さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

〈泥沼回〉なぜ素人が冥想指導してはいけない、と言われるのか

 昨日私は、

「それ以上突っ込むと泥沼にはまる」

 と書いた。

 

 今日は土曜日。週末だから、たまには泥沼にはまってみても良いじゃないか!


 まず、こちらをご理解いただきたい。

 施設について

sakuragi-theravada.hatenablog.jp


 a、否定形について

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 

 勝義諦、世俗諦について

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 

 では、始めます。


 しばらく前に、「瞑想難民」という言葉が流行った。今はあまり聞かない気がするが、そういったことが起こる理由もこれだ。

 

 せっかく仏教全般、テーラワーダ、そして冥想に興味を持っている人に対してブレーキになることを恐れて、私は言葉をぼかしてきた。しかし、私にそんな影響力は無いことに今気付いた(笑)。


 サマタの対象は施設だ、と施設のリンクに書いた。即ちサマタでは真理、勝義諦は見えない、ということだ。サマタをすることによって真理、勝義諦を見る能力は養える。

 

 ではヴィパッサナーでは真理を見るのだから施設は関係ないのか、というと勿論そうではない。だから瞑想難民問題が起こる。最初に思いつくこととしては、真理の方向に(心の)目を向けさせるためには施設を用いないとどうにもならない。自分が真理に目を向けるためにも施設を用いる。そこで問題が起こる。

 

 そうならないように、巷にあるヴィパッサナーと言われる冥想は、きめ細かく実践者の状況を見なくても「そんなに」問題が起こらないようなシステムになっている。指導者が近くにいない状況でも大丈夫なやり方で「サマタ」と言われている冥想法もある。初期段階ではそういうことが必要ないようになっているものもある。

 しかし、本格的な冥想実践、特にサマタに関しては、絶対にまともな指導者がきめ細かく観察しないと、危ない。今日はその話。

 


 サマタというと、一点に集中、というイメージがあるだろう。もちろん間違っていない。というか、正しい理解だ。それで終わればなにも問題はない。「それで終われば」。

 サマタに限らず、ヴィパッサナー冥想を実践している人でも、心当たりがあるだろう。冥想時には、いろんなことが起こる。で、冥想実践しているのだから、なにかに集中する能力は上がっている。しかし、その途中で起こった、サマタの対象以外のものに集中してしまって、別の方向へと進みだす。

 素人に言っているのではなくて、ある程度実践している人、集中する能力が上がっている人に対して言うのだから、その方向修正をする時には、他人が聞いたらびっくりするような指導をする。だから、パオセヤドーも、そういった発言を取って流布されるのを大変嫌がっている。当たり前だ、普通の人が聞いたら何の効果もないどころか、害悪でしかない。

 冥想センターで修行する時には週一回から数回、インタヴューがある。私は以前、それは多すぎではないか、と思っていた。私がまともな実践をしていなかったことがここでバレる(笑)わけだが、冥想センターで修行するような人は、普通大変やる気のある人だ。場所によってやり方は色々違うだろうが、基本一日のほとんどを冥想して過ごす。そんなことをしていたら、もし方向を間違ったとしたら、そりゃあ数日でとんでもない方向に行ってしまうとも限らない。場合によっては、手遅れになってしまうこともある。禅定に入って師匠の言うことを聞かなくなった、とかそういう話を聞いたことがあるだろう。

 


 そして、施設の話だ。

 

 世間というのは、別にすべてが世俗諦、施設で動いているわけではない。ある程度(どの程度?とは聞かないでほしい。なぜ聞かないでほしいかは、最後まで読んでいただけたらわかると思う)、真理、勝義諦に則って動いている。でなければそれこそ施設で描くことのできる、常住、楽、我の世界のはずだ。

 例えば、苦。四苦八苦のうち、生老病死に逆らえないのは、施設だけで世の中が成り立っていない証拠だ。施設で生老病死を描いても勿論良いし、実際そういう世俗諦もあるのだから生老病死が施設と取れる部分もあるが、では本気で生老病死を望む生命がいるのだろうか?

 いや、生はあるだろう。教義上生を望むから輪廻する。死も願う人がいる、といえる。そういう期間には、死隨念は絶対にやるべきではない。そういえばこの死隨念も今日の話に関わってくる。虚無的方向というか、厭世的方向に気持ちが向いているのなら、絶対にやめた方が良い。その理由も、この記事でわかっていただけると思う。

 老、病を本気で望む人がいるだろうか?心の底から本気で、だ。病は色々な事情で「なりたい」と思う時もあるかも知れない。では、老は?「私はどんどん歯も抜けて身体も動けなくなりたい。臓器はどんどん動けなくなってほしい」と思う人がいるだろうか?ここではそういう人はいない、という前提で話を進めていく。

 この生老病死を見つめなさい、というのもヴィパッサナーだ。施設ではなく真理を見なさい、ということだから。スマナサーラ長老の話を聞いていて、自然にヴィパッサナー冥想をさせられていた、と気付いた人はどれくらいいるだろう。

 


 さて、施設の話だ(二回目)。

 

 サマタの対象は、施設。施設ということは、実は対象は無限、ということだ。そのうちの一つのみを集中する対象として選ぶことにサマタ冥想の意味がある。「いいからそれに集中しろ」。

 私はスマナサーラ長老の冥想指導を受けていた最初の頃、いろんな疑問が浮かんできた。未だに解決していないことも多いが、長老はとても怖くて、それについて全く質問などできなかった。いまならその理由がわかる。ヴィパッサナーにおいても、「いいからそれに集中しろ」は大事な話だ。なぜか。それに集中しない場合、この記事のことを理解しないと大変危ないからだ。冥想指導するお坊様が、ほかのお坊様や冥想法に対してかなり厳しく批判しているのを聞いたことがあるだろう。その理由はこれだ。

 サマタの方向がちょっと変わって、その一つのみ「ではない」所に行ってしまったとしよう。この一言で、危なさがわかっていただけるだろうか?答えは、「どこに行ってしまうかわかったものではない」だ。

 これを見極めなくてはならないし、どこかへ行ってしまいそうなら、またはどこかへ行ってしまったなら、それを軌道修正しなくてはならない。この能力がないと、冥想指導は危ないからしてはならない。巷にある冥想法は、そこまで危険度が上がらないようにいろいろな工夫がされているが、それでも問題は起こってきている。本格的にやろうものなら、まあ危なくてしょうがない。そういった理由で早く冥想指導者、具体的にはまともなお坊様を育てる環境があってほしかったのだが、どうもそういうことはこの国ではあまり望まれていないらしい。

 

 そしてこれも昨日書いたが、このようにちょっとでも方向性が違ってくると危なくなってくるというのに(ロケットの軌道修正などを考えていただけたらわかるだろう。後になればなるほど手に負えなくなる)、そういう人たちが真剣に読んでいる辞書などを書いている人がこういうことをわかっていないのだから、始末に負えない。熱心な人ほど、変な方向に行ってしまう。そういう責任をもって日本語でのテーラワーダ関連の校閲ができる人を、私は知らない。

 施設の世界は無限。どうとでもできる。対象を一つに、というが、ことはそう単純ではない。そこに至るまでの心の動きも多層的だ。その層それぞれに関わってくる施設もまた無限なのだから、サマタでなくても、ヴィパッサナーでもその段階で色々な問題が起こってくる。そこをきめ細かく軌道修正できる腕がないと、冥想指導はしてはならない。初心者冥想指導がどうも簡単だと思われている節があるが、最初の方向が間違ったらどれだけ危ないか、これでわかっていただけるだろう。そういうことも踏まえた上で、マインドフルネスなどは構成されているようだ。私はよく知らないのだが、もしそちら出身で本気で涅槃を目指したい、と思ったら、冥想について独学だけは絶対にやめていただきたい。正自覚者じゃないんだから。

 


 不貪と瞋。

 

 不浄隨念は不貪の代表格だが、これが瞋になってはいけない。

 善行為とは、不貪不瞋不痴。不貪は、貪「ではない」。では結局何なのか、というと、貪「ではない」無限の世界が広がっているのだから、不貪、としか言いようがない。むさぼらなければいいわけだ。しかし、瞋、怒りではない。

 不貪はすべて、というわけでもないが、ここでなんとなく多層的になっているのがわかっていただけるだろうか。紙で書くとすると、「貪」が〇だとしよう。紙のその他の場所が「不貪」。しかしここで「じゃあ瞋はどこ?」と聞くと、また話が違ってくる。瞋は別の紙の●とかにしないと、ちょっと不都合が起こる。不貪不瞋不痴はそれぞれ論理が違う。

 

 死隨念が不貪にあたるのかは自信がないが、何としてでも生きていく!という欲を減らすため、と取れば不貪になる。しかしこれが瞋になってしまうと、「生きていても良いことないし、死ぬか」となってしまう。これがほんとうにいかん。しかも「何としてでも生きていく!」という意欲は別に悪いことではない。私はここをすぐに誤解してしまうからよくわかる。というか、この勘違いに長年苦しめられてきた、と言った方が正しいかもしれない。正直に言うと、私はあまり生きる気力がない(笑)。

 スマナサーラ長老のお話で、「息をずーっと止めてごらんなさい」というのを聞いたことのある方がいると思う。その前に滝行などの苦行をやって苦しくなると「ぽん」と「生きたい!」という衝動が出てくる、なんて話も聞いた。だから私はそれをやってみようと何度か思ったことがあるが、やろうとするたびに、なぜか「やめろ!やめろ!」という強烈な空気に遭う。まあそこの話は今はどうでもいいので割愛するが、大事なのは、「そういう人もいる」ということだ。

 冥想実践している人は、さまざまだ。何度も言うように、心の癖も様々だ。私のような人もいる。欲ばりばりの人もいる。言われたらすぐに動く人もいれば、どんなことをしようがなかなか動かない人もいる。そういった様々な人に対して、心がどういう風に向いていくのか、またどういう風に導いていくのか、そしてそれをどう見極めるのか。

 どういう風に向いていくのかは、もともとのその人の性格と、その人が持っている施設による。どういう風に導いていくかも、どう施設を操るかによる。

 


 昨日、「私は学生時代、「物質面での自分と他人の境界は(なんとなく)分かる気がするが、では精神面での自分と他人の境界はどこにあるのだろう?」と考えていた」と書いた。

 

 これこそあまり言わない方が良いと思って言わなかったのだが、実は慈悲の冥想だって危ない。

 慈悲喜捨自体についてもそうだが、この「私」と「私以外」という境界線も非常に危ない。そんなことを考えたこともない人は、これ以降はどうか読まないでほしい。余分な混乱を招きたくないからだ。

 昨日の段で「有情は施設法」という記述があった。だから、「私」という生命がどこからどこまで「私」でどこからどこまでが「私以外」かは、「どうとでもなる」。昨日は要らない混乱を招きたくなったので「人によって違う」としか書かなかったが、これまたそんなに生易しい話ではない。正確に言うと、「瞬間瞬間によって違う」。

 世の中には、知能的な問題で自分と他人の区別ができない人もいる。ではそれは悟っているのか、というとまったく違う。

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 ここにあるように、一度はきちんと世俗諦を学ばなければだめだ。それだけの能力がないと、悟ることはできない。アビダンマ上三因の人しか悟ることはできない。

 

 さて、ここでの今だけの定義として、「私」というのは「私」と「私以外」で成り立つ「施設」だとしよう。この「私」と「私以外」のバランスをとらないと、慈悲の冥想は逆効果になる。もう思い切って言ってしまうと、非常に危険だ。

 

 スダンマ長老に訊いた。「世の中の人は、他人のために生きてるんです。これは日本だけではなく、どこに行っても変わりません。自分のためにと他人のために、は、中道を」。これはそういう話だ。

 

 富士スガタ精舎の日常読誦経典の「四つの御守りの瞑想」のうちの「佛隨念」にこうある。

 

paññāssa sabba-dhammesu
karuṇā sabba-jantusu,
attatthānaṃ paratthānaṃ
sādhikā guṇa-jeṭṭhikā.

 

世尊の特長は、
あわれみをもって、
自分の為と他人の為に
法を説くことです。

 

 正自覚者であるお釈迦さまであっても、「自分の為と他人の為」なのだ。「他人の為」だけではない。

 多少の謙遜なら良い。その方が社会に出て美しいことは確かだ。しかし、「自分を滅する」ことだけは、絶対にしてはならない。これが自分に迷惑がかかるだけなら問題ないし別に私もことさら言う気もないが、残念ながら勝義諦で言えば自分と他人の区別はないのだから、社会全体に迷惑がかかってしまう。

 あまりにも自分勝手な人に対して「人のことを考えろ」というのにも反対しているわけではない。普通の道徳的な話について、ここで言っているわけではない。しかし、皆さんも実際に会ったことがないだろうか。なんかの宗教で、自分のことは考えず他人のために生きてます、なんて真剣に実践している怪しい人たちを。なぜああなってしまうのかというと、その宗教の教義なりを真剣に実践することによってこの有情の施設法であるところの自分と他人の線の中道がまったくとんでもない方向に行ってしまった結果があれだ。だから慈悲の冥想ではまず「私は幸せでありますように」から始めなさい、と言われるのだが、恥を忍んで白状すると、私はこれに苦しめられ続けている。もとの宗教の影響か、はたまた前世の業か。

 

 そんなこともあって、この施設のこと、また冥想実践する上に於いての施設の扱いについてまったくわかっていない人が偉そうにテーラワーダについて語っているのを見ると、本当に腹が立つ。施設は危ない。本当のことを言えば、腕があればどうにでももっていける。もっと正確には、良い方には相当な難しさ、困難が伴うが、悪い方に持って行くのはそれに比べたら格段に容易だ。人は悪しきに流されやすい。


 冥想指導者を目指したいという人は、それだけの責任と覚悟をぜひもって、精進していただきたい、と切に願う。

 

 また、これでわかっていただけただろうか。冥想「だけ」では真理が見えない、という意味が。インタヴューまではいかないとしても、法話を聞かないと、どんな方向に行ってしまうかわかったものではない。

 

 

 さて、ここまでで軽く絶望していただけただろうか(笑)。

 

 では危ない一辺倒なのか、というと勿論そうでもない。それぞれの性格等によって現れてくる施設はパターンが「まったくない」とは「言えない」し、環境等によってもパターンが「まったくない」とは「言えない」。

 

 言語というのは施設だ。しかしこの言語というのが厄介で、決して絶対的な基準ではない。しかし概ね、ネイティブであればこの範囲で施設は取るよね、というなんとなくの枠組みはある。

 

 言語以外の施設も含め、人に働きかけるにはこの言語という施設が大きな役割を果たす。そこへのきめ細かい対応が、どうしてもネイティブ以外ではハンデがあることは否めない。本人の能力的な問題ではなく、受け取る側の問題だ。

 

 正直に言うと、このことについてスマナサーラ長老に対して「どうか」と思ったことが私には数回ある。一応日本語を母語とする私が、その言い方では日本人に届かない、あるいは誤解されるのではないか、と思ったことが。

 

 テーラワーダを布教するにおいて言語能力が重要視される意味は、ここにある。本人の問題ではない。受け取る側の問題だ。だからどうしても純粋な教義というのは不可能で、受け取る側の文化的背景などがどうしても重要な要素になってくる。

 

 その日本文化の中で、テーラワーダの日本語ネイティブのお坊様がもっと早いうちにたくさん活躍されるのだろうと期待していたが、今私は「もしかして無理かも知れない」と思い始めている。