さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

布施、戒律、冥想

 実は昨日、「こんなことを書いたらお坊様に怒られるかもしれないが、実は私は、冥想を中心にテーラワーダを布教することには大反対だ。いくらなんでも危険すぎる」と書いていたのだが、さすがにこれはどうかなぁと思って消した。

 

 いやあ、消してよかった。今日その理由が分かった。

 

 テーラワーダに於いて、実は冥想よりも戒の方が大事だ。そして、戒よりも、施の方が大事だ。

 

 しかし、まあこれは日本に限らずどこでもそうだろうが、戒というと意味も分からず馬鹿みたいに守るもの、というイメージがどうしてもある。これこそ戒禁取というのだが、まあ最初の段階ではそれでもいいからとりあえず守ってほしいわけで、そういう時には別に「私は戒を守っています」という見栄で人に見せるためでも全然かまわないわけだ。

 

 ところが、そういう人が戒律の意味を理解せずに、「お前は戒を守っていない」と言い出すから問題になる。残念ながらイスラム教でこういう問題が起こっている。親が子に、先生が生徒に戒を強制させるくらいならわかるが、異教徒にまで強制しだす。戒というのは自分で守るもので、しかもそれを観察することによって喜ぶ。それが戒隨念だ。

 

 テーラワーダでは教義上、五戒を守れば人間に生まれ変わることができるという。ほんとかどうかは私にはわからないが、信があれば五戒を守る気になる。

 

 基本的に五戒というのは、結局はどこの国でも良くないとされていることだ。人を殺してはいけない、盗んではいけない、不倫は良くない、嘘はいかん。酒だって、飲酒運転は禁止されている。

 

 ほんとうは、五戒もそうだが、特に八斎戒は、お坊様から授からないとあまり意味がない。五戒では物足りなくなる気持ちはわかる。しかしそういう時は、戒を満たすために、より「濃く」戒を守っていけばいい。殺生戒に対しては慈悲、偸盗戒に対しては布施、妄語戒に対しては真実語、と。在家は五戒だけ、そして寺に行ったときは八斎戒だけで十分だ。

 

 確かミャンマーのやり方だったと思うが、九戒というのがある。八戒に足して、24時間いつでも慈悲の念を保つ、というものだ。「保とうとする」ではない、「保つ」のだ。五戒でも八戒でも物足りない、という人は、是非これをお勧めする。ちょっと考えればわかると思うが、激烈に難しい。24時間常に、だ。さすがに寝ている時は除く。

 

 というわけで、戒を声高に言うと、表面上守ることははっきり言って簡単で、原理主義的になりとにかく人に押し付け始めるので、そうは言えない事情がある、ということだ。

 


 そして問題なのは、施だ。以前にも書いたが、冥想なんかしなくても、五戒なんか守らなくても、お布施をたくさんしている人は世の中にわんさかいる。順番としては、「布施、戒律、冥想」だ。布施も戒律も理解していないのに冥想なんて危なすぎる。私はそう言いたかったのだ。

 

 ほんとうに布施は今の日本では難しい。まずお坊様がお布施の話をすると、すぐ「こいつはお布施を欲しがっている」と言われる。残念ながら他の宗教では実際そういう人もいる。また、「ではお布施をしよう」として誰にでもお布施をすればいいか、というと、あまり大きな声では言いたくないのだが、残念ながらそれも違う。テーラワーダでお布施は、畜生にもお布施だから、どの生命にお布施をしても、徳の大小はあるが、功徳だ。しかし、誰にでもなんでもかんでも与えることをしているとちょっと危険ではないか、と思い当たるだろう。調子に乗ってくれくればかりしてくる人がいる。一昔前であればそこまで問題にはならなかったかもしれないが、残念ながら状況はスリランカでもあまり変わらないらしい。以前は同じ方向に行くのならみんなで同じ車に乗ったりしたそうだが、それを逆手にとって今ではお金持ちの子供を狙ってわざわざ家まで届け、そこで金をもらおうとする人もいると聞く。そうなってくると、誰にでもお布施する、というのはなかなか危険なことにもなってしまう。

 

 そしてさらに残念なのは、これが慳のvañcaka dhammaになってしまう、ということだ。実はケチでお布施したくないのだが、「このように危険ですから私はお布施しません」となること。しかも本人もそれこそが善行為だと思ってしまう。よくあるのは、「こんなものをお布施しては、相手のためになりません」というものだ。本当はお布施したくないのだ。

 

 

 とにかく中道というのは難しい。智慧がないとできない。お布施するタイミングや相手なども現実問題選ばなければならない。相手側の事情もあったりする。正直そこまでは素人ではわからないので、信があると、なぜか上手いタイミングで「あ、お布施だ」と思い立つ。だからここは「確信」ではもったいないと思うのだ。もう少し宗教的な、「信」の方が、人生楽しい。

 

 そしてお布施というのは、なにも物品だけではない。場所を提供したり、能力、手間を使ってあげることも立派なお布施だ。

 

 一応書いておこう。でもだからといって、「場所を提供するのは善行為だ」と行ってずかずかと占領し始める人を想像できる人がいるかも知れない。そういう人は、場所を提供するのは止めた方が良い。善行為には違いないのだが、あとあと面倒すぎる。

 

 と、お布施については強調しすぎるとこのように、悪人に口実を与えることになりかねない。カンボジアは仏教国だ。しかしあのように悲惨な事態を引き起こしたのは、当初はインテリの人たちが仏教に絡めて好き勝手に解釈して無知な人たちを騙したからだ。お坊様がどれだけいようが防ぎようがないほどに。

 

 スダンマ長老もおっしゃっていた。「日本では経典も好き勝手に訳すでしょう?」と。大乗仏教の人は別にそれで全然かまわない。大乗仏教には大乗仏教の教義があるから、下手にテーラワーダと絡めてしまうと問題が起こる。しかしそれと同じように、なぜテーラワーダを勉強する人が大乗仏教の教義を信奉する、しかもその人たちではないか、「小乗」と言っていたのは。なぜそんな人たちの言うことをまともに信じるのか。「間違いだ」とまでは言えないが、言葉の端々に「やっぱり大乗仏教の方が正しいけどね」という匂いがして、たまらない。

 


 まあそんなこと言いながら、私だってまともに布施行は積めていない。最近でも「あ、これは慳だ!」と自分で気付いて嬉しかったほどに、慳ばりばりだ。

 

 しかし実践としては、実は布施が一番簡単で、次に戒律、最後に冥想実践、ということは是非とも覚えておいてほしい。だからといって勿論布施が完成してから戒に行くというわけでもない。十波羅蜜に布施波羅蜜、戒波羅蜜がある。すべて完成しないと阿羅漢にはなれない、というだけのことで、実践はどこから始めても良い。

 

(リンク先の表示が変だが、気にしてはいけない(汗)。当初は、パーリ語にもすべてにルビを入れようかとHTMLで直接書こうと思っていたのだ。が、さすがに面倒すぎる…)

fujisugatavihara.blogspot.com

 

 そういえば思い出した。スダンマ長老から聞いた話だ。

 

 サーリプッタ尊者のお弟子さんで、名前は忘れてしまったが大阿羅漢のお坊様がいた。大阿羅漢なのだから前世のいつかで布施波羅蜜も積んでいるはずだが、慳が無い、ということなのかも知れない。

 

 そのお坊様は阿羅漢になってからも、まともに食事が食べられなかったそうだ。托鉢に行っても食事のお布施をする人はなぜかそのお坊様の鉢にはいっぱいの食事があるように見えてしまい、お布施することができなかった。

 

 あまりに不憫なので、師匠のサーリプッタ尊者は、そのお坊様が亡くなる時に自分で托鉢した分をそのお坊様の鉢にあげようとすると、その瞬間その食事は煙となって消えてしまった。結局そのお坊様は一生お腹いっぱい食事が食べられなかった。

 なぜそうなったかというと、大阿羅漢になるような方なので、前世も含め冥想実践は恐ろしく重ねていたわけだが、布施行をほとんどしていなかった。その業により、あまりにも食べ物に恵まれなかった、ということだ。

 この話を聞いて、「じゃあそのくらいまでに布施行は積んでおけばいいのか」と思った人は、ケチなひとだ(笑)。それこそを「慳」という。ちなみにケチがひどくなると、自分にまで金、物を使わなくなる。

 


 逆に、シーヴァリー大阿羅漢がいらっしゃる。テーラワーダの寺の食堂に四天王といっしょに描かれていることが多い。鉢のご飯に手を入れているのは、常に食事に困らなかった、ということを表している。

 

 たとえ山の奥深くに行こうが大洋のど真ん中に行こうが、食事の時間になるとなぜかどこからか食事が出て来た。なぜかというと、前世を含め大変な布施行を積んできたからだ。ある時などは、何もお布施するものがなかったから、自分の喉に手を入れて食べ物を吐き出し犬にお布施した、という話まである。


 お布施というのは、人にさせるものではない。自分がして、する前に、している時に、した後に、喜ぶものだ。最初からそれは難しいかもしれないから、だんだんだんだん、修行していけばいい。自分がいつかした布施を思い出して喜ぶことを捨隨念cāgānussatiという。この捨はupekkhāではなく喜捨の捨。

 

 また、人がお布施をしたのを喜ぶのも大変良いことだ。これは随喜と呼ぶ。立派な善行為だ。

 

fujisugatavihara.blogspot.com

 

 何度も言うが、お布施というのは別にテーラワーダの僧伽にするものだけを指す言葉ではない。異教徒は勿論、悪人にも、畜生にもお布施。相手の徳が高ければお布施の徳も高いとは言うが、では「徳の高い人にしかお布施しません」というのは、慳だということはもうわかっていただけるだろう。「徳の無茶苦茶高い人を探し出してお布施をすると、ちょー徳が高いに違いない」などと考えるのは、もう病気だ。これは間違いなく欲のケチですな。慳とは「(あるのに、与えて問題が無いのに)与えないこと」。

 

 日本には、食べ物にはまったく困っていないペットが結構いる。病気になっても面倒を見てもらえる。前世で布施の徳を積んでいたのかも知れない。最近聞いたのだが、天界にも畜生はいるそうだ。天界だから楽には違いないので四悪趣の畜生とは違うようだが、そういえば天界の画の中にやたらと麗しい動物がいた気がする。

 

 布施だけだと、食べ物には困らない。五戒を守ると人間になれる。冥想すると悟りが開ける。しかし、冥想するには人間でないと難しい(というか無理)だし、食べ物がないと修行できない。

 

 今、「かなり宗教的な話だが、大丈夫だろうか」と書こうとして、はたと気づいた。考えてみれば、布施も戒律もかなり宗教的な観点に踏み込まないと説明できないから、今まで強調してこなかったのか、と。これこそ信saddhāが無いと、「そんなばかな」で終わってしまう。なるほど、そういうことだったのか。

 

 だから宗教心のあるイスラム教各国では布施文化があるし(過激派が多い所はどうなのだろう。まったく知らないが)、キリスト教国でもまだまだ残っている。テーラワーダの国々は当たり前で、では果たして、大乗仏教の国、日本はどうなのだろう…。何度も言うが、布施は自主的にしてこそ意味がある。強制徴収は、お布施とは言わない。それは「料金」とか「代金」とか言う。または「恐喝」とか?

 

 

 これらを理解していただけだと仮定して、最後に最も難しいことを言おう。「お布施できなかった」と後悔することは悪作、悪行為だ。「戒が守れなかった」も同様。

 

 しかし、まったくお布施もしません、戒律も守りません、という人には、お坊様も少しくらい脅すことはある(笑)。