さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文30

 今日はこちらの本だけにお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


 61頁。

 

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世間禅を得るのに、鈍慧者(manda-pañña)は初禅を得た後、尋・伺の2禅支を一つずつしか離れられないから、禅の段階が5種となって五種禅となる。しかし鋭慧者(tikkha-pañña)は、その2禅支を一度に離れることができるから、禅の段階は4種となって四種禅となるのである。

 

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 以前にも書いたように、色界禅定は経典では4つ、アビダンマでは5つとされる。アビダンマで5つとされる理由は5禅支に対応させてあるからだが、その尋伺も鋭慧者は一気に飛び越えられる、ということだ。

 

 ということは、アビダンマで言う第一禅定、そして第二禅定に行けば、自分が、または他人が鋭慧者か鈍慧者かがわかってしまう、ということだ。

 

 この違いは読んで字のごとくなのだろうが、生まれやアビダンマ的な違いについては、確かアビダンマッタサンガハには出てこない。

 

 また、経典で言う4つの禅定というのはここでいう4つの禅定と同じことだが、それは尋伺をまとめて4つにする。が、果たして経典にそこまで書いてあるのかは、私は知らない。恐らく経典での説明に対して、それに対応させているのだと思う。経典での説明ではこう書いてあるが、それに禅支(他)を対応させるとこうなるよね、ということだ。私は学者ではないしアビダンマを専門的に勉強したわけでもないからそこまで突き詰めて検証しているわけではないが、硬派なアビダンミストは、経典を読んでも常にアビダンマと対応させているに違いない。

 

 いやしかしそう考えると、意外に面白いかもしれない。

 

 初めてアビダンマを学ぶ時には、私だって「ほんとかよ~」とそこいらで思ったものだ。しかし実践が進んでくると、恐ろしく理に適っていることに驚く。その時に、本当の意味を知る。

 

 だから、ある人がアビダンマを語っていると、その人がどの段階にいるのか、勉強し実践している人には実はすぐにバレてしまう。まあこれはアビダンマに限ったことではないのだが、アビダンマは理論的にわかりやすくできているだけに、そのどこが分かっていないのかを説明しやすい特徴を持つ。

 

 お坊様と話していて、「え!?なんでこのお坊様、私のこんなことがわかるの?何にもそんなこと話してもいないのに」と思ったことは皆さんもう何度もあることだろう。その初歩的な原理は、これだ。

 

 しかし、世間的なことを言い当てるには、その社会単位の施設を知らなければならない。これはけっこう厄介なことだ。たとえ感情の方は読めたとしても、それをその社会のどの施設にどの程度適用させるかは、その社会のことを知らないと(おおむね)できない。

 

 テーラワーダでは、他心通は9禅定すべてやらないとできない。しかし、世間では意外に人の心を読む人はいる。テーラワーダでなくても、「なんでこの人、こんなことがわかるの?」と思った経験はいくらもあるだろう。勘の良い人なら、会いもせずにわかることだってある。

 

 まあだからといって、そういう人たちが心をすべて読み切れるか、というとそうではない。他心通というのはそれとはレベルがまったく違う。

 

 しかしその修行方法(原理)は経典にも書いてある。これには4つあり、身体を見る、話す声を聞く、議論(論争)している話の内容を聞く、心で直接知る、この4つだ。

 

 身体を見る、というのは世間でもわかりやすいだろう。シャーロック・ホームズが有名だが、他にも色んなメソッドがある。テーラワーダから見ても、まったく出鱈目というわけではない。

 

 ホームズの例を見てわかると思うが、あの推理の方法は社会情勢が分かっていないとできない。上で書いた「その社会単位の施設」というのはそういうことだ。

 


 62頁。

 

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〈悲・喜が別々に相応する訳〉悲が相応する時、喜は相応しない。喜が相応する時、悲は相応しない。例えば、悲が不幸な有情を所縁とし、喜が幸福な有情を所縁とする様に、その所縁は互いに異なるため、悲・喜は別々に相応するのである。

 

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 ん?悲と喜の相応についてはなんか前に書いた気がするが、まあきっと気のせいだろう。なんだか既視感がするのだが…

 

 というわけで、私はこういう時いちいち前に書いたものを調べない(笑)。覚えているものについては「確かこれだった」と当たりを付けてやることがあるが、さっぱり覚えていないものについてはめんどくさいので調べない。

 

 なので当然このブログを書いている時もそうだ。「ああ、ちょっとこれは調べて書かないとまずいなぁ」と思う時には仕方なく調べることもあるし、経典の引用などは特に間違っているとまずいので参照しながら書くことがあるが、大概のことは何も調べずに書いている。

 

 それには理由がある。

 

 まず最初は、調べもせずにいい加減なことを言うのはまずい、ということは誰もが理解していただけることだろう。

 

 しかし、その次の段階がある。

 

 しかししかし、日本語でテーラワーダを語るにはその前にそうせざるを得ない段階がある。日本語の資料が間違っている、という問題だ。

 

 まじめな研究者が書いたものは「間違っている」とまでは言えないのだが、「それが正解」か、または「それのみが正解か」となると、首をかしげてしまうものばかりだ。理由は、今日書いた理由が挙げられる。知識的なだけでは、テーラワーダは理解できない。(テーラワーダ的)実践が無いと、そして私の言い方で言わせてもらうと、信saddhāが無いと、おかしな方向に行ってしまう。

 

 今まで日本語で書かれたテーラワーダの学術的資料というのは、残念ながら信saddhāが、テーラワーダで言うお釈迦様に対してではない方が書かれたものばかりだ。

 

 大乗仏教だって、日蓮宗までは「南無本師釈迦牟尼仏」と書かれているから、おなじ仏教には違いないし、志を同じくする仲間には違いないのだが、私のように細かいことが知りたい者にとっては、知識的には頼りない資料であることは確かだ。

 

 しかし知識でマウンティングしようとする人は、その資料を持ち出してテーラワーダの専門家に立ち向かおうとする。お坊様が、この日本で「いや、それは間違っています」とか言えるわけがないだろう。自分のためではなく、相手、またはその持ち出した資料の出どころの社会的な立場を配慮してのことだ。私なんかは何を言っても社会的に影響が無いから言いたい放題言えるが、日本にもテーラワーダが定着しつつある昨今、知識的な最大の壁はこの要因となってしまっている。

 

 まあ逆に言えば、そこまでテーラワーダが浸透してきた、ということの裏返しでもある。そんな細かいことにまで興味を持ち出した人たちがいるということでもあるのだから、以前はこのブログでも「日本のテーラワーダはもうダメ鴨…」みたいなことを書いたような気がするが、もしかしたら意外にいけるのかも、とも最近思い始めている。

 


 まあそれはいいとして(笑)、「次の段階」の話ですな。

 

 スリランカは政治的に不安定な時期があった。ひどい動乱期には、朝になると道路に首なし死体がずらーっと並べられている、なんて時期もあった。

 

 日本にいるとスリランカの人たちはおとなしく見えるが、そういえば昔傭兵の人が、テレビで「赤道付近に紛争が多いのは、気温が高くカッカ来やすいからだ」なんて言っていたが、アーユルヴェーダ的に見ても、あながち間違いではないのかも知れない。日本が世界的に見て近年あまり内戦という内戦に見舞われていないのは、気候が良いという理由が大いにあるのかも知れない。

 

 そしてその時期、と言わなくても最近でも意外にあることだがまあそこは置いておいて、お坊様も投獄されることがあった。

 

 その中にも有名なお坊様がいるわけだが、日本でもホリエモンさんがそうだったように、投獄されていても本は書けた。しかし当然資料はない。どうしたかというと、全て暗記だ。暗記で、三蔵などを引き合いに出し、仏教の本を書いた。単純に言って、暇だったらしい(笑)。

 

 まあまたこれが大変素晴らしい本だったらしく、刑務所から出てきた時に迎えに来たお坊様が冗談で「もう少し牢屋にいてくれれば良かったのに(そうすればもっとたくさん良い本が世に出たのに)」なんて言ったそうだ。

 

 調べるという行為は時間がかかる。当然まったく適当にいい加減なことを言うのは問題だが、ある程度知識がついてきたら、今度は頭にある知識だけで勝負しなければならない時が必ず来る。この意味は何かというと、一度調べるなり勉強するなりする時に「二度と調べられない」という覚悟ができる、ということだ。言語の勉強など、このいい例だろう。全て辞書を見ずになんていつまで経ってもできることではないが、相当量は辞書なんて見ずに話すようにならなければ、会話などまったく覚束ない。その証拠に、我々は日本語でしゃべる時にはほとんど辞書など繰っていないだろう。

 

 以前も書いたように、テーラワーダは座学と臨床が同時に始まる。ということは、最後まで座学がついてくる、ということでもある。だからその効率を上げるためにも、できるだけ調べる時間を減らす、という工夫が必要になってくる。

 

 

 なんてかっこ良さげなこと言ってますけど、実は実際問題時間が無いだけなんすよ…

 


 そういえばホームズの作者も、なぜホームズを書いたかといえば、本業が暇だったからだ。意外に知識の発展には「暇」という要素は、重要なのかも知れない。

 


 いや、そういえば悲と喜の相応を忘れていたが、ここは大丈夫ですよね?