さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

アビダンマ(略)の読書感想文22

 新年の土曜もこの3冊にお世話になります。


・アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説
 監修 水野弘元、訳注 ウ・ウェープッラ、戸田忠
 アビダンマッタサンガハ刊行会


・アビダンマ基礎講座用テキスト
 ウ・コーサッラ西澤


・仏教事典(仏法篇)(パーリ語-英語-日本語)
 ポー・オー・パユットー著 野中耕一翻訳
 (施本版)

 

 悲について。

 

 パユットー長老の本の56頁。

 悲についての箇所を抜き出し。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

A.用語の分析による意味

 

1.悲=他の人が苦しみを体験したとき、善人に対して心を痛める、あるいは他の人から苦しみをすべて取り除く、また苦しんでいる一切の人・衆生に対して心を広げて受け止める。

 

B.相(Lakkhaṇa=特徴)、味(Rasa=働き、または作用)、現起(Paccupaṭṭhāna=現状)、足処(Padaṭṭhāna=近因)

 

1.悲(他人が苦しんでいる状況において)
 相(特徴)=一切の人・衆生に苦をなくす状態である。
 味(作用)=一切の人・衆生が苦しむのをじっと見ていない、じっとしているのは耐えられない。
 現起(現状)=苦しめ合わない(Avihiṃsā)。
 足処(近因)=頼るべきもののない状態、苦に支配される一切の人・衆生の困窮する状態を見る。

 

C.得(Sampatti:成就)と失(Vipatti:失敗)

 

1.悲: 得=心寂静、害意が生じない。
     失=悲しみが生じる。

 

D.敵、すなわちその法を破壊するライバルである不善

 

1.慈: 近くの敵=憂倶(Domanassa)、すなわち悲しみ、無念。
     遠くの敵=害心(Vihiṃsā)、すなわち怒り、不満。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「善人に対して心を痛める」という表現は誤解を招くような気がするが、まあ目くじら立てて言うほどのものではないだろう。その後の説明が素晴らしすぎるし。

 しかし、残念ながら今日はここを突っ込んでいく。書くとしたら、「善人が苦しんでいることに対して関心を寄せる」としていただけたら完璧だった。


 悲karuṇāについてはなにしろ誤解が多い。大概世の中で「優しさ」といったらこのkaruṇāのことを指すからだ。

 以前、アメリカの有名人の陽気な葬儀を見た中国の人が驚いた、という記事があった。私もさもありなん、と思った。

 だから東アジア特有なのかなぁ、とも思っていたのだが、実はスリランカも同じようなものだと聞いて驚いた。

 

 葬儀で親族が毅然と振る舞い、対応では笑顔もあって、それを見たスダンマ長老は「素晴らしい」と思ったそうだ。しかし世間の反応は様々。「なんだあいつは、親族が死んだというのに、何も悲しまないのか」と、まるで人でなしだ、みたいな言いよう。

 逆にあるお坊様の親族が亡くなった時、そのお坊様があいさつした時には感極まってしまい、もうまるで話ができなくなってしまった。こうなるとみんなは「なんと情があるお坊様か」となる。

 

 私は、それが「悪い」と言いたいわけでもない。それを「泣くな」なんて、とてもではないが言えない。

 先日ラジオでも言っていた。日本でも昔、男の人が人前で泣くのは素晴らしいことだとされた時期があった。感情豊かで情がある、ということだそうだ。


 なぜそうなるのかというと、人の苦しみに対して無関心ではいられない、という表明になるからだ。ここだけとれば、karuṇāそのものだ。さっき書いた、「善人に対して心を痛める」でも良いし、「善人が苦しんでいることに対して関心を持つ」でも良い。

 

 しかし、その後にある。

 

 近くの敵=憂倶(Domanassa)、すなわち悲しみ、無念。

 

 と。

 

 最初のうちは、別にこれが現れようが構わない。関心がないよりは関心があった方が良いに決まっている。

 しかしずっとこのままでは、問題が起こる。domanassaばかりが増えていく。それだけならまだしも、このdomanassaがあることこそが優しさだと勘違いしてしまう。私が問題視しているのは、そこだ。

 

 karuṇāが進んでいくと、他人が苦しんでいる状況においても冷静に対処できるようになる。例を挙げれば、お釈迦様だ。お釈迦様が、人の苦しみに関して嘆き苦しんで、取り乱しまくって、などという話を聞いたことがあるだろうか。いや、ない。

 お釈迦様はmahākaruṇā大悲と言われる。なぜかというと、解脱に達していない衆生に対して憐れみをもって教えを説かれたからだ。もしほんとうに小乗なのであれば、お釈迦様ひとりが解脱したのだからそれで終わりにしておけばよかった。

 そもそも正自覚者の誓願というのは、正自覚者の前で、その時既に阿羅漢に悟る能力があるにもかかわらず、それを捨てて、衆生を救うために、端的に言ってしまえばその能力を養うために決意して、無量の輪廻を修行して過ごす。その間に確かに他の衆生を助けることはあるかも知れないが、解脱に導くことはできない。なにしろ自分が解脱していないのだ。自分がさっぱりわからないロシア語をどうして人に教えることができよう。

 

 なので、テーラワーダ的には、自分が解脱に達していないのに人を解脱に導いて自分は輪廻の中に留まる、ということはあり得ない。

 

 いや、以前に聞いたことがある(もしかしたら注釈書の話だったかも)。師匠として大変素晴らしい人で、弟子が何人も阿羅漢に達していた。しかし、本人は悟っていなかった。けど本人は阿羅漢に達していたと思い込んでいた。

 

 ある日阿羅漢に達した弟子が、師匠に世間話のように言った。

 「師匠は神通でカエルを出すことができますか?」「もちろんだ。」そしてカエルを出す。
 「では師匠は牛を出すことができますか?」「もちろん。」牛を出す。
 「もうそれ以上大きなものは出せないでしょう?」と冗談っぽく言う。「いやいや、何を言う。当然出せるよ。」そして象を出す。
 弟子はふざけたような感じで、わざとらしく驚く。「おおー、素晴らしい!しかしさすがに師匠と言えども、想像上の動物は出せないでしょうねぇ」「いやいやいやいや、たやすいことだよ、そんなこと」そして巨大な龍を出す。

 

 そして龍を出した瞬間、弟子は阿羅漢に達していて能力があり師匠が悟っていないことをわかっていたのだから、その師匠が出した龍を操り師匠を襲わせた。


 師匠は驚く。と、その瞬間、弟子は師匠の右手を取り、言う。


 「阿羅漢が怖れますか?」と。

 

 そこで初めて悟っていないと悟ったw師匠にだってプライドがある。「私は静かな所に行き、3日で悟ってくる」と。しかし3日経っても、3週間経っても、3か月経っても悟れない。師匠も考え始める。「自分だけではどうも無理そうだ。そうだ、あの弟子に弟子入りしよう。あの弟子は阿羅漢に達していると言っていたし、教えてくれるに違いない。」

 

 その師匠はその弟子のところに帰って、弟子に言う。弟子入りさせてくれ、と。
 しかし弟子は、「尊敬する師匠ですから、そんなことはできません。私が阿羅漢に達することができたのは間違いなく師匠のおかげです。しかしあのような真似をしたことは謝罪いたします。懺悔を受け入れて下さい。」


 師匠は快く弟子の懺悔は受け入れたが、弟子に弟子入りすることはかなわない。ではどうすればいいのかと弟子に聞くと、「あそこにこういうお坊様がいます。あの人なら」と言うのでそちらに行ってみると、そのお坊様にも断られる。「そんなに有名なお坊様を指導するなんてとんでもない。あそこのお坊様なら」というのでそちらにも行ってみる。
 しかし当然、断られる。「いやいや、あのお坊様の師匠ではないですか。そんな方に教えるなんて、とんでもない。あちらに」(略)。

 

 もうそうとうのお坊様方のところを回って最後に7歳の沙弥の所に行き着いた。「教えてください」と。そうしたらこの沙弥は「いいですよ」と教えを説き、その師匠もやっと阿羅漢に達しました。当然のこと、その沙弥は阿羅漢に悟っていた方だった。