さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

人に合わせて説法、冥想指導する

 スダンマ長老は、別に長老がおっしゃる教えを広めるのに、許可などを求めない。

 

 ただ、改変されると困る。以前、書き起こしというか施本を作る時に、なぜか内容をことごとく改変されたことがあった。長老は全くそんなことは言っていないにもかかわらず。あれはほんとうに困る。

 

 しかし、まったくそのままでも困る(笑)。正直、スダンマ長老は、文字に正確に起こすと「あー」とか「えー」とかが多い。ネイティブからすると、てにをはは微妙だ。しかし、長老のおっしゃる意味を理解しないと、その修正ができない。

 

 当然だが、長老は在家の理解を超えたことを言う。でなきゃ、教わる意味がない。我々がその場ですぐにわかるようなことばかり言っていては、成長は期待できない。逆に、分からないことばかり言っていたら、今度はつまらなくなってしまう(笑)。

 

 施本などについても、「教えを広めるためであれば」許可を求めない。商用に使うとなれば、たとえば丸々内容はそのままなのにちょっと改変して売る、とかいうことは、そもそも五戒に反する。偸盗だ。当たり前だが、「これは自分が書いたものです」と言って発表するのも、偸盗、普通に盗作だ。まあ、だいたいそんなことをしていても、後で突っ込まれたら答えられないから、「普通は」やらないだろう。

 

 さて、このブログでは散々、「冥想は師匠のもとで」と言ってきた。ちょうど書き起こしをしていたら、大変素晴らしい箇所があったので、そこを引用して、年末のご挨拶とさせていただきたい。

 

 パーリ語の部分については長老に確認していないので、厳密には間違いがあるかも知れないが、そこは気にしてはいけない(汗)。

 

 それでは、スダンマ長老の、大変素晴らしい説法を、是非。

 

 全文はいずれしっかり校閲した後、富士スガタ冥想センターのサイトに載る。

 

 

 「サマタ冥想は誰にもどの冥想も合うということは無いんです。人々の考え方をよく聞いて質問してわかってその後で「あなたにはこうこうこういう冥想した方が良いですよ」と教えるんです。」

 

 

以下、引用

 

 

 お釈迦さまの六番目の智力はindriyaparopariyatteñāṇaṃ buddha ñāṇaṃ。

parasattānaṃ parapuggalānaṃ indriyaparopariyattaṃ yathābhūtaṃ pajānāti.

 

 このyathābhūtaṃ pajānātiという言葉は、ありのままに観る智慧、ということです。お釈迦さまはすべてありのままに観ている、ということです。

 

 indriyaparopariyatteñāṇāṃ、こindriya、これは五力、

七つの随眠煩悩というのがありまして、潜在的な煩悩というのが、七つあるんです。

 

一番が貪欲の随眠。欲情へ執着するということ。kāmarāga。
二番目が、paṭigha、立腹、怒ることですね。
三番目が、diṭṭhi。間違った見解、考えに執着してその考えを真実とすること。
四番目が、vicikicchā、疑問が起こる。
五番目が、māna、慢、思い上がり。
六番目が、bhavarāga、有貪随眠、有への欲望、なりたい、偉くなりたい、永遠に生きたい、ということ。
七番目が、avijjā、無明随眠、真実を知らないこと、無知の知

 

 その七つを持っている人たちは、解脱の道に入ってる人ではありません。この七つがあると、解脱の道に入ることもできません。だからこの七つを少しずつ、無くすために修行するんです。そうやって修行していく人たちの五力が強くなります。

 

 五力は、pañcabalaとも言います、pañca-indriyaとも言います、同じです。五力、五根。


 saddhā信、viriya精進、sati念、samādhi定、pañña慧。五つの力があります。saddhā-bala、viriya-bala、sati-bala、samādhi-bala、pañña-balaといった時にはpañcabalaと言います、saddha-indriya、viriya-indriya、sati-indriya、samādhi-indriya、pañña-indriyaといった時は、pañca-indriya、五根という言い方をします。

 

 その五根、別々に区別してお釈迦さまはわかるんですね。人々の心の中に例えばsaddha-indriya、信の心が強い人々がいたら、その人々に合う冥想法とか、お釈迦さまが教えてあげるんです。

 

 ヴィパッサナー冥想じゃなくてサマタ冥想を教えるときは、サマタ冥想は誰にもどの冥想も合うということは無いんです。人々の考え方をよく聞いて質問してわかってその後で「あなたにはこうこうこういう冥想した方が良いですよ」と教えるんです。

 

 信の心が強い人たちには、dasa anussatiという冥想を教えます。例えばbuddānussati佛隨念、dhammānussati法隨念、saṅghānussati僧隨念とかdevatānussati天(神)隨念とか。

 

 信の心が強い人たちには佛の徳を観察する冥想してください、とか。法の六徳を観察する冥想、僧の九徳を観察する冥想、神々の徳を観察する冥想とかがあるんです。そういう冥想をしてください、と教えます。それから、慈悲の冥想をして下さい、と。

 そうやって、お釈迦さまは、人々に合うように、この人はどういう人ですか、この人にどんな教えを説いたらいいですかとちゃんと理解してわかってるんです。だから、このindriyaparopariyatteñāṇāṃという智慧があるということですね。この智慧があると、その人たちに合うような教えをして、それで解脱の道に導くことができるんです。それもお釈迦さまが正自覚者の徳であるという一つの智慧ですね。

 

 お釈迦様は、解脱して49日間の後、初転法輪経を教えた後で、五人の比丘たちが出家して仏法僧がこの世の中に現れました。その後に61人の阿羅漢たちが生まれました。その61人の阿羅漢たちにお釈迦さまは、色んな所に仏法を教えるために行ってくださいと。二人は同じ道を通らないで、一人一人で行ってくださいと、その60人の阿羅漢たちが色んな方向に行かせて、お釈迦さまはウルウェーラという所に行ったんです。

 

 ウルウェーラという所に行って、木の下に座っている時。

 バッダワッギヤという王子さんたちと31人、王女さんたちと一緒に、森の中に遊びに行っていたんです。一人の王子様には、王女様がいなかったんです。だから別な女の人を連れて行ってたんです。その女の人は、その王子さんと王女さんたちが遊んでる時、大事な宝物とかあったすべてのものを盗んで逃げました。

 それでその31人の人たちは、その女はどこに行ったかと探しに行っている時、お釈迦さまが木の下に座っていました。それを見て、お釈迦さまのところに来て、「この辺に女の人が来ましたか?」と訊いたら、お釈迦さまは「どうしてその女の人を探してるんですか?」と訊きました。それで自分たちの宝物を盗んで逃げたということを言ったら、他の人を探すより自分のことを探した方が良いんじゃないですかと、言ったんですね。

 そうしたら王子さんたちは他人のことを探すより自分のことを探した方が一番いいと、私たちも思いますと。

 そうしたら自分のことをどうやって探すのか教えます、と言ったので、この人たちもお釈迦さまに礼拝して座りました。お釈迦さまはその人たちに説法します。その説法を聞いてその31人もお釈迦さまの弟子になりました。次に出家した弟子たちのことですね。

 

 この話を見ると、他の人だったら、そうやって遊びに行ってる人たちに声かけて説法したいとか、全然思わないんですね。遊びに行って説法したいとか。遊びに行ってるんですから、遊びに行っている人たちに何の説法するんですか。話しても、声かけても遊びについて話すしかありません。今の人たちは。

 

 お釈迦さまはそうではなくて、ちゃんとのその人たちのindriya、五力をちゃんと理解して区別して、この人たちはどんな五力を持っているんですか、五力はどうやって育てるんですかとわかってるんですね。わかってるんですから、その人たちに合うように話をすることができるんです。

 簡単に言うと、indriyaparopariyatteñāṇāṃという智慧は、すべての人々の考え、心の形をちゃんと理解してその人たちに合うように説法することができる、という智慧を持っているんです。

 それは、お釈迦さまが正自覚者であるということのひとつです。

 

 

 スニータという子供がいました。この子供は前世に独覚佛陀に悪口を言って、独覚佛陀が托鉢をしているところを見て、なんでお前は托鉢してるんですか、体に皮膚の病気がある人みたいに、と。

 病気の傷が見えないように衣をちゃんと着てるんですから、それを隠してるみたいな形で、衣をかけて、どうして托鉢してるんですか、と。自分で田んぼを耕してご飯を作って食べたらいいんじゃないですかと、色々悪口言ったんですね。その結果としてこの子供は、色んな地獄に行ったり、人間界に生まれてもとても低いカーストの中で生まれて、偉い人の前に行くこともできない人として生まれてきたんです。

 でもこの人は前世はとても良いことをしてきた人で、十波羅蜜も実践してきて、悟りを開く力を持っていたんです。一度お釈迦さまは朝、今日は誰を助けてあげたいなあと思ってお釈迦さまの智慧で世の中を見ると、そのスニータという子供は道の掃除しながら、それからトイレの掃除とかして、汚いものを運んでいる。

 

 この子供を見て、この人は徳がある人だから助けてあげたいなあと思って、比丘たちと一緒に、この子供が掃除している道に来たんです。

 その子供はお釈迦さまが近くに来るまで見えなかったんです。それで近くに来るとお釈迦さまと比丘たちがたくさん並んで来るのを見てびっくりして、どうしよう、と。逃げるところもないし隠れるところもない、だから、どうしようかと。手を合わせて、ごみ箱の横で見えないように座っていたんです。

 お釈迦さまも近くまで来て、スニータという名前で呼んで、あなたはこの苦しい世界から離れて、出家の世界に来たらいいんじゃないんですか、と聞いたんです。そのことを聞いただけでとても喜んで、怖い心もなくなって、「世尊よ、私みたいな低いカーストの人たちにも出家することができますか?できるんであれば、私を出家させてください」と言ったんです。

 

 そうしたら、お釈迦さまは、ehi bhikkhu.来たれ、比丘よ、という、これはお釈迦さまにしかできない、出家儀式があるんです。お釈迦さまは戒律の中で、八つの方法で出家儀式ができると言ってるんですね。8番目にある出家儀式を、今行ってるんです。テーラワーダ佛教社会では。

 一番目の出家儀式は、お釈迦さまが、誰か出家したい人がいると、その人に右手を出して、来たれ、比丘よ、と呼ぶんです。その呼ぶことだけで、その人が比丘になります。それはお釈迦さまが持ってる不思議な力です。それはehi bhikkhu pabbajjāと言います。大乗佛典にも出てくる話ですね。

 お釈迦さまは来たれ、比丘よ、と呼んだんです。前世積んだ功徳を持っていたこのスニータは、自然に髪の毛を剃って、衣を着て、マハーテーラ、大長老みたいな恰好で、お釈迦さまの前に出たんです。

 お釈迦さまはそのスニータを自分のお寺に連れて行って、彼に冥想法を教えたんですね。最初に教えたのはサマタ冥想です。サマタ冥想をしてpañca abhiññā samāpattiという禅定に入ったんです。その後はヴィパッサナー冥想を教えたんです。ヴィパッサナー冥想を教えたら、それを実践して、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果になりました。阿羅漢になって悟りを開いたんです。

 

 その悟りを開いた時、帝釈天が来て

 

namo te purisājañña
namo te purisuttama,
yassa te āsavā khīṇā
dakkhiṇeyyāsi mārisa.

 

人間の中で一番尊い人間になったあなたに礼拝いたします。
あなたはすべての煩悩を消して悟りました。
だからすべての人々が供養するものを
受けるに値する人になりました

 

 と、礼拝したんです。

 だから、この話を見ると、前世に悪いことをした人なんですけど、その悪行をすべてなくして、お釈迦さまのindriyaparopariyatteñāṇāṃという智慧で見て、この人の心はindriya、良い心を持っているということを見て、その人に合うように教えを説いて悟らせることができたんですね。

 

 それは、お釈迦さまのindriyaparopariyatteñāṇāṃという六番目の智力の力です。その力で、スニータさんは悟りを開くことができたんです。お釈迦さまには、人々の心を見てどんな心ですかと、どんな力を持っていますかというのを見て、それに合うように説法することができるという智慧があります。