さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

四つの御守りの冥想~慈隨念

 慈隨念。mettānussati。

 

 慈悲の冥想は、mettā bhāvanā。まあ慈しみの冥想ですな。メッター・カルナー・ムディター・ウペッカー・バーワナーとは、普通言わない。

 

 bhāvanāはまあ冥想だとか実践だとかで、anussatiは隨念。繰り返す。

 

 mettānussatiとmettā bhāvanā、なにか違いがあるのだろうか。bhāvanāに比べanussatiは狭義にはなるのだろうが、門と界が違う、とか、そこまでの厳密に気にするような違いはないような気がする。どうなんだろ。わからん。


 いつも言うように、こればっかりは宗教が関係ないので、是非とも、何人たりとも、やっていただきたい冥想だ。

 

 

 引用はいつも通り、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。


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慈隨念

 

attūpamāya sabbesaṃ
アットゥーパマーヤ サッベーサン
自分を例えにして、
sattānaṃ sukha-kāmataṃ,
サッターナン スカカーマタン
他の生命も幸福を好きだと理解して、
passitvā kamato mettaṃ
パッスィットゥワー カマトー メッタン
すべての生命に対して
sabbasattesu bhāvaye.
サッバサッテース バーワイェー
慈しみの心を育てて下さい。

 

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 波羅蜜には、慈波羅蜜がある。果たして上慈波羅蜜と最上慈波羅蜜とは何なのかは私にはまったくわからないが、慈波羅蜜を完成できるような段階にあれば、自然と次のものなど見えてくるだろう。

 

 というわけで、以前は慈悲の冥想「だけ」では悟ることはできないと書いたが、慈悲の冥想はやらなければ、悟りに至ることはできない。

 

 捨波羅蜜もある。が、なぜか悲波羅蜜と喜波羅蜜は、無い。ここら辺も、アビダンマ的に解析していけば面白いのかも知れない。

 


 「自分を例えにして」。結局、他人は、自分だ。人は自分の鏡、なんて言ったりもするだろう。他人の行動の意図を自分の心から解釈していくのが普通だ。それがすべて、とは言わないが。

 

 花物語で(夢の中の)臥煙遠江が言う。

 

「正義の動機っていうのは、大抵の場合悪への嫉妬なんだ」。

 

 当時はあまり意味が分からなかったが、なんかやたらと不道徳を働いた人を攻撃している人を見て、今ならなんとなくわかるような気がする。

 


 「他の生命も幸福を好きだと理解して」。恥ずかしながら、私は長い間どの生命も幸福が好きだ、幸福になりたいと思っているのだ、ということが理解できなかった。周りを見ても、あまりに幸福になることを拒否している人ばかりに見えたからだ。人が幸福になりそうだと邪魔をする。そんなことしていたら、自分が幸福になりそうな時には必ず仕返しに遭う。そんなことしていて幸福になれるはずがない。

 

 実際、これは正しかった。だから、怖くて幸せになれないのだ。誰かに邪魔されるのではないか、と恐れて。

 

 何度も言うように、付き合う人間は選ぶべきだ。これは非常に大切なことだ。場合によっては親族ですら、関係を切らなければならないこともある。

 


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sukhī bhaveyyaṃ niddukkho
スキー バウェイヤン ニッドゥッコー
私はいつも幸福でありますように、
ahaṃ niccaṃ ahaṃ viya,
アハン ニッチャン アハン ウィヤ
苦しみから離れますように。
hitā ca me sukhī hontu
ヒター チャ メー スキー ホントゥ
私とともに私の親しい生命と(好きでもない嫌いでもない)中庸の生命、
majjhattā catha verino.
マッジャッター チャタ ウェーリノー
嫌いな生命も、幸福でありますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 だから、まずは「私はいつも幸福でありますように」。やはり自分が不幸のどん底にあり続けても他人の幸福を望む、ということは、絶対に不可能かどうかまではわからないが、まあできるのは嫉妬しないくらいまでではないだろうか。


 慈悲の冥想の文言で、「親しい生命が」というのがあるが、私はあれにも困った覚えがある。後から考えると勝手に自分でどの範囲か決めてしまえばいいわけだが、なにしろ最初の頃はテーラワーダについてなにもわからない。何が良くて何がいけないのかもよくわからない。「親しい生命とは何なのか、どこからどこまでの範囲を「親しい」と言ってしまっていいのか」などとずっと迷っていた。

 

 言葉的には、「関係の近い生命が」としてもいいかも知れないが、確かに一般的に皆でやろう、という時にはそれよりも「親しい生命が」の方がかっこがつくような気がする。

 


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imamhi gāmakkhettamhi
イマンヒ ガーマッケッタンヒ
この町のすべての生命が
sattā hontu sukhī sadā,
サッター ホントゥ スキー サダー
幸福でありますように。
tato paraṃ ca rajjesu
タトー パラン チャ ラッジェース
これ以外の場所、国、世界、宇宙の生命は、
cakkavālesu jantuno.
チャッカワーレース ジャントゥノー
いつも幸福でありますように。

 

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 慈悲の冥想のやり方でもよく言われる、同心円的なやり方だ。

 

 まあとにかくいろんな文言で慈悲の念を育てれば、それで良いわけだ。気に入ったものがあればそればかりやっても良いし、どれも満遍なくやっても良い。

 

 ただ、できればどんどん範囲は広げていっていただけると、これ以上嬉しいことは無い。なので、まずは「自分」から、次に近い生命、遠い生命、など。この分類も色々ありますな。

 

 しかし、恋人や配偶者、場合によっては家族などは慈悲ではなく慈悲の失敗になりやすいのでまずは避けろ、とか言われますな。

 

 これと同じで、好きな人ばかりやっているのも、問題になる。異性の場合は性欲を膨らませているだけ、なんてことになってしまう。

 

 この区別が難しいと思う場合、あまりに近い人や好きな人は慈悲の冥想から外すべきだ。異性というのは意外な落とし穴なので、最後まで気を付けた方が良い。

 

 以前にも書いた通り、テーラワーダで言う性欲というのはなにも性行為をしたい、という欲のことばかりを指すのではない。異性、現代だと同性に対しても市民権を得つつあるが、意外に慈と性欲の区別というのは、難しい。

 

 まあしかしそこだけ「そういうことがあるのだ」と意識しておくだけで、だいぶ違うと思う。

 


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samantā cakkavālesu
サマンター チャッカワーレース
梵天界に至るまで、この宇宙にある惑星すべての生命、
sattānantesu pāṇino,
サッターナンテース パーニノー
目に見えない命あるもの、
sukhino puggalā bhūtā
スキノー プッガラー ブーター
すべての人間、すべての精霊、
attabhāva-gatā siyuṃ.
アッタバーワガター スィユン
すべての生命が、幸福でありますように。

 

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 更にその同心円を広げていただきたい、ということだ。

 


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tathā itthi pumāceva
タター イッティ プマーチェーワ
それとともにすべての女性、男性、
ariyā anariyā'pi ca,
アリヤー アナリヤーピ チャ
聖者、俗世間の人、
devā narā apāyaṭṭhā
デーワー ナラー アパーヤッター
神々、人間、地獄の生命も、幸福でありますように。
tathā dasa-disāsu cāti.
タター ダサディサース チャーティ
十方すべての生命も、幸福でありますように。

 

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 今度は区別の仕方が変わるが、最後は結局「十方すべて」。東西南北にそれぞれのその間、それに上と下。パーリ語では東北東とか、北北西とかは、言わないらしい。

 

 そういえば、日本人でもその言い方にあまり馴染みが無い方に会ったのだが、もしかしたら私が馴染みがありすぎなのだろうか。気象などやっていると必ず出てくる。天気予報でもよく聞くだろう。

 

 ドイツでも、「そこの言い方は?」と訊いたら、そこには世界各国の人がいたが、どこの国の人にも笑われた。私は「え!?」と思った。

 

 どうでも良い話だが、私は小学生の時に十二支が言えた。たまたま「言える人はいますか?」と発表の機会があったから知ったのだが、そんなのは学年で私一人だった。先生としても、どうやら前提は「いないよね」ということだったらしい。なんか申し訳ないことをした。いや、でも、十二支くらい、子供の頃から言える人は私の年代でもいるでしょ?

 

 なんか、そういうことが多すぎる。世間的に言うと、どうも私は「変人」らしい。私の常識と皆の常識が違いすぎて、社会についていけない。どうしたらいいでしょう?

 

 

 ま、結局は、どんなやり方(方向、種類等)でもいいから、色んな生命に慈悲の念を繰り返し送る練習、それが慈隨念であり、慈悲の冥想だ。

 


 慈隨念終了。