アビダンマ(略)の読書感想文24
今日もこの3冊にお世話になります。
・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
アビダンマッタサンガハ刊行会
・アビダンマ基礎講座用テキスト
ウ・コーサッラ西澤
・仏教事典(仏法篇)(パーリ語-英語-日本語)
ポー・オー・パユットー著 野中耕一翻訳
(施本版)
捨について。
パユットー長老の本の56頁。
捨についての箇所だけを抜き出して引用。
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A.用語の分析による意味
1.捨=一切の衆生が苦しめ合わないようにと努めることなどは止めて、見守り中立を守る。
B.相(Lakkhaṇa=特徴)、味(Rasa=働き、または作用)、現起(Paccupaṭṭhāna=現状)、足処(Padaṭṭhāna=近因)
1.捨(彼がなした業をに対して負う責任に従って法を維持する状況において)
相(特徴)=一切の人・衆生に対する中立の態度。
味(作用)=一切の人・衆生に平等を見る。
現起(現状)=怒りと無念、それに同調して喜ぶことを抑える。
足処(近因)=一切の衆生はいかに好きなように、楽を得るか、苦を解脱するか、到達し得た成就を失うか、すべての人が自分の業の主である状態を見る。
C.得(Sampatti:成就)と失(Vipatti:失敗)
1.捨: 得=心寂静、喜びも悲しみもない。
失=知らずにじっとしている(愚鈍、無視)
D.敵、すなわちその法を破壊するライバルである不善
1.捨: 近くの敵=無捨(Aññāṇupekkhā)(何も分からずじっとしている、愚鈍、無視)
遠くの敵=貪欲と瞋恚(Paṭigha)(←原文ママ)
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名文だ。これ以上説明のしようがない。
慈悲喜捨のupekkhāと、adukkhamasukha不苦不楽の捨、upekkhāsahagataの捨とは違う。違うのだが、同じととらえても良い。しかし、これは恐ろしく難しい話だ。私の前で「同じですよ」などと言おうものなら、微に入り細に入り突っ込みまくって本当にわかっているのか検証するから、そのつもりで。なにごとも、わかってもいないのにいい加減なことを言ってはいけない。
さて、なぜそんなことを言うのかというと、私くらいの人間からしても、世の中にはいい加減なことばかり言う人がいるからだ。しかし、この捨によって、指摘はしていない。
そもそも私だって、かなりいい加減なことを言っていると思う。自分では現時点では正しいと思っているが、後から「あ、違った」と思うことは日常茶飯事だ。それを優しく指摘してくれるならともかく、大概の人はいい加減な知識から攻撃に出てくる。そういう人の相手はしたくない。
で、私もそういう人にはなりたくないので、現時点でのいい加減な知識で人に指摘するのはやめている、というのが一点。
もうひとつは、せっかく仏教に興味を持って勉強しているというのに、「いや違います、それも違います、これまた違います」などと言われたら、正直どうだろうか。当然、嫌になるだろう。
私もものを教えた経験があるから、先生はそう言わなければいけない時が多いことはわかる。しかしそういう、生徒と先生の関係でなければ、そこまで言う必要はない。そもそも指摘される方だって、指摘する側を先生とはこれっぽっちも思っていない。
テーラワーダでは伝統的に、読経の後や托鉢時、祝福の時に出家が唱える偈がある。「尊敬すべき人を尊敬し」。簡単なようで、テーラワーダとは結局これに尽きるような気がしないでもない。結局人は、好き嫌いで判断してしまう。
遠くの敵=貪欲と瞋恚
それに対し、
近くの敵=何も分からずじっとしている、愚鈍、無視
だ。
以前も書いたような気がするが、智慧のある人と無知な人というのは、はたから見ると区別がつかない。深い智慧で黙っているのか、何も知らず反応していないのか、わからない。
これがまた困ったことに、自分より智慧のある人が何を考えているのかは、わからない。なんとサーリプッタ尊者でも、お釈迦様がなにを考えていたかはわからなかったのだ。これが、賢者が世の中から理解されない理由だ。
また、世の中には多くの修行を積んだのちに説法し、我々には何を言っているのかさっぱりわからないのだがなんだかすごそうだ、という人がいる。修行を積んだことは嘘ではないのだから、何らかの力があることは確かだ。しかし、例えば「私はこういう悩みを抱えています」と質問したとする。それに「その悩みは実はないのです」などと言われると、やはりそれ相応の力があるからその場では「その通りだ!」と思ってしまうが、家に帰るとまたぶり返す。典型的な無知の症状、捨の失敗だ。またこれが捨の失敗に特化して力が強かったりすると、目も当てられない。
修行を積んでいる人なので、何事にも動じない。しかしそれが、困ったことに「実はなにごとにもまったく無関心でした」でも、はたからは同じに見える。
正直、無関心であれば、何でも言える。
例えば、私は化粧にまったく無関心だ。だから製品の素材がどうだとか、そういえば以前に石鹸に何かが入っていたとかで大騒ぎになったことがあったが、「だからなんですか?」と平気で言える。
しかし、テーラワーダには関心バリバリだ。教義についてちょっとでも変なことを言おうものなら、烈火のごとく怒り出す。が、世の中の人からすれば「だからなんですか?」だ。大概の人はまず仏教から興味がなく、次にテーラワーダには更に関心がなく、その中でも正しいテーラワーダがどうかなど、ほんの一握りの人もまったく関心がない。
しかし私は詐欺師(笑)なので、「化粧について何か一言」とか言われたら、その場で適当なことを言う自信がある。
お坊様に「口紅の色にだけ注意を払ってください」と言われたとする。
最初はそれだけを気にする。しかしだんだん自分の持っている2本の口紅では物足りなくなってくる。中間の色も欲しくなる、もっと大胆な色も欲しくなる。
そうしているうちに、他とのバランスが気になるようになる。ファンデーションとの色合い、他のパーツとの兼ね合い、骨格、髪の色形。
すると今度は服が気になりだす。カバンが気になりだす。アクセサリーが気になりだす。TPOに合わせて、場とのバランスが気になりだす。
ほら、このすべての時に気にしたバランスが中道、中捨ですよ。自分の好みだけを押し付けるわけにもいかず、だからといって周りにばかり気を使っていると今度は自分が主張したいことが埋もれてしまう。しかし最初に気にしているのは、いつも口紅の色。それが「自分」、「自我」。
「無我」というのは、その自我を滅することではなく、ということは口紅をささずに他の化粧はし服もカバンもアクセサリーもして豪華な舞踏会に行くことではなく、きちんと主張すべきことは主張してそれなりの口紅をさしていくことですよ、とか。
そもそも「無我」というのは、「自我」を滅することではない。無我がだんだんわかってくる(悟っているわけではなくても)と、自我は確立していく。自分が何者かだんだん理解してくるからだ。自分が何者かを理解して、慈悲喜捨の心をもって社会との関係を中道、中捨で渡り歩いていかなくてはならない。
在家は、残念ながら外見を整えなければならない。私は整えないが(笑)。
その自我は無常。固定されたものではない。自分によっても、環境によっても柔軟に変えていかなくてはならないが、環境に合わせすぎると自我が消滅してしまう。それを「無我の悟り」とは決して言わないでほしい。それはただのあっぱらぱーだ。勝義諦において「無我」なのだ。言葉ではなくていいから、感覚的にでも施設のことは理解しないと、まずその一歩は踏み出せない。施設のことがわからない人の言う無常、苦、無我は、聞く必要はない。どうせ間違っているのだから。
さて、これを、「お坊様には「口紅の色だけ」と言われたので口紅の色だけ気にしています。他はまったく気にしていません」と取ったら、どうだろうか。申し訳ないが、「バカ」としか私には言えない。
まずは「そこだけのことを考えなさい」ということだ。これをサマタと言ってしまうと語弊があるが、しかし清浄道論の慈の説明でも、恐ろしく沢山の生命に対して「サマタしろ」と書いてある。なぜかというと、サマタだけでは視野が狭くなってしまうからだ。そのことばかり考えてしまう。必要な時は、そうすべきだ。しかし、きっといつか、視野を広げなければならない時期がやってくる。その時に、執着させずにそちらに視野を持って行けるか、が冥想指導者の腕の見せ所だ。
とか言ってると、それっぽくない(笑)?
というわけで、智慧というのは、「見て見ぬふり」ではない。スマナサーラ長老風に言うと「見て、放っておく」、プラユキ長老風に言うと「あるがままに受容する」。だからといって、何も手を出さないわけではない。行動すべき時に行動する。そもそも、問題を無いことにすることではない。それは「無知」という。
何事もそうだが、分かってやっている人とわからずにやっている人では、まったく同じことをしていても、力が違う。
ところで、これを「中捨」と訳した人は凄い。完全に意味を理解している。tatramajjhattatāをそう訳せる人と、是非とも一度お話がしてみたい。