜好がない。また、見たり聞いたりするにも自主性がなく、他人の意見に従うばかりである。またこのような人には、特に惛沈・睡眠・掉挙などの法が生じる。
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この3つが見分け方の基本になる。「よく覚えておこう」と書こうとしたが、なんかよく覚えておく必要もないような気がする(笑)。とにかく「こういうことがあるんだよ」と知っておくだけで、だいぶ楽になることがあると思う。
普段生活していると、「なんであいつはああなんだ!」と思うことは多いと思う。しかし、これを知っておくだけで、「そうか、アビダンマでも性質によって気質は違うと書いてあった」と思えるし、冥想実践が好きな方なら、「あの人はあの冥想したら合いそう」なんて妄想しても楽しいかも知れない。
以前も引用したことがあるが、49頁に、
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念 仏法僧などの善に関することを念じて忘れないこと
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とある。慈悲の念でもいいが、それにバリエーションを加え、アビダンマでの性格判断も入れてみると、また更に楽しみが広がる。
アビダンマと仏法僧は当然直結しているのだから、これは間違いなく念を育てていると言っていい。世間では念のことを「気づき」と言っているのだから、アビダンマに当てはめて普段の生活を送ってみることを広義と取っても、その意味よりは範囲が確実に狭い。昨日書いた、業処の対象について考えることがbhāvanāだ、というのもその意味だ。私としては、「気づき」よりは、テーラワーダの伝統的な念に近いのではないか、と自信を持って言える。というか、テーラワーダの伝統そのものではないか、とまで言ってしまっても、お坊様には怒られないのではないか、程度の自信はある。いつもお坊様に怒られないか、びくびくしてますね、私(笑)。それを慚愧という(嘘)。
痴性者には、出入息観、即ちアナパナだ。業処で言う出入息隨念ānāpānassatiと、大念処経で言うアナパナは、恐らく同じものではあるだろうが、私には、確実に「同じものですよ」と言える自信はない。普通はこんなことは気にしなくて良いだろう。
因みにアナパナの説明は護経の中にも入っていて、ということはアナパナの実践自体が護経的な意味を持つ、と言ってしまって良いだろう。だから、アナパナの説明を暗記することは、即護経的な意味合いも同時に持つ。これは確実に言える。
当然だがiriyāpathaは護経の中に入っていない。しかし、広義では大念処経は護経として良いのだろうか…。
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信性者の場合、威儀などの4種は貪性者と同じであるが、法の生起としては誑などの不善が生じず、施などの善業道がしばしば生じる。
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威儀美しく、仕事も丁寧、甘い物が好きだがずる賢さ(強かさ?)がなくプレゼント好きだったりしたら、恐らく信性者だろう、ということだ。
信性者には読んで字のごとく、宗教的な業処が似合う。仏隨念、法隨念、僧隨念、戒隨念、捨隨念、天隨念。テーラワーダが「宗教ではなく科学だ」と布教されて、一番の被害(笑)を受けているのは、この信性者だと思う。宗教的な話こそ、信性者にはふさわしい。
つまり、テーラワーダについての話の持って行き方からして、信性者には受難の時代だ、ということだ。
そういえばそれで思い出した。尊敬するお坊様の話だからといって、まるまるすべて全部穴が開くように一字一句身体の中に染み込ませてやる、と思う必要はまるでない。確実に自分に向けて言っている、という状況であればそうするべきだが、まったく違う性質の人に向けて言っていることかもしれないからだ。
それぞれの業処については、次回以降詳しく見ていく。
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覚性者の場合も、威儀などの4種は瞋性者と同じである。しかし、法の生起としては瞋などが生じず、慧がよく生じるので教え導き易い。
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覚性者には、寂止隨念、死隨念、食厭想、四界差別など、当然智慧を必要とする業処だ。ちょっと普通に「サマタします」とか言っても、何を対象にしていいのかよくわからない。これを読んで「は?いや、やりやすいけど?」と思った人は、覚性者タイプかも知れない。
因みに瞋性者に死隨念ばかりをやらせても、とんでもないことになることはもうお分かりだろう。専門的なサマタは、必ずまともな師匠の下で。さくらぎとの約束だ!
なぜかというと、瞋性者と覚性者も区別がしにくい場合がままあるからだ。冥想には、もちろんまったく危険でないことも多いが、残念ながら大変危険な部分もあることを、理解しておいてほしい。
例えば覚性者が悲の冥想をかなりして、愁ばかりがたまっている時に死隨念などしようものなら…。と、そういう場合がまったくないとは全然言い切れないからだ。冥想についての発言は、公の場では努々気を付けるように。
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尋性者の場合も前の4種は痴性者と同じであるが、法の生起においては尋がよく生じる。従って無駄話が多く、衆に交わることを楽しむなどを特色とする。
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恐らく私はここに当てはまる。無駄話が多く皆と交わることを楽しむがあまりに話が長くて皆どこかに行ってしまう…。
尋性者にもアナパナだが、最近私は信関係の隨念が楽しい。もともとの私の判断が間違っているのかも知れないし、時期によって変わるのかも知れないし、気候などによって変わっても来るのかも知れない。そこらへんはまったくわからない。
因みに地水火風の遍、虚空と光明の遍、無色の業処はどの性にも合うが、どうもやり方は誰であっても清浄道論のやり方そのまま、というわけではないようだ。
人と話していて気付いたのだが、例えば火のkasiṇaの場合、白い紙に穴を開けて、その向こうにローソクを立てて火を見ると教えられたとする。しかし、人によってはそんな準備をする方がめんどくさく、そこに何があっても気にならないからローソクだけ立ててあとは火を点ければOKだったりするし、しかし本当の専門的なサマタだとそれでは問題になることがあるのかも知れない。ここら辺のやり方も人の性格を見てきめ細かく見ていくに越したことはない。冥想に入る準備段階においても、性格に合わせたことをした方が良いに決まっている。
だからこういう時に、お坊様は(言われる)人によっては正反対のことを言ったりする。これを取って「私はあのお坊様にこういわれた。あなたは間違っている」と言うのが無意味どころか害悪でしかないことが、分かっていただけるだろう。逆に「こうするな」と言われたことに対しても。
当たり前だが、これは冥想だけではない。上に書いたように、結局は生活全般が仏道実践なのだから、お坊様はそういうことを見越して、普段から善行為をさせるにはどうしたらいいか考えて色々なアドバイスを下さる。だから、「私はこう言われた」までは良い。しかし、「だからあなたは間違っている」と言うには、そうとう広範なテーラワーダの知識を要する。これでわかっていただけるだろう、「これがあなたには合っている」とも、相当な知識が無いと言えない、ということが。だからそういうことを見越して、世間では冥想と言えばiriyāpahtaと慈悲の冥想、まあそれにアナパナということになっている。そういう意味で、問題を起こしにくいからだ。
間違っても、死隨念や無常、苦、無我の隨念などをテーラワーダの知識の浅い人に何の考えもなく勧めてはならない。まあ相手が受け取らなければ何の問題にもならないが。
何度も言うように、冥想だけは素人が扱ってはいけない。自分が言われたからといって、自分が体験したからといって、普くそれが誰にでも適用できるわけではない。そうではなく、自分が冥想して見えた智慧や慈悲の心でもって仏教的な用語を用いることなく、どうすれば人の役に立つことを言えるのか、と考えていた方が安全だ。
私も、テーラワーダは正しい教えだと思っている。それだけに、人に無邪気に勧めたくなる気持ちは大変よくわかる。しかしなにも知らない相手にとっては、ただの一つの怪しい宗教にしか過ぎない。そのことをもう一度考えたうえで、人に実践を勧めたいのであればどう導くことができるのか、それを考えることこそが慈悲の実践そのものであることを是非考えてみていただきたい。
我々には、スマナサーラ長老のような腕はない。
さて地水火風の遍に話は戻るが、占いでは性格を地水火風に分ける。テーラワーダではそういうことはしないが、そことの関連や相性はどうなのだろう。まったく関係ないかもしれないし、配慮した方が進み具合は早いのかも知れない。地の性格なら地の遍をやれば早いのかも知れないし、そこはもしかしたら弱めた方がバランスが取れるのかも知れない。まったくわからない。
火の遍も、ローソクの火に焦点を当ててkasiṇaをすれば火遍だし、光に焦点を当ててkasiṇaすれば光明遍だ。現代の照明で光明遍はできるのかもしれないが、交流の電灯では不具合があるだろう。風については扇風機でも問題ないと言われたことがある。
一つの業処について究めることの方が合っている人もいるし、もしかしたら複数試してみる方が良い人もいるかもしれない。アナパナだって、風の遍なんてやりやすいし、caritaの話を見るにつけ、痴性の人などは指導者に言われたまま冥想をすべきで、あまり「この業処」とは考えない方が良いのかも知れない。
また、「なぜあの人とあの人が仲が良いのだろう?」と思ったことはないだろうか。自分にはまったくわからない、と。それにはこのcaritaの相性があるのかも知れない。これはテーラワーダではなく、完全に占いの話だ。
私はcaritaについて専門的に考えたことがあるわけではないので、書いている時点で思いついたことをただ書いているだけだが、書く前に思っていた以上に、caritaの世界は面白いかもしれない。