さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文21

 新年もこの3冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


・仏教事典(仏法篇)(パーリ語-英語-日本語)
 ポー・オー・パユットー著 野中耕一翻訳
 (施本版)


 慈について。

 

 パユットー長老の本の56頁。

 慈についての箇所を抜き出して引用していく。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

A.用語の分析による意味

 

1.慈=(気持ちがある)一切の人・衆生に対して利益と安楽を切望する。または友人に利益と安楽を望む気持ち。

 

B.相(Lakkhaṇa=特徴)、味(Rasa=働き、または作用)、現起(Paccupaṭṭhāna=現状)、足処(Padaṭṭhāna=近因)

 

1.慈(他人が通常の状況において)
 相(特徴)=一切の人・衆生を援助する状態である。
 味(作用)=人に利益がもたらされるように導く。
 現起(現状)=恨み、怨恨をなくす。
 足処(近因)=一切の人・衆生の心を豊かにする状態を見る。

 

C.得(Sampatti:成就)と失(Vipatti:失敗)

 

1.慈: 得=心寂静、怒り、不満がない。
     失=愛情が生じる。

 

D.敵、すなわちその法を破壊するライバルである不善

 

1.慈: 近くの敵=貪欲(Rāga)
     遠くの敵=瞋恚(Byāpāda)、すなわち怒り、不満。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 四無量心について、ここまで簡潔でありながらわかりやすい説明は他に見たことがない。

 

 さて慈はアビダンマにおいて不瞋、無瞋心所だが、慈=不瞋ではない。

 

 世の中には結構不瞋の人はいる。皆さんの周りにも必ずいるはずだ、「怒ったところを見たことがない」という人を。それはそれで素晴らしいことなのだが、ではその人が仏教的に素晴らしいのか、というとなかなかそうとは言い切れない。修行によって怒りを鎮伏した人かもしれないし、生まれつき怒りが生まれにくい人かもしれない。無知によって興味が無いからそもそも怒りも生じない人かもしれないし、「怒りはよくない」と意識している人かもしれない。それはわからない。

 

 怒りの人、怒りの性質の人が怒りやすいのはわかりやすいが、実は欲の人も結構怒りやすい。欲の対象に執着があるので、それを邪魔されると結構苛烈に怒る。

 

 sukha、dukkha、adukkhamasukha。「揺れない心」というのは、adukkhamasukhaのこと。私も「なぜsukhaがいけないの?」と思っていたが、それはsukhaが無くなるとdukkhaが生まれるからだ。だから、sukhaがいけないからといってdukkhaで押さえつけるのも間違いだ、ということがこのことからもわかる。dukkhaばかりだと今度はsukhaを追い求め始める。

 adukkhamasukhaは中道。むちゃくちゃ難しい。


 で、慈は不瞋に含まれる。だから、不瞋に対して慈は狭義、と取れる。慈は不瞋より意味が狭いと言えるのだが、こう言ってしまうとまるで慈の意義が小さくなってしまう気分になる。とんでもない。

 

 ただの不瞋は、ここでも何度も書いているように、瞋「ではない」範囲。それが善行為であることは間違いない。しかし、力の強さは色々ある。ただ怒らないだけが善なのか、というと、それだけで仏道の実践、とはなかなか言い難い。

 勿論自分が怒っていることに気づかないと話にならない。私にもよくある(笑)が、「キレてません」という状態だ。そこに気づいて、「ああ、怒りは良くないのだ」と思って怒りを鎮伏するのは大変良いことだ。これはもともと怒りが出ない人が怒らないことよりも力は強い。

 

 そして、慈はもっと力が強い。無論慈も訓練によって強弱が出るが、「怒らないこと」は、結局は「怒り」がないと実践できない。慈は、別にわざわざ怒りが出てこなくてもできることだ。だから引用B.にあるように、

 

 慈(他人が通常の状況において)

 

なのだ。自分も通常の状況において、の時に念じたり、実践することができる。そうしていると、それまで自分で気づいていない怒りがあることに気付くこともできるようになったりする。

 


 お釈迦様に対しても批判する人がいた。「あなたは慈悲とか言いますが、そんなことをしていると地獄に落ちるとかいうことも平気で言います。それが慈悲の実践ですか?」と。これは相手を思っているから言えることで、とにかく信仰さえすれば地獄に落ちない、信仰しなければ地獄に落ちますよ、ということとは意味が違う。意味は違うのだが、私は、アビダンマでは結局そう言っているような気がしてならない(笑)。まあここが信saddhāの危ないところ、と言えるのかもしれない。結局すべてはバランス、中道が大事なのです。そしてそれは、ただのどっちつかずではないのです。

 


 そして、慈の失敗。引用C.

 

 失敗=愛情が生じる。

 

 意外にこれがやっかいだ。本人は慈の実践をしていると思っている。その結果そうなったのだから、間違いなく慈の状態にあると思い込んでしまう。

 以前慈悲の冥想の実践者で、「(慈悲の冥想をすると、誰彼構わず)みんなを抱きしめたくなる」という人がいた。私はその時は黙っていたが、これが慈の失敗の典型的な例だ。またこれが、先ほど書いたように、「それは違うよ」などと言おうものなら、sukhaを邪魔する形になるのだから、激烈に怒られる。

 裏の道にも格言がある。「他の人が(欲で)手を出そうとしている領域に茶々を入れてはならない」。これはそういう意味だ。こちらが危ない。そうとう腕に自信がないのであれば、対処しようとしてはならない。だからだ、スマナサーラ長老があんなにインパクト強くものを言うのは。あれを素人が真似しては、絶対にならない。

 


 というわけで、以前、テーラワーダの教義はむちゃくちゃ難しい、ということを言ったが、実践だって同じだ。テーラワーダの実践は実はむちゃくちゃ難しい。ちょっとうまくいかなかったからといって、何を気に病む必要があろうか。いや、ない。