さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文39

 昨日書き忘れてしまったが、身起念は初禅に達することかできる。

 

 恐らく、順に、逆に、とかやっているのが初禅に達するのではなくて、一つ一つのもので禅定に入る、ということなのだろうが、そうするとこれをやるだけで、五自在の初歩的な訓練にもなるし、神通への道が一歩近づく、ということにもなる。

 

 アナパナはご存知の通り、第五禅定にまで達することが出来る。

 

 これまた以前にも書いた通り、身起念もアナパナも、大念処経にある。あれに書いてあるのはヴィパッサナーだ、とも言ったが、だとすると、業処と違い、性caritaについてはそちらは考慮しなくてもいいのかも知れない。別に禅定に入る必要もない(というか、入ると「できない」)。

 

 というわけで、ここでは飽くまで業処、止修習について言っているのであって、ヴィパッサナーについては冥想指導者に従ってください、ということになる。

 

 ヴィパッサナーにも増して、サマタは冥想指導者につかないと、軽く変な方向に行く。本格的にやるなら、必ず指導者を探すこと。

 


 それでは、今日もこの2冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


 278頁。

 

 無量4。

 

 この本では初めて慈の説明が出てくる。

 

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慈 あらゆる有情を慈しんで楽を与えたいと思うことで、その自性は無瞋心所である。しかし、無瞋心所がすべてこの慈ではない。聴聞などの際にも無瞋心所が相応しているが、これを慈とは言わない。慈しみを受けるべき有情施設を所縁とする場合だけを慈という。

 

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 以前にも書いた通り、心所としては慈は無瞋心所だが、いつも常に慈ではない。

 

 これは「慈は無瞋より狭義」といって間違いではないが、なんかこれでは慈が無瞋より小さいものに思えてしまう。もう前にも書いたから書いてしまって良いと思うが、水野弘元にはこういう配慮がまったく無い。この本に関してはウェープッラ長老が関わっているので「あまり」そういうことがないが(そもそも本文を中心に書いているのはウェープッラ長老と戸田住職だ)、長老が関わっていないまえがき、「アビダンマッタサンガハの解説」はひどい。しかもむかつくことに、「間違い」とは言えない。正直、「ものは言いよう」と言いたくなる。


 ま、愚痴はその辺にしておいて。

 

 結局、「有情施設を所縁」とした時には慈という、とのことだ。生命を対象にしていないと慈は発生しない、ということだ。この説明はわかりやすい。

 

 先日苦行について書いたが、結局苦行とは、この慈のことだ(笑)。恐ろしく難しい。だから波羅蜜にも慈波羅蜜がある。

 

 ネットを見ると、「慈悲の冥想やるとこんなに効果がありました!」という書き込みが結構ある。私は心底うらやましい。一応慈悲の冥想を初めて十年余、そんなことを感じたことは一度もない。

 

 慈悲の冥想は誰でも死ぬほどやるべきだ。それは間違いない。お釈迦様も泣きながらやりなさいとおっしゃる。ただちょっと方向性を間違ったりするので、法話は聞いた方が良い。以前にも書いたと思うが、vañcaka dhammaを破る方法は、法話を聴くしか方法が無い。動画やネットでも良いが、たまには生で聴いた方が良い。生だと、腕のあるお坊様はその時のあなたにしっかりと対応したことをおっしゃって下さる。

 

 そういう時に、「あれ、教義と違うんだけど?」と思う時はあるかも知れない。そういう時に思っている教義は施設だ。気にするな。

 


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捨 所縁の有情施設に対して無関心であること。つまり、慈しみも憐れみも喜もなく、「一切の有情は業を自己とする」と見ることであり、その自性は中捨心所である。

 

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 西澤先生の本の71頁にこうある。

 

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捨 upekkhā (略)(慈などの修習によって第四禅まで達し、捨によって第五禅に入定できる)

 

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 禅支と対応させて、慈悲喜は第四禅まで、捨は第五禅のみ、となる。

 

 「悟りの光が現れますように」というのは、実は言葉がこれしかないからだそうで、厳密に言うと(大事なことだから二度言います、「厳密に言うと」)これは実は慈だ。

 

 だから、「悟りの光が現れますように」では、第一から第四禅定に入ることが出来る(はずだ)。そして、それが捨に移行するようなら、同じ言葉でも第五禅に入ることが出来る。

 

 私はどちらかと言うと、捨が第五禅「のみ」、というのがよくわからない。捨だけをやっていたら、いきなり四つ飛ばしで第五禅に行けるというのか。

 

 西澤先生の本のニュアンスから言うと、それは不可能のようだが、どうなのだろう。この章、摂業処分別の最初の止修習について「禅支を順次寂止させていく定」とあるので、やはり飛ばすことはできないのだろう。

 

 もし「いや、そんなことないよ」という方がいたら、ご一報いただきたい。証明するには、チャンスは一回しかない。初禅から第四禅に達したことが無い状態でいきなり捨の第五禅に行けた、という状態。

 


 想1。

 

 食厭想。

 

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食物には行乞などの種々の煩いが附き従っているから、その煩いを観察すれば食物を厭う想が生じる。この想が食厭想に他ならない。

 

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 托鉢に行く時にうんこを踏んだ、ああやだなあ、と思うことだ。

 

 いやいや、これはきっちりとお坊様から聞いた話だ。

 

 しかしこれでは、例えば私は一人暮らしをしている時には、「ああ、面倒だ」といってまともに食べ物を食べていなかった。あれが食厭想だと言うのか!

 

 多分違うだろう…。

 

 食べ物を口の中に入れて噛みました。さあそれをいちど出してみましょう。さあ!それをもう一度食べてください。

 

 とか聞いたことがあるだろう。あれが食厭想だ。これこそ完全に「これがテーラワーダだ!」と思われたら困る。

 

 しかも、これをやる意味も私にはよくわからない。食に対する執着が日本人は凄いというのはわかるが、そしてこれは禅定には達しないのだが、こんなことやったらまともに食べ物が食べられなくなるのではないか。いやいや、それこそがまさにvañcaka dhammaなのかも知れないが。まともにやったことないからまったくわからん。すまん。

 


 差別1。

 

 四界差別。

 

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この身体を地・水・火・風などの要素であると、それぞれの自性を区別する智が四界差別である。

 

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 地・水・火・風「などの」。ここでは四大とは限定していない。怖いよぅ…

 

 西澤先生の本では、限定されている。

 

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四界差別 catu dhātu- この身体を地、水、火、風の四大要素で観察する知、四界が所縁業処

 

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 当たり前だが、この業処も禅定、初禅には達することができず、近行までだ。

 

 四大を知れば、最低限名色分離智の色を認識することはできるのかも知れないが、結局純八集、不簡別色が最低限わからなければ無理だろう。

 

 まあしかし、名色分離智とか言っても、そんなこと知らずに預流果に行く人は、はっきり言っている。行った後に「え?そうなの?」という人も恐らくいると思う。どこまで細かく知るかは、というかそんなこと知るのは、現代では出家でなければなかなか難しいのではないだろうか。

 

 当たり前だが、名より色はわかりやすい。色は変わりやすい、壊れやすいから色、だそうだ(パーリ語では)。

 

 しかしこの色というのがくせもので、現代における物質のイメージとはまるで違う。単純に考えて、「名でなければ色」と覚えておこう。厳密には問題になるが、まあその程度の理解で十分だ。それ以上は、きっちりと色の勉強をしないと、とんちんかんな方向へ行ってしまう。

 

 お坊様でも言うことがあるが、すまん、あれは方便だ。冥想における色を粒のようなものだと思ってしまうと、色のことはまったくわからなくなる。

 

 路も便宜上〇(まる)とか文字とかでやるので余計そう思ってしまうのだが、そしてそれは最初には大変便利なのだが、その意味するところがなんなのかを見誤ってしまうと、冥想がそれ以上進まなくなってしまう。ここで初めて言うが、このブログは、超上級者向けだ(笑)。

 

 物理のド素人である私が勝手に思っていることを言うだけだが、現代の科学でも最小単位(である粒)を探そうとするが、粒が「ある」と思っている以上、恐らくどこまでも粒は出てくるだろう、と思っている。まったくいい加減なことを言うが、ミクロの世界にはマクロが包含されているのではなかったか。同じような構造がどこまでも見えて、なにがなんだかわからなくなってしまう。今現在最小だと思われているものは、今現在の技術で見える、または推定できる限界だからだ。

 

 または、こうも考えられるか。粒となると、地水火風の地の部分と言えるかもしれない。テーラワーダに於ける色はあと残り三種類もある。その部分は現代科学ではちょっと物質とは思われていない部分も多い。そうだとすると、もしかしたその地の要素の粒を見ても智慧は得られるのかも知れない。そこら辺はまったくわからない。なにしろ、見たことが無い。

 

 それよりも、「名でないものは色ですよ」と思っていた方が楽だ。涅槃とか心所とかはどうでもいい。そこで納得できないような方は、一緒に色を勉強しよう!

 


 だからやっぱり次は色をやった方がいいだろうなあ、とは思いながら、色についてはまだ用語が覚えきれていない。アビダンマッタサンガハの特徴で、説明も結局他のところを行き来するから、やっぱり三回やるしかないよなあ…

 


 私としては、基本いつものスタンスは、氷菓福部里志のように、「僕に答えはわからないけど、それが違うということだけは確実に言える」程度の知識しかない。

 

 これ以上やるには、以前も言った通り一度総ざらいしないとダメだ。この後の冥想の智慧の段なんか、危なすぎる。どちらかというと社会的に(笑)。無色の業処については、このブログではもうやらなくていいだろう。

 


 というわけで、申し訳ない、一度だけお手数おかけすることをお許しいただきたい。総ざらいせずに、このまま色をやっても良い、という方だけ、今回のブログ更新のお知らせtwitterに返信をいただけますか?一人だけでもいらっしゃるようなら、このまま色に突っ込みます。

 

 恐らくこの週末はお返事もできませんが、火曜12日の夕方時点で返信があるようなら、現時点で色だけ猛勉強します!間違える可能性大ですが、そこもご寛恕いただける方限定でお願いします…