さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

宝経の読書感想文7

 今日でこのブログは100回目になる。

 

 まさかここまで続くとは思っていなかった。一応これまでそれなりに学んだことはあったんだなあ、と感慨ひとしおだ。

 

 お布施についてはまだ私はわかっていないが、情報については、以前から実感がある。出せば、入ってくる。有用な情報は、共有するに限る。

 

 一応自分ではその時点でできるだけ有用なものを提供しようとしてきたので、逆についてはよくわからないのだが、恐らくいい加減なものを出していれば、いい加減なものが入ってくるのだろう。少なくとも、情報については、質の高いものを提供しようとしていれば、質の高い情報が入ってくる、というのは実感として断言できる。説明はできないが…

 


 さていつもの通り、引用は富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

14.
khīṇaṃ purāṇaṃ navaṃ natthi sambhavaṃ
キーナン プラーナン ナワン ナッティ サンバワン
古い業は無くなりました、新しい業は生まれません。
viratta-cittā āyatike bhavasmiṃ,
ウィラッタチッター アーヤティケー バワスミン
心は来世に向かいません、種はもう芽を出せません。
te khīṇa-bījā aviruḷhicchandā
テー キーナビージャー アウィルルヒッチャンダー
ロウソクの火が消えるように
nibbanti dhīrā yathā'yaṃ padīpo,
ニッバンティ ディーラー ヤターヤン パディーポー
阿羅漢たちは涅槃に達します。
idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ
イダンピ サンゲー ラタナン パニータン
この理由で僧伽は宝です。
etena saccena suvatthi hotu.
エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
この真実によって幸福でありますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 ここはお釈迦様の直接の言葉だ。

 

 だからだろう、いきなり難しくなる。

 

 「古い業は無くなりました、新しい業は生まれません。心は来世に向かいません、種はもう芽を出せません」。スマナサーラ長老の話を聴いていれば、なんとなくわかるだろう。

 

 というか、アビダンマ的にも分析できるところだが、私がやるとなんかいい加減なことを言ってしまいそうなので、やめておく(汗)。

 

 まあとにかく、阿羅漢になるともう業はつくりませんよ、ということだ。善業も悪業も。しかし、他人、他の有情には良い影響を与える。ということで、善業、悪業というのは、その人本人、自分にとっての問題なのだ、ということがここからもわかる。

 

 誤解しないでいただきたいのは、他の生命に対して、例えば何かをお布施したとすれば、それは間違いなく善業だ。しかし、阿羅漢がお布施をしても、善業にはならない。まあそこら辺は、アビダンマッタサンガハをやった人ならわかりきっていることだろうが、アビダンマッタサンガハをやっていない人には、誤解されてしまうところかもしれない。阿羅漢がお布施しないわけではない。そもそもお釈迦様は法施しまくりだ。

 

 大事なのは、自分の心。極端な話、悪い心でお布施することだってできる。例えば、悪いことをするために仲間を集めたい、そのためにお布施する、なんてのはわかりやすいだろう。

 

 では自分の心だけ大切なのか、というとまたここは難しいところで、相手の徳が高ければその善行為の徳は高くなるわけで、即ち、その行為の効果が高ければ高いほど、善行為としての徳は高くなる、ということだ。そのため、いつも適用できる公式などは存在せず、結局は「その場その場に合わせた智慧」ということになる。最悪の場合、はたから見たら悪行為にしか見えないものがもっとも効果的なことだった、ということまであり得る。お釈迦様ですら、「地獄に落ちるぞ」と脅したことはある。

 

 これは智慧が無いとわからない。智慧を育てるには、仏道の実践しかない。適当に自分でアレンジしてしまうと、結果はそれなりだ。

 

 というわけで、教学はきちんと伝統的なテーラワーダを学んだお坊様から学ばないと、わからない。また、そういうお坊様でも、方便はよく使う。

 


 「ロウソクの火が消えるように」。阿羅漢の方が涅槃に達する、アビダンマ的には無余涅槃、つまり般涅槃に入る例えに、よく出てくるものだ。

 

 また、輪廻の説明にも出てくる。輪廻の主体とはなんなのか、という質問はよくある。そこで、「こちらにあるロウソクの火を、そちらにあるロウソクに点けると、それは同じ火がそちらにあるロウソクに移ったとも言えるし、違うロウソクの火だということもできる。そういうことだ」と。

 

 私などは、「結局「魂」でいいよ」なんて言ってしまうが、これを言うとほんとうにスダンマ長老には怒られる。ここがテーラワーダの肝だからだ。

 

 わからないのも当然だ。むちゃくちゃ難しい。そのシステムが見えることこそ、その輪廻の罠を見破ることこそ、テーラワーダに於ける解脱だからだ。はっきり言って、輪廻がわかったら解脱する。ここだけが決定的に他の宗教とテーラワーダが違うところであって、イコール他の宗教に比べ段違いに難しいところなのだ。大事な所だからもう一度言う。「わからなくて当然だ」。

 

 そして、先日書いた通り、これを説明するために、テーラワーダの教義は存在する。だから、いい加減なことを言っていると、その人がどこで引っかかってしまっているのか、すぐにわかる。方便かどうかも、いや、実はきわどいものも多いが、かなり以前に書いた通り、山の頂上に向かっているかどうかが判断できるので、わかるようになってくる。

 


 しかし、問題はある。

 

 以前スリランカで「私は正自覚者だ」と言っている、という出家がいる、と書いたことがあるが、少なくともそのうちの一人は、昔は大変素晴らしい説法をする方だったそうだ。だから教義にも当たり前に詳しい。

 

 しかし何かを突っ込まれて負けそうになると途端に難しいことを言い、相手をけむに巻くのだと言う。こうなると、もう素人には判断のしようが無くなってしまう。知識豊かな人が「それは違いますよ」と言ったところで、もう「負けない」のだから、どうにもしようがなくなる。

 

 だからお坊様方も、「ああいうのはどうですか?」と質問があれば「あれはね」とは答えるし、僧伽としても「外で説法するのはやめなさい」と言うのが限界で、その出家だってお坊様だから「はい、わかりました」と、どうするのかというと、自分のお寺で説法をする。そこまでは止めることはできない。信者さんはそのお寺にわんさか集まっているそうだ。

 

 まあ私はシンハラ語がわかるわけではないのでその人がどういうことを言っているのかわからないが、恐らく全部が全部変なことを言っているわけではないのだろう。しかし「自分が正自覚者だ」と言うためには、それなりにだいぶ教義も変えないと筋が通らなくなる。変えているのかも知れないし、その矛盾を突かれると、途端に難しいことを言い出すのかも知れない。そこまではわからない。

 

 どうやら、自称阿羅漢も多いようだ。そういうのに騙されないように、教学はきちんと学んでおくことをお勧めする。私はよく知らないのだが、日本にもすでに現れ始めているらしいではないか。

 

 世間で「良い」とされていることと、テーラワーダで「善い」とされていることは、もちろん同じことも多いが、違うことも多い。きちんとその区別は付けておかないと、仏道の実践自体が覚束ない。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

15.
yānīdha bhūtāni samāgatāni
ヤーニーダ ブーターニ サマーガターニ
地上、空に悪霊たちよ、集まっていますか?
bhummāni vā yāni va antalikkhe,
ブンマーニ ワー ヤーニ ワ アンタリッケー
天人、人間、皆が尊敬する
tathāgataṃ deva manussa-pūjitaṃ
タターガタン デーワ マヌッサプージタン
釈迦牟尼如来である佛陀に礼拝(らいはい)しましょう。
buddhaṃ namassāma suvatthi hotu.
ブッダン ナマッサーマ スワッティ ホートゥ
それによって幸福でありますように。

 

16.
yānīdha bhūtāni samāgatāni
ヤーニーダ ブーターニ サマーガターニ
地上、空に悪霊たちよ、集まっていますか?
bhummāni vā yāni va antalikkhe,
ブンマーニ ワー ヤーニ ワ アンタリッケー
天人、人間、皆が尊敬する
tathāgataṃ deva manussa-pūjitaṃ
タターガタン デーワ マヌッサプージタン
如来の法(ダンマ)に礼拝しましょう。
dhammaṃ namassāma suvatthi hotu.
ダンマン ナマッサーマ スワッティ ホートゥ
それによって幸福でありますように。

 

17.
yānīdha bhūtāni samāgatāni
ヤーニーダ ブーターニ サマーガターニ
地上、空に悪霊たちよ、集まっていますか?
bhummāni vā yāni va antalikkhe,
ブンマーニ ワー ヤーニ ワ アンタリッケー
天人、人間、皆が尊敬する
tathāgataṃ deva manussa-pūjitaṃ
タターガタン デーワ マヌッサプージタン
如来の僧伽(サンガ)に礼拝しましょう。
saṅghaṃ namassāma suvatthi hotu.
サンガン ナマッサーマ スワッティ ホートゥ
それによって幸福でありますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 これで、悪霊たちとも仲良くなれる。

 

 私などは、「いや、そんなのごめんだ…」と思ったものだ(笑)が、仲良くなってしまえば、大変可愛いものもいる。もちろんかわいくないものもいる。絶対に二度と関係したくない、というのもいる。しかし、以前も書いたように、例えば慈悲の冥想を日常的にしている人なら心あたりがあるだろう、協力してくれる畜生がいるように、協力してくれる悪霊(やっぱりネーミングがよくないかなあ)もいる。

 

 しかし、「愚か者と仲良くしないこと」。人間と同様、悪霊にも、絶対に関わってはならない(少なくとも我々は聖者のように智慧や憐みがあるわけではないのだから)類の者もいる。そういう者たちと距離を置くテクニックを身に付けることも、大切なことだ。

 

 「どんな生命とも仲良くしなさい」とは、テーラワーダでは言わない。

 


 100回の記念に、ちょうど宝経が終了で終わり。