さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

宝経の読書感想文3

 引用は、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

3.

yaṃ kiñci vittaṃ idha vā huraṃ vā
ヤン キンチ ウィッタン イダ ワー フラン ワー
この宇宙、別の宇宙に大事な宝がありますか?
saggesu vā'yaṃ ratanaṃ paṇītaṃ,
サッゲース ワーヤン ラタナン パニータン
天界にでも大事な宝がありますか?
na no samaṃ atthi tathāgathena
ナ ノー サマン アッティ タターガテーナ
どこにも釈迦牟尼如来と同じ宝はありません。
idampi buddhe ratanaṃ paṇītaṃ
イダンピ ブッデー ラタナン パニータン
この理由で佛陀は宝です。
etena saccena suvatthi hotu.
エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
この真実によって幸福でありますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 さてこの偈は、お釈迦様がアーナンダ尊者に直接伝えた偈だ。

 

 ということは、「ずいぶんと尊大だなあ」と感じる人もいるかも知れない。

 

 違うのだ。お釈迦様は普通の人ではない。


 これは確か以前このブログでは書いてなかったと思うが、名古屋で、スマナサーラ長老が言っていた。

 

 天上天下唯我独尊。私も、「ずいぶんと偉そうなこと言うじゃねえか」と思っていた。しかし、長老はこうおっしゃった。

 

 「お釈迦様(その当時は菩薩)は、生まれて、世の中を見渡してみた。自分より優れた生命はいない。「しまった!」。そういうことだ」と。

 

 まあほんとかどうかは確かめようがない(生まれていきなりしゃべった、ということも含めて)が、私はその言葉を聴いていたく納得した覚えがある。

 

 つまり、師匠はいない、ということだ。この意味が分かるだろうか。全て自分で開発していかなければならない。道を示してくれる人もいない。この絶望感。

 

 そんなことはお釈迦様はわかりきっているから、後代の我々のようなものにも、「私は道を示し、それを実証もしているし、実証した弟子たちも数多く生み出した。そういう生命は私以外にはいないでしょ(厳密には過去仏等は除く、となるが、まあここではそこまで言わなくてもいいだろう)?」と伝えて下さっているのだ。「俺は偉いだろ?」とか言ってるわけではない。確か「信者はうんこだ」とか言ってたと思う。正確には思い出せないが、「如来を尊敬しなさい」みたいな文言もあったはずだ。だからあれは、現代にもいる、教祖になろうとする人たちが「私を尊敬しなさい」と慢で、見栄で言うのとはわけがちがう。


 インド文化では、先生が生徒に対して、先生を尊敬しなさい、という意味でこういうことを教えることがある。日本では、西洋化というか、先生に対して上下関係とかではなく平等、とかいうが、あれはほとんど悪平等だ。平等だと思っている人から受ける教えと、尊敬している人から受ける教え、どちらがより自分に入って来るのか、と考えればすぐにわかるだろう。そもそも「尊敬すべき人を尊敬」できない人に対して、尊敬されるべき人が、教えを教えてやる必要もない。

 

 ミャンマーに修行に行って、インタビューの時にお坊様に礼拝したら頭を床に押さえつけられた、なんて話を聞いたことがないだろうか。結構前の話なのでさすがに今はそういうことはしないかも知れないが、当人が亡くなっているからもう言ってしまっても良いだろう、あれは明らかに尊敬する気持ちがないだろお前、という話だ。しかし逆に言えば、それだけのことをしてもらえる段階には来ていた、とも取れる。そこで暴れ出すような奴には、そういうことはしない。

 

 日本にも以前はそういう文化があった。もちろん、私はそれを全肯定するつもりはない。それによって起こった悲劇もあると思う。だから、「尊敬すべき人を尊敬し」なのだ。正直、尊敬すべき人でなければ尊敬する必要はない。しかし、それが判断できるのは、結局は徳の高い人だ。だから、ま、とりあえず尊敬しとけ、となってしまうのだが(笑)、ここら辺は難しいとこですな。


 というわけで、現代の日本から考えると、古代インドは感覚的にもかなり違うところがある。学者が言うことはそこら辺がちょっと配慮されていないかなあと感じることは、以前にもう書いた。

 


 「この真実によって幸福でありますように」。つまり、これが真実でなかったら、祝福する意味はないよ、とまで断言している。

 

 慈悲の心も、祝福と言えば祝福だ。あれは宗教がなんであれ、実践者が無宗教であっても効果があるので是非とも誰であろうともやっていただきたいと思うのだが、ある真実を持ち出して祝福することとは、歴然として力の差がある。

 

 私はパーリ語の文法まで詳しくないのでもしかしたら違うかも知れないが、この日本語を信用するとすると、幸福になる対象は特に決められていない。つまり、自分を含めてすべての生命が、ということだ。

 

 有情施設。慈悲の心、慈悲の冥想は、生命に対して行う。有情施設以外の施設にしても、まったく、とはもしかして言い切れないかも知れないが、正直意味がない。例えば慈悲の冥想は伝統的に、方角に従ってやったりもするが、あれが方角の冥想になってしまっては、残念だ。

 

 

 私は昔、「では植物に対してはどうなのだろう?」と思っていた。そう思っていたら(いつものように、「思っていた」だけだ!)、スマナサーラ長老は「動き回る生命に対して」とおっしゃった。つまり、結局の所、「動物に対してはやりたくない」という私の心など完全にお見通しだったのだ。

 

 しかしその後、確か東京でだったと思うが、「植物に対しても(慈悲の冥想は)やった方が良いと思うんですよねぇ」ということも聴いたことがある。

 

 つまり、「動物に対してはやりたくない」と思っていたうちには、「植物になんてやってもしょうがないでしょ」と言わなければならないし、人間、動物にも慈悲の冥想ができるようになったら、「植物にもやった方が良いでしょうねぇ」となったわけだ。この場合、「うん、植物にやってもいいんだけど」と最初に言われていたら、「じゃあ植物「だけ」にやろう」となったに決まっている。


 また、私は細かい性格をしているので、では身体の中にある細菌等、私が健康的な生活をすることによってだいぶ死滅しているではないか、となるとその責任から逃れるには自分が死ぬしかないのではないか、くらいに思っていたら(これまた「思っていた」だけだ)、「そんな無理なこと言ってどうするんですか。そもそもあの(お釈迦様の)時代には微生物なんて知られてなかったでしょ」と言われ、なるほど、そんなことは気にしなくて良いんだ、と腑に落ちた。

 

 輪廻が

 

 そういえば、ネットで輪廻転生があるかないか論争が繰り広げられていたそうではないか。なにその熱い議論。

 

 私としては、輪廻はあると思っている。正確に言うと、あると「信じている」、かな。

 

 寺にはスリランカ人の子供、赤ちゃんがたくさん来るが、日本に比べ、「あれはいけません、これはいけません」と言われる割合が少ないからか、または輪廻転生という考えが、在家がほんとうにそう思っているのかどうかは知らないが、少なくとも文化的に生まれ変わりについて完全否定するようなところでもないからなのか、もうそれぞれに個性たっぷりだ。

 

 以前にも書いたように、寺というのは力のあるところで、人の本性が出る。赤ちゃん子供にも例外ではなく、だからそれを観させてもらうだけでも非常に非常に勉強になるわけだが、そこで私がある姉妹の相手というか一緒に遊んでいたら、お姉ちゃんの方は犬の真似をする、妹の方は猫の仕草をする。最初は「真似して遊んでるのかな」くらいに思っていたのだが、いやいや、妹の方はもうどんどんエスカレートしていく。

 

 まあそれだけのことだから人によっては「はあ、それで?」となるかも知れないが、私はテーラワーダを学んでいる関係上、その姉妹のお父さんお母さんと前世で関係があった犬と猫だったんだろうなあ、と思わざるを得なかった。少なくとも、その姉妹はすぐ前の前世か、または何世かの間、犬と猫だったんだろう、と。

 

 そういう考えになってくると、誰でも彼でも性格を直そう、という考えは無くなってくる。正直に言うと、性格を直してやりたい奴は死ぬほどいる(笑)が、しかし輪廻転生の業によっていろいろあるのかも知れない、という考えが入るだけで、少なくとも自分は多少楽になる。なかなかこの人間の生まれ、それまでの人生だけですべてを説明しようとするのは、無理があると思う。少なくともいろんな「クセ」まではなんとも。

 

 私がもう少し早く英語が勉強出来ていてアビダンマを学ぶことが出来ていたら参加しても面白かったかもしれないが、残念ながら異熟についてほとんどなにもわかっていない。


 ではアビダンマを勉強していくと輪廻を信じるようになるのか、というと、私はその意見には賛成できない。そもそもアビダンマは輪廻がある前提で話が展開されている。輪廻はないと「信じている」人は、そもそも話が頭に入ってこないだろう。だからといって、輪廻はあると「信じている」私が、スパっと話が入って来るのか、と突っ込まれると大変痛いところなのだが…

 

 この真実によって私とともに皆さんが幸福でありますように。

 

 

 

 そうだそうだ、大事なことを言い忘れていた。sacca kiriyaというのは、なんでもかんでも真実ならいい、というわけでもない。 その真実の内容によって、やはり力の限度はある。真実の内容がそれなりなら、力もそれなりだ。だから、真実の内容がすごいものであれば、力もすごいものになる。それ故、宝経の力はとんでもないものとなる。当然のことながら、その真実を理解していればいるほど、力も強くなる。だから、我々が唱える宝経より、きちんと勉強されたお坊様が唱える宝経の方が力が強いわけだ。わかっていただけたかな?

 

 先日abrahmacariyāについて書いたが、在家だって梵行修行をしたい人は、したって構わない。そして、sacca kiriyaに使えば、相当な力になる、というか、とんでもない力になる。例えば、「私は結婚するまでそういうことはしませんでした。その真実の力によって」というのは、かなりの力になる。私が言いたかったのは、「梵行修行できなかった」といって悔いる事の方がよっぽと悪行為だよ、ということだ。そういうことは在家は気にしなくていいんだよ、と。すまん、言い方が向こうに行き過ぎてたかも知れん。

 

 まあ当たり障りがないのは、「私はここ数年五戒を守っています。この真実の力によって」。当然のこと、善いことに使って下さいよ。残念ながら、これは悪い方にも使えるが、その力が普通とは違うだけに、テーラワーダ的には悪業としてとんでもないものになる。

 

 だからなのだ、「変なことにadhiṭṭhānaしないで下さい」というのは。先日もやかんの話で書いた通り、知らないでする悪いことの方が悪業としては強くなってしまう。その方向性を知るには、やはり法話を聴くしか方法が無い。なかなか教学では難しいんじゃないかなあ。

 

 一応このブログも、そういったことの参考になれば、とは思っているが、さっき書いた通り、言い方が良くなかったかなあ、と思うことは日常茶飯事だ。

 

 こういう時だ、経典を読んで嫌な気分になるのは。「ああ、こうすぱっ!と一言で言える境地に行くには、あとどれだけかかるのだろう…」と。

 

 修行しかないですな…