さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

吉祥経の読書感想文6

 引用は、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

khantī ca sovacassatā
カンティー チャ ソーワチャッサター
忍耐、素直に聞き入れること、
samaṇānañ ca dassanaṃ,
サマナーナン チャ ダッサナン
沙門たちを見かけること、
lena dhammasākacchā
カーレーナ ダンマサーカッチャー
良いときに法(ダンマ)について話し合うこと、
etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
エータン マンガラムッタマン
これらが最高の吉祥です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「忍耐」。波羅蜜にもある。私はやだなあ。

 

 私のお会いしたことのあるお坊様、ネットでしか知らないお坊様、共通しているのは、「スパルタ」ということだ(笑)。

 

 日本語のネイティブであるプラユキ長老の発言、マハーカルナー長老の教えを受けた人の(長老の発言等)書くものを見ていると、もう熱すぎる。

 

 以前、「「ばか、やめろ、それはスマナサーラの罠だ!」と(笑)。」と書いたことがあるが、スマナサーラ長老も勿論例外ではない。

 

 恐らくほかのどこにも書いてないから私が言うが、テーラワーダの実践をしていると、自分の悪いところが噴出してくる。進度を早くしようとすればするほど、ものすごい勢いで噴出してくる。これに耐えられないのだ。

 

 京極版お岩さんの気持ちがよくわかる。「なぜ見せた!」と言いたい気分だ(笑)。

 

 初めは志の高いアナキンほど、ダークサイドに落ちやすい。スマナサーラ長老も「出家の方が地獄に落ちやすい」とまで言ってしまったことがある。私はこれは慢に陥りやすいからだとばかり思っていた。もちろんそういう罠もあるが、どちらかというとこちらの理由の方が大きいと今は思っている。

 

 出家というのは涅槃に至る高速道路だ。日本の高速道路は一般道より安全と言っていい側面があるが、涅槃に至る道はそんなに整備されていない。

 

 在家には在家の道がある。私は、「もっとゆっくりでいいのではないか」と思う。経典にも、「在家になって(経典では「還俗して」となるが)お布施をして暮らそう」とそこここで出てくる。在家といえば、お布施する人たちなのだ。

 

 だからテーラワーダの国々の人たちは、色々お布施する。仏教関連に対してもお布施するが、そうでないところにもよくお布施する。

 

 日本では冥想ばかりが「修行」となっていて、教法を学ぶことや、特にお布施など、まったく「修行」とはなっていない。もったいないなあ、と思う。だいたい、変なことを言うのは、冥想しかやってこなかったような人たちですよ。

 

 私は他の宗教の人たちともよく話すが、お布施をしている人たちと話をするのはほんとうに気持ちが良い。慈悲とも関わって来るではないか。逆に、宗教関連でもきわめてケチな人もいる。正直、気持ち悪い。

 

 別に、お金のことばかり考えていたって良い。だって在家なんだもん。しかしケチはいかん。

 

 そういえばスダンマ長老が言っていたが、ケチが行き過ぎると、自分にもお金(やモノ)を使わなくなるらしい。だから日本の若者が「~離れ」と言われるが、もちろん社会的な環境も大いに理由があるが、これはケチが進んでしまっている、ということを指している。

 

 これは今までの環境的な要因も大きいし、私はだからといって「使えよ!」などとはとても言えないが、慳というのはそれほど難しいことなのだ、ということは言っておきたかった。大概の人は、自分がケチだとは思っていない。当然、私のことも含んでいる。未だに相当慳について、自分で気付いていないだろう。

 

 悪作でもいつも言う通り、「ああ~、お布施できなかったー」と思うのは、悪行為だ。当然、「ああ~、お布施できないー」も悪行為。もしお布施できたら、「やったー!お布施できたぜぃ」と喜べば良い。まず最初はそこからかも知れない。スーパーの募金箱に、数十円でいいから募金してみて、喜んでみることから始めるのも、良いかもしれない。

 

 尚、何度も言うように、他人にお布施を強要するのは盗みや恐喝だ。念のため。また、まともな出家がそういうことを言っているのを「恐喝だ」とか言って攻撃し出したらどうなるかは、もう書かなくて良いですな。口の行為は、身の行為より重い。


 「素直に聞き入れること」。これが難しいことは、私も実体験として知っている(苦笑)。ここも修行ですな。

 

 しかしそのためには、まともなことを言ってくれる周囲の人が必要だ。

 


 「沙門たちを見かけること」。ただ出家を見るだけで、もう吉祥なのだ、とスッタニパータは言っている。

 

 当然と言えば当然だ。このお釈迦様の教えを正しく伝えてくれる集団が無ければ、教えは残らない。出家がいるということは、少なくともお釈迦様の教えの名残は色濃く残っている、ということだ。

 

 なぜか日本ではテーラワーダの出家を攻撃したがる自称テーラワーダ実践者が多いが、なぜそうなってしまうかという理由は、上に書いた通りだ。

 

 掃除するためには、きれいな水を使う。汚い水を使っては、下手すればそこがより汚くなってしまう。

 

 あまりにそこが汚かったら、多少掃除したところで最初はきれいになっているのかどうかよくわからない。汚い水で洗ったところで、あまり関係ないかもしれない。しかし、ある程度キレイになってくると、そこが今までどれだけ汚れていたかがよくわかってくるようになる。場合によっては、綺麗になるまでに後どれだけの労力が要るのかが見えてきたりする。この時だ、後ろを向いてしまう可能性があるのは。

 

 そこさえ越えてしまえば、「ま、しょうがないか。めんどくさいけど、やらないとキレイにならんしな」という気分になるかも知れないし、人によっては「うお、キレイになるかもしれんぞ!」とやる気になるかも知れない。まあ、ここまでが結局は難しいわけですよ。

 

 人によっては、ある程度汚いということが見えてきたところで、無いことにしようとしたりする。残念ながら、こうなるともう進歩は完全に止まってしまう。

 

 つまり、前提は「汚い」のだ(笑)。まずはその汚さに気づかないと、どうにもならない。「私はキレイです!」とか言っていても、大体の人には見えている。ごくごく一部、そういうのが好きな人もいるが。

 

 ではテーラワーダ性悪説なのか、というと、そこら辺は微妙な話になるのであまりしたくない、というか、アビダンマの話に突っ込まざるを得なくなる。

 

 ここら辺の解釈は正直難しいですな。もともと汚いから性悪説なのか、もともと汚いから輪廻するのか、汚れを取ればきれいなものが現れるのか、とか言ってしまえば、魂や真我がある説でも説明できてしまう。

 

 こういう所は、十二縁起の法話を聴かないとわからない。テーラワーダのお坊様の、十二縁起の話だ。世の中で方便を使われているお坊様も、こういうことが分かった上で、方便を使われている。というか、そもそも出家に対して尊敬の気持ちがない在家(テーラワーダ仏教徒)という時点で、ガチガチのテーラワーダ仏教徒である私はお断りだ。

 


 「良いときに法について話し合うこと」。「のべつまくなし法について話し合うこと」とは書いてない。どうせ議論するにしても、まともな資料が日本語では存在しない。方向性はどうせ間違う。

 

 しかし、その数少ない資料をもとにしてでも、最近は私から見ても、というか、私が教えられることが多い。ここのところのネットは。

 

 これは何を意味するのかというと、知識的に、ということではなくて、明らかに実践をして、涅槃への道へと近づいている、ということだ。

 

 人にはいろいろいる。知識的に攻めていった方が良い人もいるが、知識は置いといて、実践ばかり重視した方が良い人だっている。私からしたら信じられない、と言ってしまうが、恐らく日本にもそういう人たちが現れ始めたのだ。

 

 昨日出したリンクにもあるとおり、三蔵全部覚えたって、実践しなければ意味がない。逆に、少しの話を聴いただけで、実践して真理を見る人たちだっている。皆が皆、議論する必要はない。特にこういう人の場合、「良いときに法について話し合うこと」の「良いとき」が重要になってくる。もし誰かが吹っかけてきそうなら、無視すれば良い。そんなの、どこにでもいる。「良いとき」というのは、人によってまったく違う。もしかしたら、結構「のべつまくなし」の人だって、いるかも知れない(笑)。私のように。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

tapo ca brahmacariyañ ca
タポー チャ ブラフマチャリヤン チャ
修行すること、梵行修行すること、
ariya saccāna dassanaṃ,
アリヤ サッチャーナ ダッサナン
聖なる真理を観ること、
nibbāṇasacchikiriyā ca
ニッバーナサッチキリヤー チャ
涅槃に達すること、
etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
エータン マンガラムッタマン
これらが最高の吉祥です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 さあここから無茶苦茶難しい話が出てくる。

 

 「修行すること」。これはいいだろう。

 

 「聖なる真理を観ること」。まあ聖なる真理を次第に見ていく、ということになるのかも知れないが…

 

 「涅槃に達すること」。できるかい!

 


 「梵行修行すること」。梵行修行とは、一切の性的な行為から離れることだ。八斎戒でもkāmesu micchācārā veramaṇī sikkhāpadaṃがabrahmacariyā veramaṇī sikkhāpadaṃになる。出家は当然のこと、アナガーリカもこれに当たる。だから、在家には八斎戒の時以外、関係のない戒律だ。

 

 どうしても性欲が気になる、という人は、不浄隨念をすれば良い。貪性の人には、もしかしたら深刻な問題かもしれない。他にも身起念や、仏教協会の経典にある勝利の経などはスッタニパータにあるものだから、力があるかも知れない。

 

 不浄隨念は、何度も書いているように、「これがテーラワーダだ」と思われたら困るので、普通強調したりはしにくいのだが、良い機会なので、いつものスガタ冥想センターの経典から、不浄隨念の箇所を引用して終わりたい。

 

 これは経典ではないので、日本語でそのままやっても、暗記してもまったく問題ない。お坊様の中にはこのままだったり、これから見るとバリエーションだったり、場合によってはこの偈はまったく知らなかったりする、そのくらいのものだ。しかし冥想としてはしっかりしているものなので、安心してほしい。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

aviññāṇāsubhanibahṃ
アウィンニャーナースバニバン
識のない身体(死体)は不浄です、
saviññāṇāsubhaṃ imaṃ,
サウィンニャーナースバン イマン
識があってもこの身体は不浄です、
kāyaṃ asubhato passaṃ
カーヤン アスバトー パッサン
念(サティ)を育てる人は、
asubhaṃ bhāvaye sati.
アスバン バーワイェー サティ
この身体の不浄を観察し実践して下さい。

vaṇṇa-sanṭhāna-gaṇdhehi
ワンナ サンターナ ガンデーヒ
私のこの身体の
āsayokāsato tathā,
アーサヨーカーサトー タター
毛などの三十二の不浄物は、
paṭikkūlāni kāye me
パティックーラーニ カーイェー メー
形も臭いも存在するところも、
kuṇapāṇi dvisoḷasa.
クナパーニ ドゥウィソーラサ
どのように観ても汚いものです。

patitamhā'pi kuṇapā
パティタンハーピ クナパー
身体から出てきた汚いものよりも、
jegucchaṃ kāya-nissitaṃ,
ジェーグッチャン カーヤ ニッスィタン
身体にある汚いものは汚い、
ādhārohi sucī tassa
アーダーローヒ スチー タッサ
身体にある汚いものは
kāyo tu kuṇape ṭhitaṃ.
カーヨー トゥ クナペー ティタン
存在するところも汚いからです。

mīḷhe kimiva kāyo'yaṃ
ミールヘー キミワ カーヨーヤン
その身体は汚いものの中に生まれるウジ虫のように
asucimhi samuṭṭhito,
アスチンヒ サムッティトー
汚いものの中に生まれたものです。
anto asucisampuṇṇo
アントー アスチサンプンノー
排泄物でいっぱいになっている便所のように、
puṇṇavaccakuṭī viya.
プンナワッチャクティー ウィヤ
汚いもので満ちています。

asuci-sandate niccaṃ
アスチ サンダテー ニッチャン
腐った肉を入れた鍋に穴が空けば汚い液体が出てくるように、
yathā medaka thālikā,
ヤター メーダカ ターリカー
この身体からも汚い液体が出てきます。
nānā kimi-kulāvāso,
ナーナー キミ クラーワーソー
身体の中にはウジ虫のような虫がいます。
pakka-candanikā viya.
パッカ チャンダニカー ウィヤ
汚い水たまりのようです。

gaṇḍabhūto rogabhūto
ガンダブートー ローガブートー
この身体は腫れ物のようなものです。この身体は病気です。
vaṇabhūto samussayo,
ワナブートー サムッサヨー
この身体は傷のように治すのが難しい、
atekiccho'tijeguccho
アテーキッチョーティジェーグッチョー
とても気持ち悪いものです。
pabhinna-kuṇapūpamoti.
パビンナ クナプーパモーティ
あちこち壊れる汚いものです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで