さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文23

 新年の日曜もこの3冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


・仏教事典(仏法篇)(パーリ語-英語-日本語)
 ポー・オー・パユットー著 野中耕一翻訳
 (施本版)


 喜について。

 

 パユットー長老の本の56頁。

 喜についての箇所だけを抜き出して引用します。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

A.用語の分析による意味

 

1.喜=善い果のあった人に喜ぶ。

 

B.相(Lakkhaṇa=特徴)、味(Rasa=働き、または作用)、現起(Paccupaṭṭhāna=現状)、足処(Padaṭṭhāna=近因)

 

1.喜(他人が楽を成就したか、何か良い前進をした状況において)


 相(特徴)=共に喜ぶ。
 味(作用)=嫉妬しない、嫉妬に敵対する。
 現起(現状)=嫉妬心、喜ばない気持ち、あるいは他人の幸せが耐えられない気持ちを駆逐する。
 足処(近因)=一切の人・衆生の成就を見る。

 

C.得(Sampatti:成就)と失(Vipatti:失敗)

 

1.喜: 得=心寂静、嫉妬心が生じない。
     失=楽しくなる。

 

D.敵、すなわちその法を破壊するライバルである不善

 

1.喜: 近くの敵=喜悦(Somanassa)(例えば自分も利益を受けるだろうと喜ぶ)
     遠くの敵=不快(Arati)、すなわち喜ばない、嬉しくない、嫉妬する。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 嫉妬には、喜。

 

 どうもスリランカのお坊様はあまり言わないようだが、ミャンマー式では「世の中が良くならない二法」として、嫉と慳を挙げる。経典にある話だ。

 

 業によって、生まれつき嫉妬が生まれにくい人というのもいる。喜が得意な人がそういう傾向にある。努力型で、結構人気がある。

 

 だから本人もまるで嫉妬とは縁がないと思っているのだが、こういう人が歳を取ってから嫉妬をすると、本人はそれが嫉妬だとは気付かない。まわりも、この人は嫉妬をしない人だと分かっているから、気付かない。

 実はこれが意外に危ない。恥ずかしながら親族にそういう人がいて痛い目に遭っているからよくわかる。vañcaka dhammaによって、「あなたを心配してるんだよ」と言って執拗に絡みついてくる。具体的には、「あなたを心配してるんだよ」と言ってとにかく人が成功、楽を成就することを妨害しようとする。

 

 もちろん言ったことは無いが、たとえ本人に「それは嫉妬だ」といったところで、認めない。別に悪気があって認めないわけではない。本人にはほんとうにさっぱりわからないのだ、それが嫉妬だなんて。

 

 これはなにも嫉妬に限ったことではない。業や、その他何らかの原因によってある特定の感情に縁がなく、歳を取ってからその感情が出てくると、それがなんなのかわからない。こうやって偉そうに言っている私にだって、きっとまだあるに違いない。

 ではどうすれば良いのかというと、慈の時にも書いたように、さらに発展させれば良い。慈では、ただの不瞋(不瞋といったって強弱もあるから不瞋が一概に弱い、ということではないが)ではなく慈を実践しよう、ということだった。そうすることによって、今まで気づかなかった怒りに気付くことができるようになる。

 

 これと同様、自分は嫉妬とは縁がない、と思う人は、さらに発展させて、喜を実践してほしい。「嫉妬しない」だけでは不十分で、積極的に人の成功を喜ぼう、というわけだ。これにより、これまた今まで気づかなかった嫉妬に気づくことができるようになる。これが意外におもしろい!

 

 私は当然自分に自信がないが、喜をやろうとして、うまくいかないことがある。暫く「なんでだろう?」と思うが、突然ふと「あ、嫉妬してる!」と気付く。この時が、たまらない。「うわ~、こいつ(私のことだ)自分は頭良いとか思ってるくせに嫉妬してやんの。バカじゃねーの(笑)」と、笑いがこみあげてくる。

 

 スダンマ長老は上品だから、または私の性格に合わせてなのか、直接的に私に対して「これがいけません」とは言われた覚えがない。しかし、結局は法話の中でそういうことを指摘したりする。しかし、指摘されたことに気づくと、まあこれが頭にくるわけだ。「なんだとー(怒)!」と。

 

 お坊様は、修行者が自分一人では気付くことができないだろうことであるから、わざわざ指摘してくれる。だから、当然自分で認めるにはハードルが高いことを言うに決まっている。自分で気付くようなことをいちいち言う必要はない。「無駄なことをしゃべるな」というのはこういうことだ。

 

 そういうわけで、指摘されると暫くの間受け入れられないわけだ。反発心も生まれる。場合によってはお坊様の欠点を探し出すこともある。

 

 しかしある時、気付く。「あ、これはこういうことだったのか」。

 

 機会に恵まれ、人にこういうことを指摘するチャンスがやってくる時もある。子育てなんてほんとうにこの良いチャンスだ。その時に初めて親の気持ちを知る。

 


 さて、喜の失敗は

 

 失=楽しくなる

 

 どこに書いてあったのか忘れてしまったが、「低俗な笑い」とも書いてあったものがあった。

 とにかく楽しくなってしまう。これが喜の失敗だ。まわりにももしかしたらいるかも知れない、その人の近くにいるととにかく楽しいのだが、細かいことにもよく笑い明るくていいのだが、「なぜそんなことにまで楽しくなれるのだろうか?」という人が。そこまではなんの問題もない。問題は、テーラワーダ的に不道徳なことにも楽しみを示すし、発言としてどうかと思うことも楽しくて積極的に言ってしまう。またsukhaに対する執着も強いので、躁傾向がある。dukkhaに対して耐性が弱く、そういう時にはやたらとsukhaを求めようと盛り上がってしまう。

 

 と、ここまで書く必要はないかもしれない。すまん、個人的な怨恨があるのだ(笑)。


 バランスとしては、どうなのだろう。喜と悲は相性が悪い。悲が得意な人は喜が苦手だし、喜が得意な人は、悲が苦手だ。だからといって、喜が得意で失敗方向に行っているようなら、無理にでも悲をやった方がいいのだろうか。そこはまったくわからない。

 

 また、悲が得意な人は怒り傾向にある人だから、喜をやろうとして「願い事がかなえられますように」などと言ったら、これは「死ね!」ということだ。テーラワーダをやっている人がそんなことを思うはずがない、って?いやいや、私がそうだからよくわかる。私は年中「あいつ死ね」と思っている(笑)。

 

 だから、スダンマ長老は「良い願い事がかなえられますように」と言うことがある。


 この慈悲の冥想の文言、というのもなかなか難しい。清浄道論にも慈についていろいろある。「幸せでありますように、怒りが無くなりますように、妬み(嫉妬、でもいい)が無くなりますように、幸福でありますように、安楽に過ごせますように」。その時に合う言葉を使えばそれでいい。

 

 喜には「(良い)願い事がかなえられますように」の他に、「幸せが続きますように」もある。善い果、楽を成就している者を見て言うのだから、アビダンマ的にこれは喜。しかしこういう気分が「幸せでありますように」という時に生まれても、何の問題もない。ただ、アビダンマ的に「それは喜ですよ」と言いたいだけだ。


 嫉と慳は、世の中が良くならない二法。vañcaka dhammaとして、よく現れる。瞋根心に対応するが、瞋根心に常に必ず現れるわけではない。しかし、瞋根心が完全になくなるのは、不還果になってからだ。つまり、不還果になるまでは、嫉と慳はいつでも現れる危険がある、ということだ。

 

 それだけは、忘れないでいただきたい。