さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

食べ物のお布施と冥想の話

 これはあまり書かない方が良いかなあ、と思って避けてきたのだが、twitterで話題になっていたので。

 

 日本では、お布施の話題は難しいことは以前にも書いたことがある。

 

 そして、食事のお布施については、残念ながら更に難しい。食に対して、神経質すぎる。

 

 だから、こんなことを書くと炎上してしまうかも知れない、と思って書いてこなかった、というのが正直な気持ちだ。

 

 

 最近では、食育とか言って、小学生に、「こんなに食べ物が廃棄されています。食べ物は残さず食べましょう」なんて教えているらしい。私としては、そんな罪悪感を小学生に押し付けてどうするんだ、と思う。小学生には、なんの関係もない。

 

 じゃあそれを企業などに言えばいいのか、というと、最近ではそういう声にこたえて、廃棄も昔に比べたらずいぶんと減っているらしい。勿論無くなることに越したことはないが、ゼロにするのは現実的に不可能だろう。

 

 野生動物に餌付け、というのも気になる。大概は、「餌付けはやめよう」という論調になる。

 

 私は、餌付けは無制限にやらせろ、というつもりもないが、最近出てくる話題はどれも「野生動物のためになりません。餌付けは絶対にやめて下さい」という話ばかりだから、気になる。

 

 もちろん、野生環境に配慮して餌付けを制限することには賛成だ。しかし、なんでもかんでも餌付けに反対するのは、どうだろう。私が気になるのは、「とにかくどこでも餌付けは反対です」となってしまうことだ。

 

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 ここに書いたのは、そういうことだ。

 

 

 テーラワーダでは、食事のお布施を重要視する。しかし現実的に日本では、成り立っていない。あまりに食に対して慳やら何やらいろんなものが絡みついているからだ。

 

 寺で見ていると、私もとても人のことは言えないが、失礼ながら日本人は食事に関して色々問題を抱えているなあと感じてしまう。恐らく日本で出家が誕生したとしても、実は意外に食事のお布施を受け続けるというのは精神的にきついものがあるのではないかと思っている。

 

 

 私は、なんでもかんでもお布施すれば良い、と言いたいわけではない。しかし、リンクにも書いたように、「こんなものをお布施しては、相手のためになりません」というvañcaka dhammaのこともあるのではないか、ということが言いたかったのです。

 

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 本人も、正しいことを言っている、つまり善行為をしている、と思っている。

 

 だから、そんなこともあるのではないか、と頭の隅っこにでも置いておいていただけると、日本でもお布施の話題がしやすくなるのではないか、と期待している。

 

 こういうところで「中道」と出してしまうと「またか」となってしまうかも知れないが、こと日本では慳に対する中道、智慧は相当難しいのではないか、と思っているので、書いてみた。

 

 

 心の中でお布施の徳を観察したり、自分がしたお布施を思い出して喜んだりすることをcāgānussati捨隨念という。しかし実際できるお布施というのは、周りの状況に合わせる必要があるわけで、残念ながらなんでもかんでも、いつでもお布施できるわけではない。しかし、cāgānussatiをすることによって、「自分にこんな慳があったんだ!」と気付くことができる。

 

 業処は40もある。iriyāpatha威儀路やアナパナばかりが冥想だと思われがちだが、どれも立派な冥想で、そのどれも、サマタ的にもヴィパッサナー的にも冥想することができる。ただ、iriyāpathaやアナパナ以外のものはやり方も個人の資質にきめ細かく対応した方が良いものが多いし(やり方は必ずしも清浄道論そのまま、とは限らない)、不浄の業処などは屍体だから、あれをおおっぴらに「これこそテーラワーダだ!」と思われては困るし、āhāra paṭikkūla saññā食厭想などは、相当気を付けないと食欲が無くなってしまう。欲に対する冥想は特に厭世的傾向を惹きつけてしまうものなので、専門的にやろうとしたら、師匠なしにやるのは大変危ない。だから、世間的にはそういうことになりにくい、iriyāpathaやアナパナを冥想として紹介している。

 

 しかし、冥想というのは、生まれによって向き不向きがある。アナパナが向かない人だっているのだ。あまり言わない方が良いかもしれないが、実は慈悲の冥想だって向かない人がいる。そういう人は、それをやめるのではなくて、他の冥想をやってみるのが良い。

 

 仏隨念、慈隨念(慈悲の冥想)、不浄隨念、死隨念の4つは基本だが、これは毎日習慣的に普通に(ちょろっと)やる(べきな)のであって、時間をかけてどれかに集中するのなら、もしかしたら他の業処を選択する必要がある場合もある。

 

 「もしかしたら」と思ったら、ちょっとそんなことも考えてみていただけたら幸いである。

 

 因みに色(いろ)ではないkasiṇa遍はどの性格、性caritaにも向いているとされるが、禅定に入るくらい集中してしまうと、在家生活ではちょっと問題が起こることがあるので、そうした点からも、そういう問題が起こらない(正確に言うと「起こりにくい」)iriyāpathaとアナパナが流布している。

 

 集中の喜悦に入ってしまうと、はっきり言って依存状態になってしまう。ほんとうに、他のことなどどうでもよくなってしまう。こうなってしまうと、もう人の言うことは聞かなくなってしまう。だから、冥想には怖い師匠が必要なのだ。

 

 また、こんな状態なのだから、世間に対して「私は禅定に入りました」などと自慢することは絶対にない。無論必要であれば師匠は言うかも知れないが、世間に遍く宣言する人は、禅定に(少なくとも日常的には)入っていない。そんな慢より、禅定の喜悦の方がよっぽど上だからだ。

 

 また、業処には禅定(初禅)に入れるものと入れないものがある。iriyāpathaで入れるのはkaṇika samādhiであって、所謂禅定ではない。それも、iriyāpathaが流布している重要な理由だ。

 

 と、こんなことまで言ってしまって良いのだろうか…